世界が敵だと聞いたって、いまさら何一つ驚くことなんてありはしなかった。
今日は本当に、夜通し走ってばっかりだ。こんなに雨が降っているのに、咽喉はからからに干上がって、気のせいか血の味すら混じり始めていた。
「……アッ!」
着地した靴が勢い良くすべり、せいいっぱいの受身を取りながらナミは転がる。どうしてこの街の家の屋根は、こうも丸く造られているのだろう。走りにくいことこの上ない。屋根に八つ当たりしながらそれでも、ナミは跳ね起きて立ち上がった。
短いスカートも、高い踵も、海に出てから彼女がずっと通してきたスタイルだ。気取ったご婦人なら走ること自体かなわぬこの靴で、彼女は自在に甲板を駆ける。今も、またひとつ屋根から屋根へと飛び移り、彼女は再び走り出した。
「何よ、」
胸いっぱいにたぎる怒りは火の息となって、はぁはぁと彼女の咽喉を焼く。
「何よ、世界なんて、」
視線の先にあるのはひときわ高い二棟の建物。その狭間に見える人影は、間違いなく、彼女の唯一無二の船長だ。
「世界なんて、……世界なんて、何よ!」
――列車を降りて!
咽喉も裂けんばかりに叫んだ、己の声を思い出す。
――私達! 誰とだって戦うから!
馬鹿な船長。伸ばしたその手を突っぱねられて、たじろいだところを敵に叩き潰されて、まるで腹が減った時のように、すっかり力の出し方を忘れてしまっている。
「世界なんて、何よ……!」
エニエス・ロビーは世界の玄関。
……それがいったい何だというのか。
ロビンは何もわかっていない。世界一になるべき男たちの船で、二回も大冒険をしたのに、何一つわかっちゃいないのだ。28歳にもなってなんて恥ずかしい女だろう! ナミは煮えるような憤りの中でそう思う。
だからナミが、ロビンに教えてあげなければならないのだ。
あの船はずっと、世界を敵に回し続けてきたのだということを。
8年前のナミにとって、世界とはココヤシ村のことだった。世界を奪われ、世界を取り戻すためにナミはひとりで戦い続けた。
海に出て、世界の広さを知った時もなお、世界とは「東の海」のことに過ぎなかった。ナミが世界で一番殺したかった男は、その「世界」を覇する男だった。ナミは世界を取り戻すために、世界を敵にして、死んだほうがましな8年間を這いつくばって耐え抜いた。
国が170個集まっているから、そこが「世界」だなんて、いったい誰が決めたのか。ナミにとってはあの村と、あの島と、そこを支配する男たちと、……その男たちがナミのために作ったあの部屋が、愛憎余りある「世界」のすべてだったのだ。
これ以上進めない。ナミは喘鳴と共にたたらを踏んだ。
馬鹿な船長。あの時ナミの懇願に応えて、ナミの世界を救ってくれた、求められればどこまでだって強くなる、ナミの、世界一の男。
「世界なんて……!」
世界とは、すなわちこの男が手に入れる予定のものだ。なのにどうしてこの男は、こんなところに挟まっているのか。怒りがどっと、眼から水になってあふれ出る。そして声は咽喉を裂いた。
「ルフィーーーーーーー!」
あの日あの東の海で、「世界」を敵に回した男。
ナミのために、ナミを取り巻く「世界」のすべてを壊してくれた男。
何度だって、何処でだって、この男は大好きな人たちのために、「世界」を敵に回すだろう。ビビにとって、世界はアラバスタ王国だった。ルフィはアラバスタを支配する男すら敵に回したのだ。
たかが国が170。ナミもルフィも知りもしない、じかに赴くことなど一生あるかどうかもわからない、そんな国が170集まったって、いったい何が怖いものか。
「あんたがグズグズしてる間に、」
ナメられてるのだ、この男は。たかが170の国の集まりに、たやすく負けてしまうような男だと、仲間であるロビンにすら思われているのだ。ナミの唯一無二の男が、ナミの「世界」を支配する男が!
「ロビンが連れてかれちゃったじゃないっ!」
ロビンは、
ロビンも、……ルフィやゾロやウソップやサンジやビビやチョッパーのようにロビンも、ナミの「世界」そのものなのに。
大好きなロビン、
いつもとても素敵なものを見るような眼で、クルーの馬鹿騒ぎを見つめていてくれるロビン。
他愛のない日常をとても喪いがたいものであるかのように、いとおしそうにほほえんで見守っているロビン。
仏頂面のゾロに、眼を輝かせるチョッパーに、ハートに埋もれるサンジに、震えるひざで虚勢を張るウソップに、ぐいぐいとロビンを引っ張るルフィに、
……男どもを女王のように従えどつきまわしながらも、どこかでロビンを頼らずにはいられないナミに、
どこまでも、宝物に向けるような眼を向け続けてくれていたロビン。
助けて! 世界一の男にナミは吼える。
あの日そう泣き叫ぶ私を助けたように、
私の「世界」をすべて壊して、私の「世界」を取り戻してくれたように、
ロビンの「世界」をすべて壊して、ナミの「世界」にロビンを取り戻して。
そしてナミの目の前でアクア・ラグナは天高く牙を剥き、
聳え立つ二塔はたったひとりの、世界一の男の手に屈服して崩れ落ちた。
「私の敵は……『世界』とその『闇』だから!」
張り裂けるような告白にも、いまさら何一つ驚くことなんてありはしなかった。
ナミの隣には、世界一になるべき剣士が昂然と腕を組んで佇み、その隣には、世界一になるべき船長が、可笑しいほどに同じポーズで仁王立ちしている。世界を踏みつけ、その頂点に悠然と立つことを生涯の夢とする男たちが、いまさら「世界」の二文字にどうしてたじろいだりするだろう。特に胸に大傷を抱え込むあの男なんて、もうとっくの昔に「世界一」に剣を向けてしまったのだから。
捨てるに決まってる、そう叫びながら全身で、ロビンは「捨てないで」と哭いている。馬鹿なひと。馬鹿なあなたに教えてあげたい。ナミは二人を隔てる距離の遠さを呪いながら彼女を見上げる。
教えてあげたい。たかが170の国を、「世界」だなんて言いやしないのだということを。
教えてあげたい。
あなたの「世界」は、見たこともない国ではなく、あなたの目の前の6人なのだということを。
燃え尽きる旗にはもはや視線すらくれることはなく、ナミは武器の準備をする。
あの日船長がナミにしたように、
ロビンの「世界」をすべて壊し、ロビンの「世界」を取り戻し、
ナミの「世界」の欠けたピースを取り戻すための戦いを。