秋島のすさぶ夜風が、左の奥歯をぎりぎりと痛みに締め上げた。こういう景気の悪い風は、幻肢をうずかせる。傷が風に当たって痛むのではない。失った腕そのものが痛み、その痛みが脳まで突き抜けるのだ。
10年の時を経ても、痛みが消えるということはない。だが、痛みとのつきあい方は、さすがに覚えるようになっていた。
酔い覚ましと言い訳をして甲板に立ち、眼窩をえぐるような痛みをぼんやりと、放心してやりすごす。痛みは、かつてそこに腕があったことの証だった。喪った腕の代わりに、救い得たものの証だった。だから放心する口元には、時折、笑みのようなものすら浮かんだ。彼は度しがたいその痛みを、愛してもいるのだった。
「珍しい客だな」
甲板はシャンクス一人だ。見張りは立っているだろうが、シャンクスを見守ってはいないだろう。痛みとのつきあい方を覚えたのは、シャンクス本人だけではない。さして不機嫌になったというわけでも、落ち込んだというわけでもないのに、こういう時、船長に声をかけるクルーはいなかった。
痛みに身をゆだねるよう、傷跡ひきつる瞼を閉じ、シャンクスはつぶやくようにその名を乗せた。
「――“鷹の目”」
ぼう、と緑の炎が揺れる。
ひとつ波をかぶればたちどころに沈むような、棺のふたを開けただけのような、そんな小さなボートだった。そこに十字を立て、黒き帆を張り、陰鬱に座り込んだまま、するすると海を進んでいく。天変地異も日常茶飯事である「偉大なる航路」、そのただなかを進むこの男が、遭難したという話を聞いたことがない。人魂のようなその緑の灯を見ただけで、海王類すら逃げ惑うとの、もっぱらの噂だった。
「棺船」と、呼ばれている。棺が運ぶのは、屍だ。だがこの棺に「しかばね」は載らぬ。「屍」から「しかばね」を抜いたものが――つまり「死」が――飛来しすみやかに届けられるのだった。
甲板より視認しうる距離に、その緑の炎を見た――そう思った時にはすでに、その男は甲板にたたずんでいた。素肌にはおった伊達男のコートが、冷えた風にばたばたと、不吉な音をたてていた。目深にかぶった漆黒の帽子、気障な角度でかぶったそれの豪奢な羽根飾りも変わっていなかった。背には帽子よりも、背後の海よりも更にくろぐろと暗い、漆黒の十字架が背負われていた。
十年の昔から変わることなく――人型の「死」が、そこにはあった。
「機嫌が悪ィな。どうした?」
立場的には敵であるこの男が、ひとりでふらりとシャンクスの元を訪れる。それはたいてい、よっぽどシャンクスに知られたい――多くは「見せびらかしたい」ことがある時に、限られていたはずだった。十年前までは、遇えばよく殺し合いになった。十年前までは――シャンクスのこの左腕の先に、がっしりと剣を掴むことのできる、たくましい左手がきちんとついていたその時までは。
片腕の貴様には殺す価値もないと、この男は言う。上り調子の若きシャンクスに、黒き刃を向けていたあの頃、この男はたのしげであった。少なくとも、暇つぶしを探して生きるようなことは、していなかった。それを思うと、胸は痛む。胸を追うように、腕も痛んだ。
いつかは、来ることもあるのだろうか。喪った腕の代わりに生かした「未来」が、この男から暇を忘れさせる、その時が。
男は黙ったまま、黒帽の下から射るような目を、じっとシャンクスに向けている。皇帝の傲慢さが、生来のものであるかのように、よく似合う、シャンクスにとっては数歳ばかり年上の男だった。数歳しか離れておらぬのに、「小僧が」と言いたげな顔をされたことも、かつてはある。若さとは、たった数歳の差をずいぶんと遠く思わせるものなのだった。
「……飲むか?」
腰につけていた銀のスキットルを外し、シャンクスは軽く振ってみせた。帽子の下であごを上げ、あおるような目を向けて、男はそのスキットルを一瞥する。貴様がどうしても飲ませたいというなら飲んでやっても良い、という無言の首肯を受けて、シャンクスははいはいとスキットルを投げてやった。
受け取り、男は片手にそれをもてあそぶ。シャンクスは小さく肩をすくめた。燐光のように立ち上る、死の気配。無限の刃の頂点に立つ、たったひとりの大剣豪。その気まぐれさや奔放さときたら、群れのカシラを立派に勤め上げているシャンクスなどとは、比べものにならない勢いだ。少なくともシャンクス自身はそう思っている。ベン・ベックマンあたりにはまた、別の言い分があったことだろう。
「白ひげと」
潮に灼けたようにかすれがちな、低い声が耳に届いた。
「やりあったそうだな」
「ん? ……まァな」
その話か、と、シャンクスは残った右手であごを撫でる。相変わらずいい声だ、とも思う。剣士にはこんな、低く押し出すような声の男が多い。その声から押し出された気合が跳ね上がり、人は死ぬ。……この男に気合を出させるような剣士も、もう長く存在はしまいが。
「戦争をな。止めたかったんだ」
ちょっと珍しい酒を飲んでみたかった、という程度の気軽さであるかのように、シャンクスは言った。
「その結果が、あれか?」
「そう言われると、返す言葉もないな」
屈託なく苦笑した、と表現するには、シャンクスのその笑みには苦さがまさった。エースは黒ひげに捕らわれ、白ひげとは喧嘩別れだ。戦争はもはや避けられない。七武海が召集されたという情報も、入っている。
そこまで考えてからシャンクスは、「あれ?」とのんびりした声を張り上げた。
「そういやお前、七武海じゃなかったっけ?」
わざとらしい話の振り方に、帽子のつばの下で男は片眉を跳ね上げる。シャンクスは首をかしげ、実に害なさげに片手を広げて笑ってみせた。
「……あの働き者のくまが」
「あァ……“暴君”な」
「召集を伝えに来た」
政府の手先となっているかのごとき、くまの振舞を、興味はなくとも多少のいぶかしさは感じるのだろう。「働き者の」という言葉にこの男らしい皮肉を感じて、シャンクスは目を細めた。
渦中の虜囚エースと密接な関係を持つ、ある小さな海賊団。シャンクスだけでなくミホークも、その海賊団にはただならぬ興味を抱いていた。それゆえに答えは予測しているのだが、それでもあえてシャンクスは尋ねた。
「行くのか?」
「なぜおれが行かぬと思う」
「……人間ってのは、自分に都合のいい未来を描きたがるもんなんだよ」
ため息をつくと目の奥に痛みが走り、シャンクスはかすかに息をつめた。その覇気のゆらぎを感じ取ったであろう男は何も言わず、やがて、視線をそらして、墨を呑んだような夜の海を眺めやった。
「貴様にしては、気の利いたことを言うものだ」
「ん?」
痛みはほんのわずか、思考をにぶらせた。その顔を見つめなおしてようやく、シャンクスは男の口元の硬さに気づいた。海の果てをにらんだまま、男は言った。
「召集を伝えに来たついでに、くまが言わでものことを告げていった」
「言わでものこと?」
「くだらぬことだ」
ぎぃ、と男の口元がひきゆがんだ。あざけるようなその口元のまま、男は吐き捨てた。
「たかがたわむれにかけた期待が。死んだの、死なぬとの――」
口を開き、一度言葉を呑み、だが、ややあってシャンクスはその名を乗せた。
「ルフィんとこの。……ロロノア・ゾロか?」
あざけるような口元のまま、あざけるように男は笑った。答えは、それで充分だった。
「朝に華々しく名乗りをあげ、夕に路傍の犬のごく死ぬ。ルーキーなど、その程度のものだ。わかっていたはずだった。……おれも年をとったものだ」
「おれは三十代だが、お前はもう四十代だからなァ」
茶化して言ったシャンクスの言葉に、ぎろり、と金色の目が向けられる。はっはっは、と無駄に笑ってみせてから、シャンクスは声を改めた。
「本当か?」
「奴が手を下したそうだ」
「首を取ったんなら、海軍が手配書を取り下げるだろう。確か一億超えの首だ、新聞だって黙っちゃいない」
つい最近にも、麦わらの一味の手配書は更新されたばかりだ。エースの捕獲があれだけ大々的に新聞沙汰となるように、億超えのルーキー死亡となれば多少は社会を騒がせることになる。だが、シャンクスのもとにまだ、その報は入ってきていない。いくら新世界で好き放題に生きているとはいえ、そこまで世界の動向に疎いわけでもなかった。
男もまた、公的に死を確認したというわけではないのだろう。シャンクスの指摘に、直接に言い返すことはなかった。
「貴様の気に入りをかばって、代わりに命を差し出したと聞くぞ」
ぎろりと剥いたままの、ぎろぎろした目で男は言う。シャンクスはまた肩をすくめた。
「それでおれに八つ当たりをしに来たのか」
「貴様に八つ当たりして気が済む程度のことか。うぬぼれるな」
「くだらぬことのわりに、こだわるなァ」
暢気に語尾を延ばしてから、男が刀の柄に手をかける前に、シャンクスは言葉を継いだ。
「お前が見込んだほどの男じゃないか。もう少し、信じてやれよ」
海に顔を向けたまま、横目でシャンクスをしばし睨みつづけ、だが、やがて男はスキットルの栓を片手で抜くと、ぐいとあおった。火を噴くようなラムを、水のようにかっと飲み下す。栓を戻すと、いささかきつすぎる勢いでシャンクスに投げ返してきた。
「おれは行く」
すべてのことに興味を失ったかのような、低い、人型の死そのものの声に戻って男は言った。
「いくさにか」
答えはなかった。背は向けられ、燐光のようにほのぐらい気配が、ふ、と揺らぐ――消える、と思った瞬間に、とっさにシャンクスは声をかけていた。
「おい、」
背を向けたまま、男は動きを止めた。
なぜそんなことを言おうと思ったのか、シャンクス自身にもわからない。「彼」とエースは違う海賊旗を仰いでおり、特に「彼」は船長だった。現れるはずがない、と思うのが普通だった。だがその一方で、シャンクスの知る「彼」ならば、必ず現れる、という気もするのだった。
「ルフィに遇ったら、その時は――」
シャンクスは口を開けたまま、言葉を切った。手加減してやれよ、と言える立場でもなく、言うのは「彼」――ルフィへの侮辱にもつながった。結局、シャンクスは言葉の続きを、冗談にまぎらわせようとした。「よろしく伝えてくれ」とでも言おうとしたその時、男が、肩越しに振り向いた。
「おれの期待は、死んだ」
ひえびえと光る、異名の由来となった、猛禽類の眼差しだった。
「貴様の期待にも、死んでもらうか――“赤髪”」
墨を呑んだような海を、緑の光がゆらゆらとただよい遠ざかっていた。最後まで、見張りにその存在を気づかせることはなかった。聡い副船長どのあたりは、何かを感づいていたかもしれない。だが、互いに無傷で済んだ今となってはもう、こちらから言い出すべきことでもないはずだった。
ゆるやかに、鈍重にすら見える動きで、あの男が世界一の黒刀を振り上げ、振り下ろす。見えているはずなのに避けがたく切り込んでくる、ゆるゆると流れ落ちる刃の線。それを思い出して、シャンクスはひとり、瞳を閉じた。
嵐の中に、飛び込んだ蟻一匹が、飛来するその「死」を避けうるとはとても思えない。それでも、
「おれは、信じるさ」
――本当はお前だって、そうしているんだろう。
死んだと、心から思っていたならば、あのように未練げな愚痴などこぼすはずもない。乾ききった一瞬の絶望ののちにはもう、その名ごと忘れ去っているような男だ。期待は死んだと口では言いながら、その刃がわが身に迫る日を、心の底では信じている。
――おれもお前も、生半可な男に期待をかけられるほど、楽な道を歩んじゃいないんだよ。
腕から背を抜けて、脳髄に突き抜けた痛みを、振り払うようにシャンクスは大きくマントを振った。
“白髭”の出陣にともなって、新世界にはキナくさい臭いが漂いはじめている。“赤髪”も旅立つとなれば波乱は必至だ。その前に一振り、火の粉を払っておく必要があった。
「行くかい、お頭」
闇の中から、声がかかる。驚く様子もなく、シャンクスは振り返って笑った。
「ああ。おれもそろそろ、船出の時間だ」
影の如く佇む副船長の、野太い声が宴の終わりを宣言した。船の方々で喚声がわき、男たちは猿の如く、身軽に帆柱へと躍り上がった。突き抜ける痛みを奪い去るように、風がシャンクスのマントを巻き上げて吹き抜けた。それを夜闇に見送る大頭の口元には、やはり、その痛みを愛するような笑みが浮かんでいた。