「ほんっとに医者要らずだな、てめえ」


チョッパーがはじかれたように顔をあげた瞬間、サンジは二秒前の己の発言を悔いていた。
大きく見開かれた、ビーズ玉のようにつぶらに黒い獣の眼が、みるみるうちにおろおろと忙しく左右し始める。
「ゾ、ゾロ、ゾロはおれいらないのか……?」
「あー……」
あほう。とサンジをひとにらみして、ゾロはバーベルを振る手を止める。
そして面倒くさげな、見方によっては困惑したとも見れる表情で、がしがしと己の頭をかいた。
「そんなこたぁ、ねえよ」
「ゾロ……」
チョッパーは怯えたようなまなざしでゾロを見上げている。その眼が如実に語っている言葉を、ゾロともチョッパーとも等辺に離れたサンジは正確に読み取った。
『おれのこと捨てないで』
要らなくなれば、要らない子は捨てられるだけ……そう確信しているような悲しい、必死な眼差しだ。幼い日の自分を思い出させるようで、サンジは胸が疼いた。
「……おれぁ、助かってる。お前の仕事にはな」
それだけを言ってゾロはバーベルを置き、物言いたげな、じれったいような眼差しを一瞬、チョッパーに投げた。みかんの樹の向こうから、お気に入りの剣士を呼ぶ船長の声がする。確かに何か言いかけていた、その言葉を飲み込んで、結局ゾロは「おう」と船長の声に応えた。おれがこの場にいなければ、もっと素直に色々言ってやれていたのかと、サンジはゾロに問いかけてみたくなった。


サンジがゾロを「医者要らず」と皮肉ったのは、チョッパーに他意あってのことではない。むしろ、この剣士がチョッパーの忠告をろくに聞きもせず、アルバーナで毎日己の身体を苛め抜いたことは、サンジにとってはいかにも腹の立つ行為だった。サンジは人間に換算しても少年の域を出ぬあのトナカイに、同じ「プロ」の誇りを見出している。それだけに、ゾロがチョッパーの忠告を何一つ聞かないのは、サンジの作ったバランス満点の食事を食べないのに勝るとも劣らぬ冒涜だ、と思えた。
食生活の件について、ゾロはサンジに逆らわない。それをサンジは理解していたが、ならばチョッパーにも逆らうべきではないと考えた。コックとしてのサンジに従うように、医者としてのチョッパーにも従うべきではないのかと。
だからサンジは二人のレディへのお茶の給仕を終えた後、わざわざ甲板のゾロのもとに出向いてまで、「医者要らずだな」と口論を吹っかけたのである。そこから、「患者が医者に逆らうんじゃねえよ」と、説教に持ち込むつもりだった。
だがサンジは気づかなかったのだ。ガチャガチャとうるさい音を立てるバーベル、その陰に眼を輝かせた当の船医が、憧れの眼差しでゾロの怪力を見上げていたということに。
「……まずった……」
ゾロが船長に遊ばれてやりに後部甲板に移ってから、サンジは口の中でつぶやいた。チョッパーはしばらくもぞもぞと床板を眺めていたが、やがて首をいっぱいに曲げてサンジを見上げた。思いのほか、揺れていない眼差しだった。
「サンジ、」
人間には出せない、透明な声でチョッパーは言った。
「サンジ、おれ、ゾロみたいな奴知ってるんだ」
「へぇ?」
かがみこんで視線を合わせてやると、チョッパーは訴えるようにサンジを見返した。
「怪我しても、眠って治しちまうんだ。医者の手なんて借りない。人の手を借りて治ったって、そいつらはその後に生き抜いていけないんだ。自然に直さないと、生き抜く力が弱っちまうんだよ」
「そりゃ確かにあいつに似てるな。チョッパーはそんな患者を持っていたのか」
「うん」
泣きたそうな顔でチョッパーは笑った。
「野生の……獣たちだ」
サンジの向ける笑顔が凍ったのを見て、小さな船医はとうとう俯いた。
「変な話だな、おれはトナカイで、ゾロは人間なのに、やってることは逆みたいだ。おれが一生懸命治そうとしても、ゾロは寝て、食って、動いて治そうとばっかりする」
そのつぶらな、懸命な眼が見えないのは淋しくて、サンジはかがんでいた腰を下ろし、しゃがみこんだ。チョッパー、と軽く呼びかけてやれば、不安がる子供の眼が――患者を案ずる医者の眼がサンジを見る。誰よりチョッパーを可愛がっているのはあの剣士のはずなのに、誰よりチョッパーを悩ませる駄目患者もまたあの剣士なのだ。その矛盾は笑うしかない。
「あのクソ剣士はずっと『魔獣』と呼ばれててな……実際、たったひとりで、獣みてえな生活をしてきたんだ。狩って、食って、寝て……獣と違うのは、その上に自分を苛めて強くなろうとするってことだけか」
「うん……おれわかるぞ」
チョッパーは、ゾロの身体からは鉄のにおいがすると言ったことがある。そして鉄のにおいは血のにおいにとてもよく似ていた。
そうかわかるか、と、くわえ煙草のままニカリと苦笑してサンジは言葉を継ぐ。
「あいつぐらい強けりゃ、そりゃひとりでも生きていけるだろうさ。だがあいつはただ強いだけじゃいけないんだ。何せ世界一になる男だからな。ただの『魔獣』で終わってもらっちゃ困る」
サンジは初めてゾロを知った時の、あの衝撃を思い出す。ゾロが完膚なきまでに敗北するという、人生の中でも数度も見られないであろう光景を、よりによってサンジはゾロに出会ったその日に目撃したのだ。
そしてゾロが血を吐くように――いや、本当に血を吐きながら叫んだ言葉は、サンジの魂に烙印のように刻み込まれた。
「飯もいい加減な店のもんばかり、栄養もろくに考えてねえ、怪我すりゃ筋肉の継ぎ目も考えずにでたらめに縫い合わせ、我流のトレーニングでSMプレイに興じる、それでも最強になれる奴なんてなぁいたらお眼にかかりたいんもんだ。だがなチョッパー、考えてみろ」
サンジは顔を近づけ、内緒話の声音を作った。どきどきと顔を寄せてくるチョッパーの、その丸い眼に笑顔と煙を吹きかける。
「奴が今、毎日規則正しい時間に食ってるのは、おれの作った最高の、栄養バランス満点の飯だ。おれに出会う前のあいつじゃねえ。今のあいつの血肉を作ってるのはおれの飯だ。おれぁあいつの身体を、おれに出会う前のあいつとは段違いに整えてやってる」
「サンジの飯は世界一だもんな!」
「そうさ」
最高の賛辞を怖じることなく受け止めて、だがサンジはその不適な表情のままチョッパーの額をちょんとつついた。
「そしてその身体が壊れないよう管理するのは、だれの仕事だ?」
「それは、もちろん医者の仕事……」
言いかけてチョッパーはまるで今気づいたかのように叫んだ。
「おれだ!」
「そうさ」
両手でがしりと角を掴み、サンジはそのままがくがくとチョッパーの頭を揺さぶった。
「こいつぁすげえ話だぜ。おれとお前の、プロの仕事が、ゾロの身体を作るんだ。ただのコックとドクターじゃねえ。世界一の剣士の身体を作るってんだから、当然、世界一の料理人と、世界一の医者でなくちゃならねえよ?」
「お、お、おれが世界一になるのか」
「そうさチョッパー、ドクター・チョッパー。躾のなってねえ獣がちょっとなつかねえってだけで、うなだれてる暇なんざあると思うか?」
「おれ、……おれ、」
チョッパーの口が、息苦しさを覚えたかのように開いて、はっと強い呼吸をした。
「おれ、ゾロのとこ行って来る! ゾロの診察してくるぞ!」
「ようし行け!」
バシン、と桃色の帽子を叩いてやると、チョッパーは意味なく人型になった上に、うおおう! と一声たくましく吼えた。
新たな煙草に火をつけながら、その場にしゃがみこんだままサンジは、後部甲板に飛んでいくチョッパーの、その威勢の良い姿を笑って見送った。すぐにその頭の中には、今日の夕飯の手順がずらりとリストアップされはじめる。世界一の海賊団を構成する、世界一の海賊たちの身体を作るために。


人獣型に戻ったチョッパーが、ぱたぱたと後部甲板への階段をのぼるちょうどその頭上を、ひょいとルフィは飛び越えていった。ちょうどサンジが夕飯の支度をする時間だ。今日のメニューを聞きに行ったのだろう。
「おうチョッパー!」
頭上からひらりと投げかけられた声に、チョッパーは急いで真上を見、そして反り返ろうとしてこてんと転がった。
「ゾロぁ寝ちまったぞ? ぜーんぜん起きやしねえんだ」
悪魔の実の能力者は一般に、通常より高い治癒能力を誇る。ゾロのような傷跡も、その身体には残っていない。彼らの愛する船長はひょいと手すりに着地して、チョッパーを振り返った。チョッパーは慌てて立ち上がる。
「おれ、ゾロの診察するんだ」
「そっか! よろしく頼むな」
この子供っぽい、だが一船を負って晴れやかに笑う船長には、船員たちは「彼の」船員たちであるという確固たる意識があるらしい。特に彼はゾロに向けて、一途なほどの所有者意識を誇示することがあった。これはおれの剣士、おれのゾロ。船長はそう悪びれずに宣言し、そしておもちゃを自慢する子供のように、ゾロを敵に見せびらかして高々と笑う。ルフィにとってゾロは既に、世界一の剣士なのかもしれない。
そしてその笑いのままルフィはあっさりと、どきどき自分を見上げる船医に向かって言い放った。
「ゾロのやつはいっつも無茶ばっかりだからな。ほんと、ウチは医者がいないとやっていけない船だな!」
そして船長はチョッパーの感激など欠片も気づくことはなく、またひょい、とみかん畑を飛び越えて消えてしまった。


階段を小さな脚でよじのぼり、チョッパーはそこに、だらしなく身体を伸ばした怠惰な獣を発見した。仰向けに転がったまま、健康そうな寝息を立ててゾロは眠っている。
チョッパーはその傍らにちょこんと座り込み、ゾロの顔を覗き込んだ。
アルバーナでもらった黒衣は、ゾロの身体のほとんどすべての傷を隠してしまっている。だがチョッパーはサンジのようにゾロを蹴り起こそうとはせず、代わりに聴診器を取り出した。人間よりずっと耳の良いチョッパーなら、服越しであってもさほどの問題はない。
内臓まで達したであろう、胸を斜めに走る大傷。時計塔から狙撃されて、まっさかさまに落ちた打撲。ぽん、ぽん、と聴診器を当てながら、呼吸の音を確かめる。
「……何やってんだ……?」
眠たげな声に、チョッパーは「うん」と頷いて言った。
「おれ、ゾロの診察してるんだ」
「……どこも悪いとこぁねえよ」
「それを決めるのはゾロじゃない、おれだ」
「……」
先ほどのやり取りを覚えていたのだろう。決まり悪げな沈黙ののち、ゾロはチョッパーの手をぐいと押しのけた。跳ねるように立ち上がったチョッパーが、何かを言いかける前に潔く、己の腹巻に手をかける。
そして腹巻と長衣を脱ぎ捨て、ズボンだけの姿になると、胡坐をかいてチョッパーに向き直った。
「どうぞ、ドクター」
「……え」
「別にお前のやることが、何でもいらねえってわけじゃねえ」
傷だらけの体躯を晒して、獣は腹を見せている。チョッパーはおずおずと、その腹の傷に手を触れた。
確かに、普通の医者なら全治二年と判断しただろう。この傷が、つい一ヶ月程度前につけられたばかりとは、とても信じがたい。悪魔の実の能力者ならともかく、ゾロはただの一般人だ。……敵味方諸方面から、異論が噴出するだろうが。
だがチョッパーがその傷を見て感じたのは、それだけではなかった。
「おれなら、もっとうまく縫えたぞ、ゾロ」
「ああ……そうだろうな」
「初期の処置が特にひどいな。そのせいで治りが遅れてるんだ」
「へぇ、そこまでわかるのか」
「ああ。ゾロの身体は、ほんとはもっとすごいんだ」
チョッパーは、サンジの言葉の正しさを、目の前に横たわる傷で理解した。他人はゾロの、人並み外れた回復能力に驚くだろう。だが、チョッパーはむしろ、傷を負った当時のゾロが、今とは比べ物にならないほど「手入れされていなかった」ことに気づいていた。
「おれとサンジで、ゾロの身体をもっとすごくするんだ。どんだけ戦っても駄目にならない、世界一の身体を作るんだ……ゾロは、おれとサンジの力を借りるのはいやなのか?」
サンジの名前が出てきたことに、驚いたのかもしれない。ゾロはその赤茶に透ける眼を瞬かせ、チョッパーを言葉なく見下ろしている。チョッパーの懸命な眼に見上げられて、常ならば語らぬことを、ふと、ゾロは語る気になったらしかった。
「そういうんじゃねえんだ」
ごく当たり前にゾロの手はのびて、ひょいとチョッパーの帽子を掴む。己の胡坐の上にその身体を載せてやると、言葉を継いだ。
「この傷を受けた頃は、よく夢を見てな」
「夢?」
「ああ……」
グロテスクな夢だという、自覚があったのだろう。ゾロは一瞬言葉を切り、困ったように眉のあたりを軽くかく。
「……中身がな、全部出ちまう夢だ」
「中身って何だ?」
「つまりはらわたとかそういった、おれの中に詰まってるもの全部さ」
チョッパーはゾロの傷を見つめた。ゾロも己の傷を見下ろす。
「ここからぱっくり身体が裂けて、全部、おれの中身が出ていっちまう。おれは斬られて動けねえから、ぼろぼろ落ちてく中身をただ見てる。……そんな夢だ」
男部屋どころか、女部屋のナミまで跳ね起きるような絶叫をあげて目覚めたこともある。目覚めることすらできなくて、熱にうかされながら暴れつづけたこともあった。ゾロはそこまでは言わなかったが、それが悪夢であることぐらいはチョッパーにも理解できた。
人間ではないチョッパーにとって、心理学的な見地にたって治療するのは、外科手術ほど得意な作業でもない。困って首をかしげていると、ゾロはぽんぽんとその帽子を叩いてくれた。
「今も見るのか……その夢」
「今は、見ねえな」
言ってからゾロは、照れたような、ひきつったような曖昧な苦笑と共にチョッパーを見た。
「おれの身体も……仲間の助けってのに、いい加減馴れてきたらしい」


固まって動かないチョッパーに、さすがに居心地悪くなったゾロが視線をそらした瞬間、
「おれ、おれっ!」
突如、もこもこした物体が裸の腹にかじりついて、ゾロは「ぎゃあ」とも「ぶわぁ」ともつかない奇声をあげた。
「おれ、ちゃんとふさぐぞ、内臓なんて誰にもやらないぞ! ゾロは安心してていいからな!」
「おう」
照れくさげに、またくすぐったげにゾロは肩をすくめると、そのままごろんと甲板の上に仰向けになった。まるで今から必死に押さえるかのように、ゾロの腹の傷に抱きついていたチョッパーもまた、ゾロと一緒にころりと転がった。
「ゾ、ゾロ? どっか悪いのか?」
「いや」
「あ、寝るんだな、おれもう退くよ」
「なに言ってんだ」
手触りの良い背中を荒っぽくぐしゃぐしゃと撫で、ゾロは大きくあくびをする。その強靭さを象徴するかのような、力強い呼吸音に思わずチョッパーは聞き入った。
「塞いでおいてくれるんだろ、お前がよ」
まるで腹圧を押し返す重石のように、チョッパーを腹の上に据えたまま、ゾロは眼を閉じる。三秒もせぬうちに、その口からは規則正しい寝息がもれていた。
「……うん」
ぎゅっとゾロの腹を締めるように、四肢でしっかりしがみついたまま、チョッパーは小さく頷く。
「おれがふさいでやるぞ、絶対」
そうだ、このドクター・チョッパーが護るのだ。
サンジが腕によりをかけて作った、染みひとつない綺麗な内臓と、ゾロがたゆまぬ努力で編み上げた、自在の強さを生み出す筋肉を。


食欲を誘う匂いが、甲板にまで漂い始めた。
トレーニングの後にろくな水分補給もせず、夕食が近いことすら気づかず、剣士は腹にトナカイを乗せたまま、ごおごおと寝息を立てて動かない。
そんな寝姿に、かつ、こつ、と整った靴音が近づく。忙しい作業の途中なのだろう、その音は大してとどまりもせずに、また遠ざかっていった。


自家製スポーツドリンクのカップをふたつと、煙草のかすかな残り香を、寝息のそばに置き去りにして。