陵刀が患畜を死なせた。
鳥獣保護センターから入った彼の連絡を聞いて、院長はその深い声で、「ご苦労」と短く言っただけだった。
「……陵刀でも、死なせちまうことがあンだな」
重い沈黙の中でつぶやいた鉄生に、馬鹿か、と言いたげに鞍智が顔を向ける。神経質な、眼鏡の奥の瞳がひどく暗い。はじめて患畜を死なせた時の経験を、思い出しているのかもしれなかった。
「あの人はああ見えて、20年以上獣医師をやってきてるんだぞ。それにお前だって聞いただろう、3歳の時から世界中を回ってきたって」
「そりゃそうだけどよ」
「俺たちとは桁違いなんだ。救った数も……死なせた数も」
「そりゃそうだけどよー」
子供のように駄々をこねて、鉄生は椅子の上にだらしなく伸びる。緑の制服がぐしゃ、と皺になってよれた。
「……あの人でもだめなら、誰にもどうしようもないと思う、俺は」
そうぽつりと漏らして鞍智は、緩慢に立ち上がった。気持ちを入れ替えるように一度、パン、と白衣の襟を鳴らしてそして、だらけたままの鉄生に背を向ける。
だが、背後で派手な音が響き渡って飛びのきながら振り返った。
「……何をやっているんだお前」
「あでででで……」
椅子から転がり落ちた鉄生が、腰を押さえて悶絶している。
「陵刀先生から守り切った腰なんだ。大事にしろよ」
揶揄の言葉をかけてから、また、鞍智は、思い出してしまったその名前に溜息をついた。陵刀が死なせてしまったのは、希少種のアホウドリだった。バタバタと倒れていくアホウドリに、鳥獣保護センターが悲鳴をあげてR.E.Dに助けを求めたのだ。
伝染源を特定するまでに、何羽のアホウドリが死んだのか、鉄生も鞍智もまだ、院長に詳しい話を聞いてはいない。彼らにとって、陵刀は一種の超人――万能であるかのような錯覚さえ、短いつきあいの中で抱かせる恐ろしい存在だった。
いったい何に動揺したのか、それは決して言うことなく。ただ、鉄生はぼそぼそと、腰をさすって床に座り込んだまま言い出す。
「あいつがよー……」
「誰だ」
「陵刀がよー」
「陵刀先生と呼べ! 本当ならお前がはいつくばって崇めるべき先輩なんだぞ」
「あいつは気にしてねーよ」
「俺が気にするんだよ!」
「あいつがお前みたいに本当に思っちまう奴のよーな気がすんだよなー俺」
「は?」
マイペースな鉄生の言葉に、鞍智は眉を寄せる。
「だからよ……自分にできなきゃ誰にもできないって、本当に思っちまうだろ」
「それは……それだけのキャリアがあるからな」
休憩中に与太を飛ばしたり、部下にばかり仕事をやらせてサンデーを読んで笑い転げている姿からは想像もつかないが、陵刀は日本屈指の獣医師なのだ。実際、医局二科でも、解決不能な難題が最後に持ち込まれる場所は、陵刀か院長のところなのだった。
「……しんどいよなぁ、それって」
むしろ、そう自分を納得させられるのは少しでも気楽なんじゃないか、そう鞍智は思ったが、口に出していったのは別のことだった。
「だが、それはれっきとした事実だ。……あの人がじかに出向いて、最善を尽くしたからこそ、センターの人たちだって納得できたんだ」
「なにそれ」
口をとがらせて、鉄生はのっそりと身を起こし、その場にしゃがみこむ。ヤンキーみたいだな、と思ってから、ヤンキーみたいなものか、と鞍智が思い直したことには、気づいていないらしい。
「なにそれって……陵刀先生は二科のエースだろう。そのエースでもどうしようもないことだったなら、仕方がないと思って納得する人もいる」
「それじゃあまるで、陵刀が謝り要員みたいじゃねーかよ」
謝り要員という言葉は初耳だが、鉄生の主張もわからないでもない。治療不可能な――あるいは、伝染源を特定するまで非常に時間がかかりそうな患畜。そんな生き物のの治療に陵刀が諾々と向かったのは、「彼ならば失敗しても許される」がゆえの人身御供のようではないかと、鉄生は主張したいのだろう。
鞍智が何か言いかけた瞬間、休憩室のドアが音高く開く。
「君たちは、陵刀と私の両方をなめているな」
飛び上がったふたりをじろり、と眺めやったのは、重厚な上背と重厚な声と重厚な雰囲気に似合わぬフットワークの軽さを旨とする、彼らの直接の上司だった。
「い、いいい院長っ」
「陵刀は、自分が本当にしたくない仕事ならば容赦なく断る男だ。……それはもう容赦なくな」
最後の一言に、やけに哀愁が込められている気がするのは、若手二人の勘違いではあるまい。
「そして私も、二科の虎の子を『謝り要員』とやらのために出すほど、保身に熱心な人間ではないつもりだが」
「あ、いや、その……」
「……スンマセン」
ふたりして、飛び上がった勢いのままに立ち尽くし、うなだれて、そしてぺこぺこと頭を下げる。
「R.E.Dの経営理念を理解してもらえたなら、そろそろ仕事に戻ってもらおうか。じき陵刀が戻るが、46時間不眠の状態だそうだから、使い物にはならないと思ってくれ」
言いたいことだけを言って、気苦労の多い院長は、そのまま部屋を出て足早に去っていく。30秒後には、今の会話など綺麗さっぱり脳味噌から追い出しているだろう。そういう意味で、彼は叱責を後に引かない、いい上司であると言える。
「……戻ンのか、陵刀」
「直帰してもらっていいのにな」
その不自然な勤勉さが、若手二人の胸を痛ませる。
戻ってきた陵刀と、何となく顔をあわせたくなくて、ふたりは一科と三科へと、それぞれ応援に出かけたのだった。
仮眠室のベッドに大の字に寝転がったまま、鉄生はぼんやりと、外の音に耳を澄ませていた。
「俺だけに聴こえる音がある」。そう豪語する彼の耳の奥に、いつまでも、残って離れない音がある。
それは鋭角的な鋭いソから始まって、すぐにシまで跳ね上がると、いくつかの衣擦れの音を伴って、こちらの緊張感まで引きずりあげるような和音を作る。やわらかいはずのファのシャープ、それさえも、翻れば一音上がって空気を切り裂く鋭い風きり音になる。
さきほど、鞍智がたてた音に驚いたのは、その特別な音を思い出したからだ。
――聴いてんだぞ、いつも。……わかってんのかよ陵刀。
その陵刀は、大して疲れたそぶりも見せずに戻るとすぐに、院長室にこもってしばらく密談し、出てきたと思えば大あくびとともに、「シャワー浴びに帰ってきたよ」とぬけぬけと言い放ってみせたものだ。本質的に人の良い鞍智は、その人を食った様子にも素直に安堵して帰宅したが、鉄生はなんとなく、仮眠用ベッドでごろごろしたまま、陵刀の帰りをこうして待っている。別に、風呂上りを襲うためではない。何となく、気にかかる。何かが、気にかかる。どうせ隣の永田似園の居候だ。多少帰りが遅くなったとて、終電がなくなるわけでもなかった。
「自分にできなきゃ誰にもできない」。それは逆に言えば、「自分にしかできないかもしれない」ということだ。「自分にしかできなかったかもしれないのに、死なせた」。……何度、反芻したのだろう。何度、自分に鞭打ったのだろう。ひとつひとつの行動を必死になって掘り起こし、二度と同じ過ちをおかすまいと、……過ちなど、本当にあったかどうかすらわからないのに。
「……ちくしょっ」
掛け声一発、ベッドを軋ませて跳ね起きると、鉄生は仮眠室を出た。シャワー一つに何時間かけているのか。
やたらスタイリッシュな外見に反して、3歳から世界中を駆け巡ってきた陵刀は、鉄生も呆れるほどの鴉の行水なのだ。もしかしたら自宅では、のんびり湯に浸かる時もあるのかもしれないが、こんな病院のシャワーなど、「ガシャガシャワシャワシャジャー」で出てくるはずなのに。
男の風呂を覗く趣味はない。それだけは断言できる。だが。
――あの音が聴こえねーと、なんか、イライラすんだよな。
ぼりぼりと頭を照れ隠しにかき、鉄生はだらしなく靴のかかとを履き潰して、シャワールームに向かった。
シャワーの音は、しばらく外にたたずんでいても、いつまでも音程が変わる気配がなかった。それはつまり、シャワーを浴びている陵刀が、微動だにしていないということになる。46時間の不眠、という言葉を思い出して、鉄生は脱衣室を通り抜け、シャワールームの扉を開けた。彼にしては奇跡的に静かに。
並んだシャワーの一つが、全開になって熱い湯がほとばしっていた。そのシャワーのノズルにだらりと片手をひっかけたまま、陵刀がじっとその飛沫の中に佇んでいた。湯は勢いよく、彼の首筋の辺りに叩きつけられては跳ねていた。陵刀のもう片方の手は、目の前の壁に押しつけられたままだった。
彼はうなだれて、立っていた。
その肩が震えているのを、見てしまったかもしれない。きつく歯を噛みしめている、その音さえ聞こえてしまったかもしれない。鉄生は立ち尽くしていた。だが、不思議と、扉を閉めようとは思わなかった。
「鉄生クンかい?」
存外物静かな、陵刀の声だった。頬を流れる湯が唇から入って、喋りにくそうに吐き出す姿が、奇妙にリアルだった。
「……おー」
鉄生はむっつりと答えた。
「一緒に入る?」
「ばーか、風呂もねえのに入れるわきゃねえだろ!」
「残念。お風呂があったら一緒に入ってくれたのか」
軽く笑って、そして、壁についていた手で粗く己の髪をかきあげ、陵刀は今度は顔で、ほとばしるシャワーを受け止めた。顔が、心地よさそうにかすかに笑っている。それは、鉄生に見せる顔だった。鉄生が来たからには、陵刀はその顔にならなければならない。鉄生より年下にすら見えるこの、その実明らかに院長と同世代の経歴を持つ壮年の男の、それは意地であったのかもしれない。
キュ、と音を立ててシャワーを止め、陵刀はひっかけておいたバスタオルを手に取りながら、鉄生を見てそして、また、笑った。
「心配してくれたの?」
「別に」
言ってから、鉄生はそれが虚勢でも嘘でもなんでもないことに、気がついた。だから、鉄生は思いついたことをそのまま素直に、ひどくストレートに投げ返した。
「だってお前、大丈夫だろ」
「え?」
「大丈夫だよな?」
まっすぐに、薄茶の瞳を視線で射抜く。
その瞳は一度閉じられ、そして、ゆっくりと開いた時にはいつもの彼が戻っていた。
「キミが添い寝してくれたら大丈夫かも♪」
「言ってろ!」
投げつけられたスリッパを避けている間に、シャワー室の扉は軋む勢いで閉められていた。
鳥の羽ばたくような音だった。ああ、『あの音』だ、と思った瞬間、鉄生の身体は跳ね起きていた。
隣のベッドの傍らに、陵刀が立って、そして、常の通りの白衣をまとっていた。
「……おー」
ねぼけた頭で挨拶をすれば、「おはよ」と人を食ったあの笑顔がかえってくる。
しばらく、彼の白衣がたてる『あの音』をぼんやりと聞いていた鉄生の脳裏に、否応なく、現実が蘇ってくる。
「……お前、まさか、俺のベッドに入ってきたりしなかっただろうな」
「いくら僕だって、あれだけのハードワークの後にはゆっくり眠りたいよ」
肩をすくめて聴診器をひっかけ、鉄生を安心させておいて、陵刀はそれはそれは整った、美しい、悪魔のような口の裂けた微笑をにんまりと浮かべて見せた。
「だってキミ、寝相悪いしオレのこと蹴るしで、サイアクだったから」
「試したな!? てめー試したなーーー!? 婿入り前の男のベッドに勝手に入ってくんじゃねえーーー!」
声を立てて笑いながら、ばさりと翻る彼の白衣。
――ああ、あの音だ。
それは、急患の知らせを受けた陵刀が、翼を広げて飛び立つ鳥のように、大きなモーションで身を翻し、ある時は白衣を羽織り、ある時は襟を直す、その、戦闘準備のたてる音だ。
どんなに与太を飛ばしていても、その瞬間、恐ろしいほどに研ぎ澄まされる彼の横顔、潔く背を向けて扉に向かうその背中。
――聴いてるんだぜ、陵刀。
知っている。
何があっても、お前だけは大丈夫だと知っている。
あんな音を、鉄生に聞かせている男が、だめになるはずがないのだから。
足早にざくざくと廊下を歩きながら、ふと、陵刀の咽喉を小さな笑いの発作が襲う。
『だってお前、大丈夫だろ』
期待を押しかぶせるのでもなく、ごく自然に、言ってのけた彼の言葉。
一度、陵刀は振り向いたことがある。
助けを求める「急患です!」の悲鳴に飛び立ちながら、追ってこない鉄生を、振り向いて、振り返って、そして、自分を見る彼の瞳を覗き込んだことがある。
口をあけて自分を見る彼の、その瞳が、ひどく小気味良かった。
大きな真っ白い鳥が、飛び立つ時に、少年が純粋な憧れのまなざしを向ける、彼は、そんな眼をして自分を見た。
――あんな眼をされて、だめになれるはずがないだろう。
あの耳に、無様な音を出せるはずもない。あの眼に、無様な背中を晒せるはずもない。その想いが陵刀の背中を押し、一歩一歩と、更なる高みへ押し上げている。
――僕はね、鉄生クン。あの眼をキミに一生させている為ならば、一生だめにならずにいられるような気がするんだよ?
失敗しても、打ちのめされても、再び自分は立つだろう。
自己陶酔だと、疎む者もいる。無駄な意地だと、笑う者もきっといる。だが。
――いいじゃないか。そのおかげで、僕に救われる動物たちがもっともっと増えるんだから。
山のような資料を抱えなおし、院長室に突撃する陵刀は、たしかに、白き猛禽のようであった。