海賊王が股肱の臣として常に傍らに置いた、このロロノア・ゾロという人物について、史実が伝えることは実に少ない。むしろ「剣豪列伝」「妖刀奇聞」等、民間の伝奇小説の中にこそ、彼は奔放な侠客として、一味の中でもひときわいきいきとした光を放っている。
たとえば、海賊王の一味がグランドラインのある街に滞在した時のことである。ひとりの学者が国王の奢侈を批判する際に、比較して海賊王の質素さを褒めたたえた。するとその場にいた青年が高々と笑い、
「国王が好んで豪奢を行うように、海賊王もまた、豪奢に興味がない故に好んで質素を行う。いずれも民の安寧のためや、ましてや黴臭い学者に褒められるために行ったわけでもあるまい。好き放題に振舞えば、大徳であるかの如く褒めたたえられるとは海賊王も気楽なことだ」
と皮肉った。
その場の者は海賊王の報復を恐れて逃げ隠れたが、青年は買い求めた酒樽をその場に置き、大杯をもってひとり干しつづけた。やがて噂を聞きつけて、海賊王その人が青年のもとを訪れた。青年は酒樽を担ぎ、海賊王と肩を並べて船に戻り、人々はようやく、青年がかの大剣豪であると悟ったという。
興味深い逸話ではあるが、ロロノア・ゾロがその場に居座って無為に迎えを待ち、酒を飲んだというくだりはいささか理解に苦しむ。あるいは、仲の悪さが有名であった料理長と、諍いでも起こしていたのだろうか。
伝承によれば彼は放浪癖を持ち、島に下りれば気楽にさまよい、さまざまな冒険や武勇を示し、迎えを寄越されるまで決して船には戻ろうとしなかったという。この逸話が後世に残ったこともまた、気まぐれとしか思えぬ彼の挙動が、人々の記憶に深く刻まれた結果なのかもしれない。
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「剣豪列伝」に多く登場する「剣仙」がロロノア・ゾロであることは、広く民間に知られていることである。「剣豪列伝」には多くの剣士が登場するが、実名を敢えて伏せられているのは彼一人である。
「剣豪列伝」の編纂開始当時、海賊王は巨大な力を持っていたが、いまだラフテルの地にたどり着いてはおらず、「海賊王」の称号も得てはいなかった。彼ら一味がもっとも危険視されていた頃に、「剣豪列伝」は編纂されたのである。ロロノア・ゾロの名を喧伝するような行為は、世界政府に対して憚られたのだろう。「剣聖」ではなく「剣仙」と称されたのはひとえに、酒と宴を愛する彼のおおらかな性情によるものに違いない。
グランド・ラインには人知を超えた怪奇現象も多く伝えられている。「剣豪列伝」には、ロロノア・ゾロが邂逅したという、神秘の獣についての伝説が記されている。
ある冬島を探索中、剣仙は眠気を覚え、一本の大樹の根元に横になった。するとそこに、一対の角を持ち、血のように赤い眼をした大きな黒犬が現れた。剣仙は暖を取るためにその黒犬を手招くと、黒犬は剣仙にじゃれつき、彼を噛もうとした。剣仙は黒犬をねじ伏せてなだめ、抱えて眠った。
そこで一部始終を見ていた男が彼に、それは死期を告げる幻獣であり、彼の死を告げに来たのだと教えた。剣仙は「大慶」と笑うと黒犬に、持っていた酒を一瓶与えた。黒犬はその瓶をくわえ、いずこへともなく去っていったという。
「剣豪列伝」の記述は以上で終わっている。なんとも後味の悪い話である。剣仙――ロロノア・ゾロが、死を告げられることの何をもって「大慶」と評したのかも判然としない。
史実が示す通り、「剣豪列伝」編纂当時、ロロノア・ゾロは健在であり、その後も数々の武勇伝を残している。その為、この「剣仙」は別の剣士の伝説が紛れ込んだのではないかという説もある。
ただ、剣豪列伝はこの話のすぐ後に、別の海賊の逸話を挿入している。ある海賊船に、眼を泣き腫らした灰衣の女が現れ、「次の島まで乗せて欲しい」と頼んだが、その海賊は、女の姿が不吉であるという理由から、船に乗せることを断った。その船は次の島に着くことなく、嵐によって沈没したという。
この「眼を泣き腫らした灰衣の女」が、伝説に言う「死告げ女」バンシーであることは想像に難くない。死告げ獣とレスリングに興じ、酒を与えるか。それとも、死告げ女を不吉と疎み、船から追い払うか。「剣豪列伝」の編纂者は、この逸話に剣士としての、死への姿勢を説いたのかもしれない。
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「料理人は悪魔でなければならない。食の悦びを知らぬ生娘を、娼婦に堕とす悪魔である。
料理人は天使でなければならない。食の尊さを穢す下郎を、煉獄に墜とす天使である。」
自ら述べたこの哲学を、もっとも忠実に守ったのが海賊王の料理長、ゼフ門下のサンジである。海賊王は概ね質素を好んだが、ただひとつ、食に対しては飢えた狼のように貪欲であった。その為、当時既に盛名をはせていた海上レストランバラティエから、半ば強引にサンジを引き抜いたのもまた、世界一の海賊船のコックは世界一のコックであるべきだという、確固たる信念があってのことだと伝えられている。
深刻に不仲であったとされるロロノア・ゾロとサンジが、後世に、彼らもまた独特の絆で結ばれた仲間であったと認識された、その原因こそが、サンジ自身の残した数冊の資料である。日記の態をとられたそれは、しかしサンジ本人について何一つ記されていることはなく、ただ、その日一日に己が提供した食事のメニューだけが、一日とて欠かすことなく記されていた。
「美食日記」と後に名づけられたその資料によれば、サンジが提供する食事は一日に五回、朝食、昼食、午後の茶、夕食、そして夜食である。「海賊王の食卓のような」という格言も残る所以となったそのメニューは多彩かつ豊富で、個々のクルーの体調によっては専用のメニューを作るという念の入用だった。皮肉なことに、類稀なきフェミニストであったサンジの資料によって女性クルーは、後世の人に広く月経周期を知られることとなったのである。
海賊王は生涯、少数精鋭を旨としたため、この心細やかな料理長もまた、その別れの日までクルー全員に自らの腕を振るい続けた。質量ともにもっとも負傷の深刻であったロロノア・ゾロについて、「美食日記」には繰り返し、「チョッパーに確認」と添え書きされた専用メニューが登場する。言うまでもなく、チョッパーとは船医トニートニー・チョッパーのことであろう。
夜に鍛錬を欠かさず、昼はクルー任せで眠ったという、かの大剣豪の逸話を考えれば、毎日のように書き残された様々な夜食と栄養飲料は、料理長の、喧嘩仲間に対する細心の助力であったことも想像に難くない。うまし酒を愛し、だが、料理にはひどく無頓着であったという若き日のロロノア・ゾロこそが、若き日のサンジにとっては「食の悦びを知らぬ生娘」であったのだと言える。
仲間には誘惑の悪魔であった料理長が、情け容赦なき食の天界の尖兵となったのはおおよそ、食事時に訪れた無遠慮な襲撃船に対してであった。
弟子によってまとめられた逸話集の中に、こういったものがある。ある昼食時、海上において海賊船の一団が現れ、海賊王か大剣豪を指名して、一騎打ちを申し出た。甲板には料理長サンジが現れて、海賊王と大剣豪は昼食中であることを告げた。海賊は怒り、接舷して船を侵そうとした。すると、ひとり甲板に立ったままの料理長はこう言った。
「昼食時は食を楽しむ時であり、働くことを許されるのは唯一料理人のみである。いかなつわものといえど、この真理を覆すことは許されない。昼食を終えて参られよ」
海賊は一礼して引き下がり、己も昼食を摂ったという。海賊が信念をも試された時代の、風流と言ってもよい逸話である。
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「『誕生日を祝うなんざ、くだらねェ』」
磨きぬかれたワイングラスと共にそんな声を差し出されて、ゾロは顔をあげた。給仕のように脇に立って、ギンガムチェックのテーブルクロスの上にワイングラスをきっちりと置いたサンジが、そんなゾロを見下ろしていた。
「……そう顔に書かれてるぜ」
くわえ煙草のまま、付け足された言葉。ゾロはサンジの灰青の眼から、目の前のワイングラスに視線を移した。大テーブルの長椅子、ゾロの隣にサンジはひょいと腰を下ろす。テーブルを背にして後ろ向きに腰掛けたから、ゾロとは向きが逆になった。「ほら」と赤ワインを注がれて、ようやくゾロは答えを返した。
「そうでもねェ」
「そうか?」
「この船に乗ってからは、な。悪くもねェと、思うようになった」
船長の「宴だー!」という叫び声、馬鹿みたいにでかいケーキ。何度も繰り返される乾杯、「おめでとう」の言葉。仲間が、無事にひとつ年輪を重ねたのだという、そんな認識がもたらす安堵……
ワイングラスは二つあって、サンジは自分も酒を呑むつもりのようだった。小さく切ったチーズ、魚の卵、クラッカー、白いソースのかかった野菜、そんなこまごまとしたものが皿に並んでいた。おだやかな時間だった。一年前の自分には、一人の人間の料理を食べ続ける生活など想像すらできなかった。
「お前の誕生日を祝うのは、明日さ」
明日が自分の誕生日なのだということを、ゾロはクルーに教わった。そうなのか、と頷いてから、ゾロは自分が20歳になるのだということを思い出した。19歳の誕生日でもなく、21歳の誕生日でもなく、20歳の誕生日。
心すでに朽ちたり、と詩人のうたった20歳。
生き急いでいる、その自覚はゾロにもある。20歳などまだ若造だ、それも理解している。だが、重ねられる日々には時に、焦りを感じずにはいられない。もっと高く、もっと強く。無駄に齢を増やしただけだと、思わずにすむ毎日を――……
「……今日は、」
己の弱さを振り払うように、ゾロはグラスに手を伸ばして言った。
「今日は何に乾杯するんだ」
いつものような晩酌ではなく、こんな形式ばったグラスとつまみ。いくらゾロとて、この同年の仲間が何かを企んでいるとは理解できる。
「へへ」
照れたように小さく笑って、サンジはグラスを掲げてみせる。
「お前の、10代最後の日に、ってのは?」
その声には隠しがたい感傷が満ちていて、ゾロは笑うことに失敗した。湿っぽい声しやがって、と思ったが、この感受性の強すぎる料理人が時に、ゾロが自覚しえぬ弱音を勝手に感じ取っていることを、ゾロはよく知っていた。つまりこの声の湿っぽさは、そのまま、ゾロの不安を表したものに違いなかった。
故郷では、16歳でもう成人扱いだった。今さらどうと思うこともない。何が変わるわけでもないのだ。それでも、「少年たち」の集うこの船で、ゾロは珍しく、何かを惜しむような気持ちになった。
チン、とグラスが打ち合わされる。
一口飲むよりまず先に、サンジはゾロを見て言った。
「待ってろよ」
「なにが」
「三ヵ月後にゃァ、おれもハタチさ。年上ヅラは、させねェぜ」
「……あァ」
おれは、こいつの「年上」になるのが惜しかったのか。
すとんとその思考が胸に沁みて、ゾロは咽喉の奥で小さく笑った。
「早くなれよ」
「努力する」
「努力してどうにかなることかよ、てめェ」
二人は揃って笑い出し、そしてグラスをぐいと干した。ゾロが「十代」に別れを告げるまで、時計の針はあと一刻というところだった。