| 人物・用語辞典 |
| 応天門炎上事件 (おうてんもんえんじょうじけん) 866年(貞観8年)閏3月10日 |
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御所の門が放火されたという事件だが、謎の多い事件でもある。門が焼けることは、公卿諸侯にはたいへんショッキングな事件であり、数日後、伊勢大神宮を始め、全国の寺社に大祓いや読経をさせるほどであった。 いきさつは、当日の夜に朝堂院正門の応天門から火の手が上がり、両翼の棲鳳楼(せいほうろう)、翔鸞楼(しょうらんろう)まで焼け落ちる大火事となった。 その後、放火犯を告発する者が現れた。大納言・伴 善男である。真犯人は左大臣・源 信(みなもとのまこと)とする善男は、右大臣・藤原 良相(ふじわらりよしみ:良房の弟)と共に信を包囲し始めた。しかし、無罪を主張する信を処罰せぬように、太政大臣・藤原 良房が天皇に訴えて、一旦は騒動が治まる。 しかし、真犯人がわからないまま5ヶ月が過ぎたある日、「伴 善男が火をつけるのを見た」と証言するのが現れた。大宅 鷹取(おおやけのたかとり)という身分の低い役人であった。告発した当人が訴えられたのである。現役の高級官僚2人(天皇を除く政界No2=左大臣とNo4=大納言)が告発されたのだから、朝廷内は大騒ぎとなる。 対応に苦慮する若干17歳の清和天皇は、外祖父である藤原 良房を正式に摂政として任命し、事態の収拾を図るように命じる。良房は善男を拘束して取り調べを始めた。 しかし、この最中に、伴 善男を訴え出た大宅 鷹取の娘が殺害されるという新たなる事件が起こる。この犯人として、伴 善男の家臣である生江 恒山(いくえのつねやま)を逮捕し、応天門事件の追及も同時に行った。別件逮捕である。過酷な取り調べの中で、生江は「放火は主人の善男と、その息子の中庸の共謀によるもの」と白状してしまう。 良房は直ちに善男を放火犯と断定、土地財産はすべて没収し、善男・中庸父子は伊豆へと流された。 |
| ▼ 事件の真相・・・? ▼ |
| The Dictionary of History |