港での買出しも終わり、サンジは新鮮な食材を相手に思う存分腕を振るっている。そう広いとも言えないキッチンで、すらりと背筋を伸ばした後姿は鮮やかな、洗練されつくしたリズムでダンスを披露した。誰が見ていなくとも、その仕事には一筋ほどの手抜きもない。
大テーブルのナミは、航海日誌の執筆に余念がない。サンジが皿を並べる前には、書き終えてしまおうと思っているらしく、ペンの進むスピードは速い。甲板からは、カンカンと鎚の音が聞こえてくる。ウソップが新兵器とやらの開発をしているのだろう。
キッチンはコックの聖域だ。その聖域でコックが聖務に勤しむ時間帯に、ナミがこうしてペンを走らせているのは少し珍しい。サンジは時折、ナミに甘い声で話しかけながらも仕事の手を休めない。ゴミをほとんど出さないままに、料理は着々と仕上がっていく。
「ねぇナミさん」
軽薄な男は軽薄な声で、話のついでのように尋ねた。
「あいつら、いったいどうやって仲間になったのかな?」
「あいつらって?」
そら来た。ナミはそんな思いが声に出ないよう、日誌を眺めて気のないそぶりを作った。サンジは気づかない。ただ肩が、すくめられるように揺れた。そのジェスチャーで、考える時間を稼いだのだろう。
「あいつらだよ……おれより前に、ここにいた奴らのこと。まぁウソップは自分からべらべらしゃべってくれるもんで、いまさら聞くって必要もないんだが」
「ってことはあたしもその中に入っているのかしら?」
船長ルフィがクルーを集めた順番は、ゾロ、ナミ、ウソップ、そしてサンジだ。この男は、海上レストランとは比べ物にならない小規模のキッチンにあっさり溶け込んだように、海上レストランとは比べ物にならない小規模のこの海賊団にも、あっさり溶け込んだかのように見えた。だがナミは気づいている。サンジは料理に手を抜かないように、人を見る眼にも手を抜かない。人を知らないと、その人の為の料理は作れないということなのだろう。鉄火場に生きてきた者、特有の用心深さもあったかもしれない。
そういう意味では、このコックは彼が今まさに、珍しく不器用に聞き出そうとしている男と似ていないようで似ているのだ、とナミは思う。あの悪役そのものの、だが不思議に濁りのない笑い方をする男もまた、ナミのことを実に用心深く眺めていたものだった。
「勿論でっす! ナミさんの出会い話、聞きたいなぁ」
その声に嘘がないことを確認して、ナミは満足する。これ以上じらしていては、サンジの精神衛生上良くない。特に彼は、女性相手に決して機嫌を悪くすることはないから、苛立ちは己の奥深くにこもってしまうだろう。何もかも好き放題しているように見えて、ナミはサンジにけっこう気を遣っていた。あれだけ尽くしてもらっていれば、当然のことではあるのだが。
「ゾロと、」
わずかにサンジの背筋が動いた。忙しく働く手だけは揺るがない。
「ゾロとルフィがどうやって仲間になったのかは、誰も知らないの。あたしが会った時は、もうあいつら一緒だったもの。海賊狩りのくせに、海賊とつるんでて当たり前って顔してたわ」
「あァ、じゃあやつらはつきあい長いんだ」
ジャッ! と小気味良くフライパンの上で野菜が躍る。それを見ながら、「ううん」とナミは苦笑した。このことを思い出すといつも、ナミはゾロとルフィに微妙な苦々しさを覚えてならない。ナミも始めて会った時、サンジと同じ感想を抱いてしまったからだ。
当たり前のように「ルフィ」「ゾロ」と名前を呼び合い、眼を見交わしてチカリと笑いをひらめかせるだけで、後は好き勝手に一人で動き、なのに何一つ齟齬が生じぬ二人。
「あたしが会った時、あいつら出会って一週間ぐらいだって言ってたわ」
サンジの手が止まった。やがてサンジは何事もなかったかのように、火を止めてフライパンの中身を皿に移しながら「へぇ」と相槌をうち、それきり黙りこんだ。


サンジがそんなことを聞き出してきたのは、午後のティータイムのことが引っかかっていたからだろう、とナミは思っている。ウソップがルフィに、昔飼ってた猫の話をしていたのだ。その猫は町でも有名な、体長1メートルはある野良の極道化け猫だったが、偉大なるキャプテン・ウソップの人柄に心酔して、町を巡回した後には必ずウソップ様の家に立ち寄り、挨拶をすませ共に飲み交わす仲になったのだという。
体長1メートルだのはともかく、猫がウソップを気に入ったのは案外嘘でもないだろう。この愛すべき嘘つきには奇妙な魅力があった。猫も放っておけなくて、巡回ルートに組み込んでしまったのかもしれない。
「感動するもんだぜ、ルフィ」
不思議なほどに狙撃を外さぬその眼を、きらきら輝かせてウソップは、猫がはじめて自分の手から餌を食べた時のことを話した。誇り高いその野獣に何度引っかき傷を作られたことか。その野獣が、差し出した手の先のメザシを実に悠然と、「苦しゅうない」とでも言いたげに食してみせた時の、その時の喜びといったら。おれは長の片思いが実ったんだぜ、ルフィよ!
「ふぅーん」「へぇー」と、いつもの通り一口で食い終えてしまったアップルパイのかすを皿から舐めとりながら、適当な返事をしていたルフィの、話の聞かなさっぷりもいつもの通りだ。甲板のテーブルについていたナミも、そのナミに給仕するサンジも笑った。だがルフィは何を思ったか不意に、ひどく真面目な顔になって己の右手を眺めたのだ。
その眼が納得に見開かれ、「あぁ」と、すとんと嘆息を吐いたのでウソップもわずかに身体を引いた。
「な、何だよルフィ」
「あぁ、おれわかった」
「え?」
「そうだよな、嬉しいよなウソップ」
まるで今、はじめてその事実に気づいたとでも言いたげに、ルフィはその大きな真ん丸い眼を不思議そうにウソップに向けて言った。
「おれも嬉しかったもんな。ゾロがおれの手からメシ食った時」


阿鼻叫喚の甲板の隅で、己が話題になっていると気づきもしない剣士は暢気に、大いびきをかいて寝ていたのだった。


その後何を聞いてもルフィの答えは要領を得ず、ただこの上なく上機嫌でひとり「ししししっ」と身体をゆすって笑っているものだから、どんなシチュエーションでゾロとルフィがそんな行為をする経緯にいたったのかはまったく不明のままだった。ただサンジが、綺麗に空になった皿を回収しながらひどくきつく眉をしかめたのを、ナミは見逃さなかった。
出会ってからまだ間もない仲間だが、サンジが知っていてナミが知らないゾロ、というものも既に存在している。ナミがアーロンパークへ向かっている間に、いつの間にかゾロの身体に刻まれていたあの惨い傷。
何があったのか、仲間は詳しく語ろうとしない。ゾロは「敗戦の傷だ」と言った後に、ナミに斜めに視線を投げて「聞きてぇのか」と尋ね返した。その表情を見て、ナミは尋ねることをやめた。ゾロが己の敗戦を詳しく、一太刀ごとに記憶を再生しながら実に詳しく、話して聞かせてくれるつもりなのだと理解したからだ。
それは敗戦の屈辱を忘れぬ為の、ゾロなりのけじめに違いなかった。そんなものにつき合わされるのは真っ平だったし、ナミはなぜか、ゾロがそこまで完膚なきまでに叩きのめされたのだということを、自分の耳に入れてしまいたくはなかった。
ナミの知らぬそのゾロが、サンジの心の何かを揺さぶったのだろうということは、ナミには想像がつく。それはゾロがトレーニングを終えて、むかつくほどにあっさりと、上半身裸になって汗を拭いている時にふと、その傷に走るサンジの視線が語っている。
ルフィ、ゾロ、サンジ。三者三様に、その気になれば船団の主になることなどたやすい男たちだ。それがこうして一船に会し、互いのことに興味を持って、獣のように相手の匂いを嗅ぎあっている。そのことはナミを少し愉快にさせた。ナミは「彼らの航海士」であり、この男たちは即ちナミの男たちでもあるのだから。


「野郎ども、メシだ!」
サンジの声に、ルフィは船尾から一気にキッチンへと転がり込んでウソップをなぎ倒した。欠伸と共に「おう」と間延びした声がして、ゾロがふらふらとルフィの後から入ってきた。
サンジが来てから、ゾロの食生活は一気に規則正しいものへと矯正された。「おれぁ眠いんだよ」と最初の頃こそぶつくさ言ったゾロだったが、不思議と、食生活のことについてサンジにそれ以上反抗はしなかった。出されたものもきちんと食べ、可愛いことに「いただきます」と「ごちそうさま」も欠かさない。時には「うまかった」とつけ加えることもあった。
多分ゾロは、「職人の仕事」が好きなのだろう。軟派丸出しのサンジそのものは気に入らないようだったが、サンジの料理は気に入っているらしい。
「ねぇゾロ」
隣に座ってもしゃもしゃと満足げに米の飯を咀嚼している、無邪気な男をナミはひじでつついた。「んん?」と、飲み込むまで口は開かずゾロはナミを見返す。この男はもしかしたら、けっこう厳しい躾を受けてきたのかもしれない。
「あんた、ルフィの手からご飯食べたことあるってホント?」
反射的にウソップが「うわっ」とゴキブリでも見つけたような声をあげる。ゾロは「何だそりゃ」と口の端を下げた。サンジは忙しく、空いた皿と新しい皿を交換している。前髪が長いので表情がうかがえない。
「食ったよな! 海軍基地で」
こちらは何一つテーブルマナーの身についていないルフィが、魚のフライを噛み砕きながらにかりと笑う。骨の砕ける音が盛大に響いたが、魚もそこまで綺麗に食べてもらえて満足だろう。ちなみにナミのフライはもちろん骨など最初から入っていない。その代わり、ルフィの前に三人分の骨せんべいが積んであった。既に空になっていたが。
海軍基地、と言われてゾロは片方の眉を上げた。「あぁ」と合点の声を上げるが、同時に仏頂面に変わる。
「ありゃ仕方ねえ。おれぁ縛られてた」
「あんた、縛られたままご飯食べたの……? 何なのその状況?」
縛り上げられたゾロが地べたにはいつくばったまま、ルフィの手を皿に飯を食う。ナミは想像して後悔した。ウソップは既に前面の皿にだけ一心集中し尽くしている。実に賢明だ。
「何なのって、なぁ」
面倒くさげにゾロはフライをかじる。やっぱり、骨の砕ける音がした。サンジはひとりひとりの歯の力を見抜いているらしい。
「縛られてたから、自分じゃ拾えなかったんだ」
仕方ねえだろ? と同意まで求められてナミはため息をついた。どういう屈辱全開の状況だったのか、もはや想像もできない。
「おれは嬉しかったぞ、ゾロ!」
マイペースこの上なく船長は宣言し、「そうかよ」と剣士は苦笑した。だがそれだけにとどまらず、恐ろしいことに船長は、自らの皿から鳥のから揚げをひとつ掴み上げて、「ん」と向かいのゾロに力いっぱい突き出した。
「……ンだこりゃ」
「やる! 食え!」
ダイニングが凍りついた。
ルフィが自分の食事を誰かに分け与えるということも驚愕だったし、それ以上に、この話の流れでいけば明らかに、ルフィがゾロに何を要求しているのかも明白でそれも驚愕だった。ゾロは呆れたようにから揚げとルフィを見比べたが、口をついて出たのは実に常識的な、それでいて致命的にずれた答えだった。
「おれの皿にもちゃんとあるさ。いらねえよ」
ルフィが「こいつ反抗しやがった」という目つきになると同時に、ゾロの皿の上のから揚げは消え去っていた。
「あっ、てめっ」
「ん!」
口をゾロの皿のから揚げでいっぱいにしながら、もう一度ルフィはゾロに己のから揚げを突きつける。「しょうがねえな」と漏れた剣士の呟きを聞いて、ナミはいやな予感で胸がいっぱいになった。
こういう時のいやな予感というものは、実に良く当たる。
ゾロは顔を前に突き出し、鼻がルフィの親指にぶつからないよう小首までかしげて、ルフィの手から口でから揚げを受け取った。


どん! と、ゾロとルフィの間のテーブルに、ひんやり冷え切ったサラダの大皿が落下する。
「……遊んでねえで、さっ、……さと食え阿呆ども!」
最初は不吉なほどゆっくり区切っていた言葉を、語尾近くで一気に爆発させてサンジは踵を返す。
「何だあいつ」
ゾロが不満げにうなったが、ルフィはすっかり、新しい料理に夢中で返事をする様子もなかった。


綺麗に並べて水を切った皿を、布巾を携えたサンジの手は綺麗に拭きとって傍らに積み上げていく。その手がふと、夕食に使ったサラダの大皿を取り上げた。人並みはずれたカーブのその眉が、ぎゅっと寄せられてサンジの後悔を如実に示す。料理とは惜しみなき愛の発露だ。その料理を全身で受け止め完成させる食器にだって、八つ当たりなどして良いはずがない。
「すまん」
反省の証として、大真面目に大皿を両手で掲げると頭を下げる。
「おいサンジぃっ」
タイミングの悪いことに、ルフィが扉を元気良く蹴り開けたのはその瞬間だった。
「……ルフィかよ」
「なーにやってんだ? おまえ」
何やら皿を大仰に崇めている様子のサンジに、ルフィはきっかり90度首をかしげる。
「おれは今、邪険にしちまった皿に対して心の底からの謝罪を捧げていたところだ。これで明日の朝食に最高のサラダを盛りつけてやりゃあ、きっと機嫌を直してくれる」
この船のクルーは、お互いの奇行に対して異様に寛容だ。それを理解しつつあるサンジは、動じることもなくそう答えた。おれのちょっとした奇行なんて、他の奴らに比べたら大したこっちゃねえ、とサンジは開き直っている。おそらく他のクルーたちも、互いにそう思い合っていることだろう。
「ふーん」
全然聞いていないのが丸わかりの声で、ルフィは相槌を打つ。そしてそのまま己の用件を一方的に切り出した。
「なぁ、メシ」
「夕食はいやになるほど食ったな?」
「まだ食えるぞ」
「夕食の次は、翌日の朝食だ。そう決まってる」
「夜食があるじゃねえか」
なんでこいつは、こういう単語だけ綺麗に覚えてくるのだろう。サンジは忌々しげに食器戸棚を閉めながら、ルフィを振り返った。
「なぁーサンジー」
メシ、メシ! ルフィは駄々っ子のように食卓の椅子に飛び乗って、そのまま椅子ごと身体をがたんごとんと揺らし始めた。珍しく聞き分けが悪い。ため息をついてサンジは身体をルフィに向け直す。
「いいかゴムザル、よく聞けよ」
「ゾロに持ってくんだ!」
説教をしかけていたサンジの唇は、ひゅっ、と息を吸った状態で止まった。
「夜食だ、サンジ。ゾロに夜食をやるんだ」
まるでそれがとてもすごい思いつきであるかのように、勢い込んでルフィは言った。
気づけばフィルタを焦がしかけていた煙草を、サンジは灰皿に押しつける。にじってから手を離し、ルフィを斜めに見下ろした。
「んで? てめぇはここで夜食をおれからまんまとせしめ、あのクソ剣士に船長お手ずからそれを食わせてやるって算段か?」
「あ?」
「気持ち悪ィ真似してんじゃねえぞ。あいつは……」
言いかけてサンジはふと、その言いかけた言葉がすとんと腹の中に落ちていく感触に気づいた。
「……あいつは、てめぇの飼い犬じゃねえんだぜ」
イースト・ブルーに「魔獣」とその名をとどろかせた、海賊狩りのロロノア・ゾロ。
荒くれ者の行きかうバラティエで、サンジは多くの客を見てきた。だが、ゾロのような男は見たことがない。良い意味でも悪い意味でも、誰にも似ていない男だ。
他のどんな奴が同じ生き方をしても、あっという間にのたれ死んでいただろう。ゾロだから、あの生き方で生きてきた。サンジにとってゾロはこの上なく稀有な男で――同時に、意識せずにはいられない同い年の『仲間』だった。馬鹿だ、早晩のたれ死ぬのが関の山だ、危なっかしいことこの上ない野郎だ、と、悪罵を重ねながらも、サンジはゾロの鮮烈な生き様に驚嘆し、そして、……恐らくは憧れた。
だが、と、サンジの眼が、きょとんとこちらを見返すままのルフィに向かう。
同じように、いや恐らくはそれ以上に、こよなく天に愛された男がここにいる。
未来の「大剣豪」が、自ら海賊に身をやつしてまで選んだ「船長」。己の刀一本(ゾロの場合は三本だが)で、いくらでも軽やかに海を渡っていけるはずの男が、どうしてたかが一船の戦闘員に甘んじているのか。
……そして自分が、あのバラティエの副料理長が、どうしてたかが一船の料理人に甘んじているのか。
ルフィはサンジの言葉に、「へぇ」とでも言いたげにきょとんと軽く口を尖らせた。だが、何か納得のいく説明をしないと、サンジが夜食を作ってくれないらしい、ということはかろうじて理解したらしい。
「飼い犬とか、そんなんじゃねえけどよ。ゾロが初めて、おれの手から飯食った時さ」
その時のことを思い出したのだろう、ルフィの声に苦笑のようなものが湧いた。
「あん時おれが食わせたのは、リカの作った砂糖入りの、泥でぐちゃぐちゃの握り飯だ。ゾロは縛られてて、十日間近くメシ食ってなくて、それでもすげえ強かったけど、身体はボロボロだった」
「……なんだそりゃ」
「ゾロはそれ食って吐きそうになって、見てておれはドキドキしたんだ。なぁサンジ、メシ食わせるってすげえな」
ひとりで完結したルフィは、闇を呑んだようなその墨色の眼を輝かせて唐突にサンジを見た。キラキラ、と言うには覇気がありすぎて、ギラギラ、と言うには曇りのなさ過ぎる眼差しだった。
サンジはその眼を気おされぬように睨みつけ、「そうだよ」と低く唸った。
「メシ作って食わせるってことは、そいつの血肉を――生命そのものを作ってやる行為だ。生半可なことじゃねえ」
「今、ゾロに、その『コウイ』をしてるのはおれだ」
ニィィ、とルフィの唇がつりあがる。
「世界一の剣豪になる男に、おれがメシを食わせてるんだ。おれの狙撃手がもらった船を、おれの航海士が動かして、おれの料理人がメシを作って、それをおれがゾロに食わせて、世界一になるイノチを作ってる。……リカのメシじゃねえ、どろどろの砂糖メシじゃねえ、サンジの作った、世界一のメシをおれがゾロに食わせてる!」
高らかに言ってルフィは両手を掲げた。まるでそこに世界のすべてを手に入れているかのように。
「サンジ! お前のメシをおれはゾロに食わせるぞ! 作れ!」
サンジは目を見開いた。彼の眼前、小さな木の椅子に胸をそらせて胡座しているのは喰い盛りの少年ではなく、彼の――
彼に君臨する、彼の王者だった。


「おれのメシが、」
世界一を。
言いかけたその言葉はあまりにも衝撃的で、サンジはそれを飲み込んでしまった。
「そうだ! できねえのか?」
挑むように笑ってルフィの輝く黒瞳は、サンジの色薄い瞳を射抜く。
問われた言葉に矜持がかっと燃え立って、色の白い、整った頬に血の気がのぼった。
「クソ生意気言ってんじゃねえ。おれを誰だと思ってやがる」
靴音荒くルフィに背を向け、サンジは音高く棚の戸を引き開けた。
「ようし、サンジっ」
「黙れクソゴム! 作るメシの量も献立もすべてはおれの判断領域。てめえがつまみ食いして喜ぶ為に作るわけじゃねえ。第一、今も甲板で生傷晒してトレーニングに励んでるような野郎にはまず食事より水だ、水!」
ミネラルウォーターの瓶を取り出し、携帯用の樽ジョッキにあけるとレモンや塩を加えていく。即席のスポーツドリンクを作り終えると、流れるような足取りで冷蔵庫へと向かった。既に、調理台の上には包丁が綺麗に並んでサンジの手管を待っている。


「ゾーローっ」
グラスや皿を捧げ持ったまま鮮やかに甲板上を飛翔し着地する――そんな芸当ができるのはサンジだけだ。だからルフィは常のように一足飛びに甲板に跳び移る、というわけにもいかず、ばたばたと階段を駆け下り、そして向かいの階段を駆け上っていった。皿ががくがくと揺れる。そんなこともあろうかと、一口サイズのロールサンドやサーモンロールはあらかじめ、しっかりと銀の楊枝で留めつけられていた。
サンジはルフィの後を追うでもなく、調理器具を片づけ終えてから、エプロンを外してキッチンの外へ出た。すぐ眼前の手すりに手をつき、くわえ煙草のままため息のように、細くゆるゆると煙を吐く。
船首側の甲板の上、500キロの錘を投げ出してゾロは大の字になっている。さすがに、長時間のトレーニングにはまだ身体がもたないらしい。その傍らにルフィはしゃがみこみ、サンジが教えたとおりに、まずは樽ジョッキをぐいとゾロに突き出した。
何かを話しているらしいが、波の音で聞こえない。だが、仰向けに寝転がったままのゾロは不意に、首をめぐらせてまっすぐサンジの方を見た。月明かりの遠目の中、それでもサンジはなぜかはっきりと、視線が合ったことを感じ取った。
サンジは闇の向こうの視線に己の視線を絡ませた。ゾロが後ろ手をついて背を浮かせ、何かを言いかけるように、唇を開いたのが見えた。
その唇に、ルフィが手の中の樽ジョッキを突きつける。ゾロは驚いたように身を引きかけたが、ルフィは構わずそのままジョッキを押しつけた。歯がぶつかるガチリという音までが、サンジの耳には聞こえたような気がした。……激情に任せた口づけのように。
ゾロはルフィを睨みつけ、だがやがて、身を起こしかけた体勢のまま、その咽喉仏を上下させた。口の端から飲み込み損ねた水がこぼれ、シャツの上に滴るさままでをサンジははっきりとその眼に認めた。ルフィが何かを言ったようだった。あの陽性の暴君が何を言ったのか、サンジは聞かずとも理解した。
『こぼすなよ』
まるで飲み込めなかったゾロが悪いとでも言いたげに、ルフィはそうゾロを責めたのだろう。その水の一滴はサンジの血の一滴に等しいのだ。また、ルフィは常に、ゾロに多くを要求する男だった。
とうとうゾロは顔を背けてむせ込んだ。「てめぇっ」と荒げられた声がサンジの立つ場所まで聞こえてきた。ルフィはしゃがみ込んだまま、己の剣士に向けて何かを放胆に言い聞かせている。サンジからは、ルフィの唇の動きは見えない。
そしてルフィは銀の楊枝に刺さったサーモンロールを取り上げ、夕飯の時のように断固として、ゾロの唇にまたそれを突きつけた。ゾロが手を伸ばしてそれを奪おうとすれば、ひょい、とゴムの能力で避け、またすぐゾロの唇へ持っていく。何度かそれを繰り返し、ゾロはようやくあきらめたか、おとなしく口を開いてみせた。
月明かりの下、飼い主のごとく振舞う眼前の男に、こうべを差し出した剣士。その唇が獣のように手を使わずに歯でくわえ、ぐ、と引いて己の身体の中に取り込んだのは、サンジが作り上げた料理だ。
それがあの口の中で咀嚼され、唾液とどろどろに溶け合って、そして、嚥下されて食道を下り、胃に落ちて貪欲な細胞に栄養を搾り取られていく。
世界一となるべき身体の、血肉を作り上げるために。


「あァ……」
サンジの唇から、煙草が落ちる。そのことすら気づかぬままに、サンジは掠れた声でうめいた。
「……もう、イキそうだ」


それこそは料理人の本懐。
一度や二度の射精とは比べ物にならぬ、食に溺れ、食に焦がれ、食に淫す真の料理人の絶頂。


剣士の咽喉は暴君の手で動き続ける。
その健やかな身体を巡る、己の供せし肉をサンジはただ、凝視し続けた。