おやすみなさい、と花が咲くような二つの可愛い声で挨拶をされて、サンジはいつものように身悶えるよりまず、心の底からほっと安堵した。その声の持ち主は、片方がつい3日前まで高熱にうなされ生死の境をさまよっており、もう片方は国難に身を灼きながら懸命に微笑み続けていたのだから。
だから「おやすみ」と優しく返したその声は、いつものように浮かれた叫び声ではなく、ひどく甘くかすれがちのものだった。二人のレディは一瞬顔を見合わせて、お互いがやや赤面気味なのを確認すると、こらえきれずにクスクスと笑い合った。いつもああだったら格好良いのに、サンジさんったら。本当にねぇ。そんな囁きを交わしながら、年頃の少女たちが軽やかにキッチンを出て行く様を、サンジはニコニコ笑って見送った。あんな風に楽しげに過ごしてくれるなら、サンジは心の底から喜んで道化になれるのだ。
――終わったんだな。
実際には、ビビの苦難は何一つ終わってなどいない。だが少なくとも、目の前で仲間が死に瀕していながら何もできない、そんな苦悩は終わりを告げた。ビビにとっても、あの気の強く愛らしい世界一の航海士は、この船でたった一人の女友達だ。そのかけがえのない絆が断ち切られずにすんだことは、あの王女をこの上なく癒してくれることだろう。
――終わったんだ……
もう大丈夫だ。そう心につぶやいた瞬間、情けないことに手が震えて、サンジは洗っていた皿を流し台に置いた。置いたというより、落としたといった方が良いしぐさだった。大きくため息をつくと、背中の縫合跡が今更じくじくと疼きはじめた。
毎日めまぐるしく働いているサンジには、ひとつの事件が終わったという実感がひどく遅い。巨人の島から出て、とにかく飯を作り始めたらナミさんが倒れて、とにかく飯を作り始めたら海賊船が襲ってきて撃退して、とにかく飯を作り始めたら陸地について、背骨がやられて、怒涛のように戦闘と治療が終わって、眼が覚めたらトナカイがいて、そしてサンジはとにかく飯を作り始めたのだ。
――まったく、気の休まる時がねえ。
それでも今日は、この皿を洗い終えれば久しぶりにゆっくり手足を伸ばして休むことができる。ナミさんの航海日誌を読ませてもらいながら、怒涛の一週間について思いをはせてもいい。リトルガーデンでの狩り勝負からはじまって、そして、


「……ああ」
うつろな嘆息と共に、サンジはのろのろと、視線の動きだけで調理台を見渡した。
「何か……まだ、あったな」
台所仕事など、探せばいくらでも出てくるものだ。サンジの視線は、チェックを終えていない在庫台帳へと向かった。明日でも良いかと思っていたが、時間のあるうちにやってしまった方が良いだろう。
まったく、気の休まる時がない。ゆっくり眠る暇もない――……


見張り台の手すりに危なげなく腰掛けて、ゾロは両脚をだらりと下に垂らしている。その脛には骨まで達する深い切り傷があり、小さな船医の器用な手で、しっかりと縫合し直されていた。
チョッパーは包帯を巻いてくれたが、ゾロは傷跡を潮風に晒していたかった。ひりひりとしたむず痒さが、この冷たい潮風で癒されていくような気がしていたし、何より、こんな綺麗な縫合の跡を隠しておくのは、なんとなくもったいないような気がした。
――すげえ船だな。
愛らしい羊の船首、まるで金持ちの道楽のような小さな船。そこに乗り合わせる者たちの、なんと恐ろしい職人揃いであることか。ルフィという男がいかに天に愛されているかを、それは如実に語っているではないか。
――そしておれの天運もだ。
ゾロはそんな己の気概に、照れを覚えて苦笑した。
あの絶対の危機のさなかに、ゾロはルフィに見出された。ルフィに見出されることによって、ゾロの「世界一」という野望は突如、生々しく身に迫る未来となった。ひとりであてもなく旅をしていた頃には望みようのなかった苦難と、試練と、……それらを共に超えてくれる存在を、天運はゾロにも与えてくれた。
――この船は、おれをまだまだ強くしてくれる。
この船を、その乗組員を、この三本の刀で護ることができるようにと、ゾロは鍛え上げられていくのだ。その自覚は不思議な昂揚をゾロにもたらした。
だが、
「……?」
その視線が船を見渡し、操舵室の丸窓を見咎めた瞬間、ゾロの心は翳りを覚えた。部屋の灯りがまだ落ちていないのだ。
「何やってんだ、あいつ」
それほど忙しいはずもないのに、最近のサンジは男部屋にもほとんど戻ってこない。まるで何かに怯えるように、己の城に――キッチンにこもりっきりで作業を続けている。
振り返り、三本の刀がおとなしく、並んで立てかけられたままなのをゾロは確かめた。ただ、鬼徹が唸っている。船内に満ちる誰かの不安を嗅ぎ取って、ハイエナのように猛っているのだ。
「……おめえはおれの血を十分吸ったろ。寝とけ」
念のため、三本ともごろごろと見張り台の中に倒しておいて、ゾロは丸腰のまま、ひょいと飛び降りた。操舵室の前の手すりに、ルフィを真似て音もなく着地する。
そのまま丸窓から中をうかがって、ゾロは眉を寄せた。サンジは食糧置き場に座り込み、そのままの姿勢で麻袋のひとつにもたれかかって眠っている。確か中には根菜類が入っていたような気がするが、通常のサンジなら、食材に体重をかけて寝込むことなどありえない。
だらりと力を失っている手、その傍らに台帳らしきものが落ちていた。
やっぱり疲れてんじゃねえか。そうつぶやいて、ゾロは降り立つと扉を開けた。隅に丸められていた、仮眠用の毛布を取り上げる。食糧をつぶして寝ていては、起きた時におそらくサンジは落ち込むだろう。その程度の気はゾロでも遣う。
「おい、」
起きろ。そう言おうとして、だがゾロは不意に黙り込む。
背筋を、鳥肌にも似た何かが走り抜けた――悪寒だ。
一流の剣士であるゾロは、他人の「気」に対する傑出した感応力を持っている。その力がゾロに、サンジの異常を感じ取らせた。サンジは死んだように眠り、ピクリとも動かない。何もおかしいことはない。だが、ゾロは常日頃そうであるように、己の勘を信じた。
「おい、起きろ! 起きろクソコック!」
ゾロはきっちりボタンを閉じたサンジのベストに手をかけ、力を込めて揺さぶった。ぐったりと顔をあおむけたサンジの、彫像のような寝顔が不意にゆがむ。
「……う、」
「眼を開けろ!」
「う……うあああああっ!」
深すぎる睡眠が強制的に浅められた瞬間、ようやく意識が肉体に接続されたのだろう。見開かれたサンジの、灰青色の眼は灯りの下ではあまりにも青が濃すぎて、今更ながらにゾロは驚いた。イースト・ブルーよりむしろ、ノース・ブルーの人間に多い特徴だと頭のどこかで思ったが、身体は暴れるサンジを押さえ込もうと勝手に動いていた。狂気のような悪夢が、その青の中にくっきりと見て取れたためだ。
「ゾ、ゾロッ……!」
「ああ?」
押さえ込む自分を振りほどこうとしたサンジの、その一言にゾロは思わず律儀に返事をしてしまった。正気に戻ったのか、と力を緩めて額に頭突きを食らう。ゾロは混乱の中でくらくらとのけぞり、かろうじて後ろ手をつくと身体を支えた。座り込むような体勢のまま、サンジを見返す。
ぎらぎらと光る灰青色は焦点も定かでなかったが、覗き込めばさすがに、ゾロの姿を視認したようだった。何だ、おれに気づいて呼びかけてきたんじゃねえのか、とゾロは眉を寄せる。もともと苦みばしった顔であるだけに、困惑してそんな表情になると実に恐ろしい顔になった。
「……ゾロ」
かすれきった声に怯えが混じる。
「疲れてんだよ、お前」
「ゾロ、おれは」
こんなに名前を連呼されることなどないゾロは、むず痒くすらなってますます眉間のしわを深めた。その悪相に気づくこともなく、取り乱すサンジは身を乗り出すようにしてゾロの肩を掴む。骨が軋むほどの力だった。
「食ったんだ、おれは」
「なに?」
「お前の……」
視点が定まらない。サンジはまだ夢を見ているのか。それもゾロの夢を。
「おれの、何だよ」
「お前の足を……食った」


怯えゆがんだ灰青の眼の中に、自分の呆れ顔が映っているのをゾロはしばらく眺めていた。忘れていた脚の痛みが、熱を伴って蘇りはじめたことさえ、どこか他人事のようにぼんやりと遠く感じられた。
サンジはそんなゾロを哀れむように、ものがなしい眼で見返した。ムッとすることも忘れて、ゾロはサンジと、サンジの眼の中の自分をただ眺めていた。
「何であんなことしたんだ、お前」
サンジの手が、掴んだままの肩を力なくゆさぶる。
「ああ? お前とにかく落ち着け――」
「足なかったらもう、お前……海賊やれねえじゃねえか」
――『海賊』?
おれは「海賊」である以前に「剣士」だ。そう思いながらも、ゾロは目の前の、自分を見ているような、見ていないような不安定な眼差しに向けて、ごく自然に言い返した。
「んなこた、やってみなきゃわからねえ」
「……」
眠たげにひとつまたたいて、サンジは黙ってゾロの次の言葉を待っている。こいつまだ寝てんだな、とゾロは勝手に決めつけた。
「やれねえかなんて、やってみなきゃわからねえ。そうだろ」
「……おれが足を食っちまっても、海賊をやるのか……お前」
「海賊ってか、剣士だがよ。やるだろ、普通に」
なぜナミもこいつも、あんなに目くじらを立てるのだろう。ゾロにはまったく理解できない。両脚を失った人間が最強を目指せないというのは、絶対的な真理なのか。誰が試して失敗したところで、ゾロはまだ試したことがない。誰に不可能だったとしても、ゾロに不可能だと決まったわけではない。
か弱い女の身で、最強を目指すと誓ってくれた人もいるのに、脚をなくしたからといって諦めることなど、どうしてできようか。
「それに、見ろ」
ゾロは片方の――右足の靴を脱ぎ、その脚を見せつけるように、サンジと己の間に割り込ませた。膝を立てた状態で、脛の辺りを自ら軽く叩いてみせる。
「別に誰にも食われちゃいねえ。おれの足ァ、ちゃんと揃ってる。揃ってないよりは揃ってる方がいいのは、たしかだ」
ぐいとズボンの裾を引き上げれば、サンジは手を伸ばして不思議そうに、指先でゾロの膝から脛をたどった。言いようのないざわざわした感覚に、ゾロの唇がわずかに震える。気力でそれを押さえ込み、口をへの字に曲げて睨むも、サンジはまったく気づかない。ただひどく満足した様子で、折り曲げられた膝を両手で抱え込んだ。
「お、」
ゾロの身体がぐらりと揺らぐ。いい加減面倒くさくなってきていた剣士はそのまま、サンジが自分を引き寄せるに任せて床にごろりと転がった。サンジはゾロの右脚にかじりついたまま、力尽きたようにゾロの上に倒れこむ。ちょうど、腹筋を枕にする形になった。
「……おれぁ、左足も斬ったんだがな……」
しかもあの時左手に持っていたのは鬼徹だ。明らかに左足の方が深手なのに、サンジは幸せそうに右足だけ抱え込んで転がっている。ったく、とつぶやいてから、まるで左足も撫でろと催促してしまったような気がして、ゾロは己をいぶかった。
悪夢は遠ざかりつつあるのか。サンジの身体から力が抜け、ゾロに重くもたれかかる。
そして、
「……クソジジイに、」
とろとろとまどろむ声で、サンジは小さくつぶやいた。
「クソジジイに、この足見せてやりてえよ……」


ゾロはようやく、この男が自分と何を重ねているのかに思い至った。
「なるほどな……右足にばっかり、こだわるはずだぜ……」
あのレストランのオーナーが、なぜ片足を失ったのか、その理由などゾロは知らない。ただ、サンジはあの男の為に、バラティエにすべてを捧げるつもりだったのだという。
おとなしく腹の上に預けられた、サンジの金髪をゾロはなんとなく、くしゃくしゃとかきまわした。このクソコックは、あの親代わりの男の足を食って生き延びたのかもしれない。それが比喩であろうと、事実であろうと、ゾロにとってはどうでも良いことだった。
サンジはまどろんでは目覚め、腕の中にゾロの脚が納まっていることを確認してはまたまどろんでいる。もしかしてこいつ、おれが脚をぶった斬ろうとしてる瞬間に、茶ァ飲んでくつろいでたのが引っかかってんのかな。そう考えてゾロはひとり、小さく笑った。ゾロもまた、この男が死に掛けている瞬間に、暢気に寒中水泳などしていたのだ。それでもゾロの脚も、サンジの背骨も無事につながっている。
「まぁいいさ」
小さく欠伸をして、ゾロは頭の下で枕代わりに腕を組んだ。
「気が済むまで、さわっとけ」
きっとサンジは目覚めてさぞかし決まりの悪い思いをするだろう。でもそれだってお互い様だ。ゾロも、その決まりの悪い思いを存分にさせられている。悪夢から醒めればこのクソコックが覆いかぶさり、胸の大傷が開かぬよう身体でかばって気絶していた時などに。
何だって、お互い様なのだ。助けるのも助けられるのも、悪夢から叩き起こすのも叩き起こされるのも。
「……大丈夫だ」
丸窓に、外から影がさしている。そう、大丈夫だ、お前ももう寝ろ。視線と指の動きで伝えれば、影は消えてまた、丸窓からは月光がさんさんと降り注いだ。


「……どうでした?」
「よくわかんないけど、大丈夫みたい」
「そう……」
天井の扉をパタンと閉めて、ナミはほの暗い灯りの向こうに笑いかけた。ビビは控えめに微笑み返し、そっと胸に手を当てる。
「珍しくないのよ、こういうのって」
ビビには、自分の都合でクルーに精神的重圧を与え続けているという負い目があるのだろう。それを察してナミは、なんでもないことのようにそう言ってみせた。
「そうなのかしら」
「そうよ。ゾロだって、怖い夢見てぎゃあぎゃあわめいたりするもの」
「ミスタ・ブシドーが?」
「そ。最近はなりを潜めたと思ったら、今度はサンジ君」
やれやれよねー、と肩をすくめてみせてから、ナミの笑顔はやや悪びれたようなものに、微妙に変化した。
「……あたしもビビも、そうじゃない?」
ビビは困ったように苦笑して、「ええ」と頷く。
誰もが、悪夢に悲鳴をあげる夜を乗り越すことで、ようやく前へと一歩を踏み出す。まるで大きな波を必死で超える、はかない小船のように。ナミとビビは二人っきりの同室者だ。お互い、うなされる相手を揺り起こしてやったことも、一度や二度ではなかった。
「もう寝ましょ。明日にはなんでもなかったような顔してるわよ、二人とも」
今日はナミがソファ就寝の番だ。さっさとソファに潜り込んだナミは、ビビの優しい「おやすみなさい」を受け止めて瞳を閉じた。
閉じた瞳の、その裏に蘇る風景がある。
――あたしが、もっと早く気づくべきだったな。
あれは狩り勝負とやらの後始末を終えて、サンジとゾロが甲板に上がってきた時のことだった。靴を脱ぎながら甲板を血で汚すゾロに、「おいお前、また怪我してんのか」とサンジはあの眉をいぶかしげに寄せた。その時に、腹を立てていたナミは言ってしまったのだ。
『こいつ自分で斬ったのよ。ルフィがあと一秒遅れてたら、脚がなくなっちゃってたわ』
言ってからナミは、突如サンジの頭が視界から消えて驚いた。サンジは甲板の上に座り込み、きょとんとナミを見上げていた。まるで自分の身体に今、何が起こったか理解できていないような顔だった。そのままサンジはゾロに顔を向け、ほら見ろ、てめえの血ですべっちまったじゃねえか、と悪態をついたのだ。
……自分が腰を抜かしたことすら、気づいていないかのように。
覗き込んだキッチンで、必死にゾロの右足にしがみつき、丸くなっているサンジの姿をナミは見た。サンジはゾロの右足だけを、怯える子供がぬいぐるみを抱きしめるように、ただひたすら抱えていた。ゾロは両脚とも怪我をしたのに。
ナミはあの料理長の、右足の義足を覚えている。サンジが仲間になってから、「あのオーナー、義足だったわね」と、何かの拍子に尋ねてみたこともあった。あの時のサンジは「ああ」とどこか痛そうに笑ってから、
『自分で潰しやがったんだよ。おれのせいで』
とだけ言って黙り込み、ジャガイモの皮むきに専念するそぶりを見せた。ナミはそれから、あの義足のことをサンジに聞いたことはない。
――強すぎるのよ、あんたたち。
ウソップやビビ、チョッパーなら、眼を配っていてやらなければと思う。ルフィはまた別の意味で、放っておけない人間だ。だがサンジやゾロはあまりに強すぎて――その生き様さえ力強すぎて、時にナミは忘れてしまうのだ。
あの一歳違いの男たちにも、気の狂わんばかりの悪夢にえずく夜があるのだということを。
――頼ってよ、もうちょっとぐらい。じゃないと頼りにくいじゃない。
まどろむ意識の中でそう悪態をついた時、コーザ、とうめく細く苦しげな声が聞こえてきて、まどろみは霧散してしまった。ビビに「コーザって誰?」と聞いたことはない。それでもナミは起き上がり、ベッドのビビを軽く揺すった。
「ねぇ、ビビ」
「あ……え……ナミ、さん……?」
「一緒に寝ていい? あたしも怖い夢を見そう」


答えを待たずにベッドに潜り込んでくるナミに、ビビはこつんと肩をくっつけた。
夢の中で父を斬り殺した反乱軍のリーダーは、今夜はもう現れそうになかった。