船べりに背を預けたまま、暇さえあればゾロは座り込んで眠っている。ナミが蹴飛ばし叱り飛ばせば、眠たげにのっそり身を起こして動き出すものの、放っておけばまた眠っている。
最近は仲間も慣れてしまったらしく、よほどの大問題でもない限り、ゾロを起こそうとはしない。食事時になるとサンジがおもむろに、ラム酒の瓶の栓をポンと抜く。すると船べりの塊はのそのそと、「お、メシか」と動き出すのだ。
「どこか具合が悪いんじゃないかしら、Mr.ブシドー」
人の好いビビのそんな心配を、ナミは一笑に伏してすませた。ゾロの具合が悪いとしたら、それは方向感覚ただひとつだ。それにいざとなればこの男が、2日や3日寝ずにいる程度のやせ我慢をひょいとしてのけることを、ナミはよく知っていた。
「あいつはあれでいいのよ、ビビ。動き回ってちゃかえって邪魔だもの」
日常的に仕事のあるサンジやナミ、船の中のことをこまごまと管理するウソップ、常に船員たちに眼を配っておかねばならないチョッパー。彼らと比べて、ルフィやゾロは船上での仕事などないに等しい。特にゾロには、ルフィのように「采配」を下す必要すら存在しない。
邪魔にならない場所でトレーニングに勤しみ、終われば寝、起きれば食い、食えばまた寝る怠惰な獣。敵を捕食することのみに特化したゾロのような生き物は、猫科の大型動物のように、狩り以外のエネルギーを眠って節約するものなのだろう。
麦わら海賊団の仲間たちを、のっそり怠惰に寝そべったまま、「何かあったら俺がお前らを護ってやるよ」とその傷だらけの体躯で示す、歴戦の虎。確かに、この人がせかせか動いていたら、かえって落ち着かないかもしれないわ、と、磐石の寝姿を見下ろしてビビは納得した。
「それに」
寝太郎を放置して女部屋へと降りながら、ナミはビビを振り返る。
「転がしとくだけで、けっこう役に立ってるのよ……あいつ」
「転がすって……」
ゾロが波のたびにごろごろと甲板を転がる姿を、大真面目に想像しながらビビはナミの後を追う。化物揃いの男どもと違い、彼女たちはしっかりと休まなくてはならない。もちろん、朝まで甲板に伸びているなどもっての他だ。
そんな仲間たちの会話も知らず、今日も、魔獣は船べりに陣取る。刀を抱いて、深い、だが一事あれば即座に醒める眠りに身を任せたまま。
だがそんなゾロの意識が覚醒したのは別に、危険が身に迫ったからだというわけではなかった。夜明けの空気はまだ冷たいが、そもそも、夜間トレーニングを終えて未明から眠っていたゾロが、今更寒さに眠りを奪われるはずもない。
眼を開けた瞬間の世界は禍々しいほどに赤くて、かすかな緊張を呼び起こすが、慣れた視覚はすぐにそれを、暁の陽光と判断する。
覚醒の理由を探して、眠り込んだ体勢のまま周囲の気配を探り……少し離れた手すりの上に、ほわほわとした気配があることを探り当てた。
――起きてんのか、チョッパー。
そう声をかけなかったのは、もともと相手の言葉を待つ性質だからということもあった。だが、寡黙なこの剣士が朝の挨拶さえしなかった理由は、斜めに見上げた手すりの上の、丸っこい背中がひどく小さく見えたからだった。
よくゾロが洗ってやるそのむくむくした毛玉のような頭。ビーズのような、気の好い森の獣たちそのものの黒いつぶらな眼は、ゾロに横顔を見せているせいで、今は片方しか見えない。
だがその片眼から、ぽろぽろと水滴が落ちていることにゾロは気づいていた。
手すりに背をもたせかけているゾロには、手すりに腰を下ろして外界を見つめるビーズ玉の、その眼に何が映っているのか共に眺めることはできない。ただ、燃え立つような赤光を、その黄金の毛皮いっぱいに浴びて、彼らの小さな船医は泣いていた。
――ホームシックか?
ゾロはやはり声をかけない。ただ、かすかに首を曲げて相手を視界の端に入れたまま、その半面に同じ赤光を受けていた。
「……キレイだなあ……!」
ぐじゅぐじゅ、と鼻をすすりあげてチョッパーは囁く。
痛いほどに刺さるその光から、ゾロはチョッパーが、朝陽を見ているのだということに気づいた。
自分が起きていると知っているらしい、そう早合点して答えようとしたちょうどその時、震える声は再び囁く。
「ホントに、こんなにキレイなんだな、……ドクター……」
「ドクトリーヌ」ではなく「ドクター」と。
チョッパーの最初の師は、あのくれはという恐ろしい女医ではなかったのだと、ゾロは一応聞き知っていた。
髑髏の旗を海賊のように掲げ、無頼に、無骨に、国を想い続けた男だと。
その男はこの小さなトナカイに、眼を輝かせ、身振り手振りを大げさにまじえ、桜の美しさを語るように、海の朝陽の美しさも語ったのだろうか。
不躾に視線を投げすぎていたのかもしれない。
突如、チョッパーはぐりんと首をゾロのほうに曲げてきた。
一瞬の、詰まったような沈黙の後、それでも基本的に挨拶を欠かさぬ剣士は、「おはよう」と行儀良く呼びかける。
もしかしたらチョッパーは、夜風の中で寝てしまうゾロを気にして、起こしに来ていたのかもしれない。そしてあの恐ろしいような真っ赤な朝焼けを、偶然目撃したのだろう。
「……」
両手をばんざいの形に挙げたまま、チョッパーはカチンコチンに固まっている。
「おい、お前……」
落ちるなよ、とゾロが腰を浮かせた瞬間。
固まったままの小さなトナカイは、バランスを崩してまっさかさまに海へと転がり落ち――……
すんでのところで伸ばされたゾロの手にはっしと、背負ったリュックを掴まれてぶら下がった。
「うわわわわわ!」
すぐ下に大敵の海がある。怯えてばたばたする身体を軽々と持ち上げて、ゾロはもう一度、手すりの上にそれをどんと据えてやる。
「落ちるなって言ったろうが」
言ってないかもしれないな、と頭の片隅で思ったが、チョッパーの反論はまったく違う方向から返って来た。
「な、な、な、泣いてないぞおれは!」
真っ赤な眼を慌ててこすりながら、チョッパーは力む。「そうかよ」と一応返事をしてやってから、ゾロはその隣にもたれるようにして立った。
赤から薔薇色へ移りゆく夕焼けへと、視線をちらりと向けてすぐ背ける。本能的に、太陽を凝視することは好きではなかったし、その美しさに感嘆はしても泣くほどのことではなかった。
このトナカイは、世界のあらゆるものが驚嘆に値するとでも言いたげに、いつも眼を丸くして驚いている。ウソップの他愛ない嘘に、サンジの差し出すちょっとした菓子に、大の男をびしばしと従えるナミの剣幕に……波間を跳ねる大型のトビウオに、見る見る間にふくれあがって大雨を降らせる真っ白な入道雲に、びっしりと空を埋め尽くす満点の星に、ぽかんと口と眼を開いて、小さな身体いっぱいに彼は感動するのだ。
キレイだなあ、とまた飽かずに朝焼けを眺めている、リュックと一緒に多くのものを背負い込む、丸い背中をゾロは眺める。
「言われて見ると、確かにキレイなもんだな」
「そうだろ、ゾロもそう思うだろ!」
大喜びでまた転がり落ちかけるチョッパーを、今度は掴み上げながらゾロ自身が朝焼けと手すりに向き直り、両手でよいしょ、と己の眼前の手すりに据えてやった。
「知ってるか、チョッパー」
チョッパーを捕まえたまま同じ方向へ体を向け、ゾロは朝焼けを眺めやる。
「うん?」
「本当は、バカって言う奴がバカらしい」
「つまりゾロとサンジはバカなのか?」
常日頃「バカコック」「バカ剣士」とやりあっていることを即座に指摘され、ゾロは「ヘッ」と鼻で笑った。
「アイツほどじゃねえが、確かにおれはバカさ。んでな」
「うん」
「そのバカのと同じで……こういうものをキレイだと思って泣く奴は、つまりそいつの性根がキレイなんじゃないかと、おれは思う」
「うん、……え?」
しばらく朝焼けを見たまま固まった、小さなトナカイはやがて慌てたように手すりの上で暴れ始めた。
「お、お、お、おれは泣いてないぞ!」
「別にお前のことだとは言ってねえよ」
軽く帽子の上から頭をはたいて大人しくさせ、そのままじっと朝焼けに見入る。
もぞもぞと落ち着かなかったチョッパーもやがて、しんと静まって、変わり行く色彩を再び見つめた。
「キレイだな」
「ああ」
「おれ、海に出てからキレイなものいっぱい見たぞ」
「そうか」
「ゾロは寝てばっかりだから気づかないんだろ」
「……そうかもな」
答える声にかすかな笑いが混じる。
「おれは多分、赤いものを見すぎたんだろう」
朝焼けを見て泣く幼子の頃が、なかったとは言えない。だが、今のゾロにとって朝焼けの赤は、血の赤と同じ、ただの赤だった。
また少しもぞもぞとしたチョッパーは、やがて「じゃあ」とゾロを振り返る。
「キレイなもの見たら、おれがゾロを起こしてやるぞ」
ゾロはその懸命な両眼から視線を外し、そして、再び朝焼けを――この泣き虫の仲間に教えられるまでは、眺めることすら忘れていたその朝焼けを見た。
ふと、その口元がほころぶ。
悪役のような、片方の口の端を吊り上げるいつもの笑い方ではあったが、それは確かに笑顔だった。
「……そいつぁ、ありがとうよ」
おう! とガッツポーズをして手の中からすっぽ抜けかけるトナカイの、頭を「おい」とまた叩いて、ゾロはしっかりと抱え直してやった。
早起きの集まる操舵室、窓を仲良く半分分け合って外を見つめ。
「……ね」
「ええ」
オレンジの髪の航海士は、青い髪の王女と微笑みあったのだった。