かの人を色に喩えるならば、それは、限りなくモノクロームに近い、――――




牛尾の視線の先、大樹の陰で、蛇神は今日も、物静かに瞳を閉じて端座している。
そうしていると、彼はその技につけられた名の通りの毘沙門天というよりは、むしろ、興福寺の片隅に、ひっそりとものやわらかに佇む少年の立像――阿修羅像を思わせた。
眠るようにおだやかな表情。何を考えているのか。おそらく何も考えていないのだろう。
眠ってもおらず、なのに、何も考えず、だが、弛緩せず、ごく自然体のまま、そこに在ることができる……それは、機知に富むがゆえに、脳味噌の中身が「無」になるということを知らぬ牛尾にとっては、信じがたい異形のように感じられるのだった。
――彼を色に喩えるならば。
眼を細め、振り終えたトンボを肩に担いで、牛尾は蛇神の姿を眺める。夏の暑さにやられぬよう、交替で小休止をとっているから、次は牛尾と蛇神が交替する番だ。だが、今の彼に声をかけるのは、牛尾には少しもったいなかった。
――白か黒かと聞かれれば、黒だ。
キリスト教の敬虔な信者である牛尾にとって、黒は必ずしも良い印象の色ではない。――いや、「なかった」。
そんな牛尾にさらさらと、達筆に太極図を描いてみせ、「白と黒は善悪に非ず。陽と陰は生死に非ず。男女に優劣のなきが如く、黒白(こくびゃく)もまた、差異こそあれど、互いを支える大事な対也」と、諄々と諭したのが当の蛇神だったのだ。
ともすれば、物事を単純な正義と悪に振り分けがちな牛尾にとって、蛇神の語る世界は曖昧で優しい。
今の牛尾にとって、黒とは安息の色だった。一日を終えた夜、瞳を閉じた闇、灼熱の陽光から逃げて部室に入った一瞬の、目がなれぬうちのおぼろな影。……蛇神もまた、牛尾の安息の大きな部分を占める存在なのであった。
――でも、漆黒じゃない。
彼は純粋だ。多分に詩人である牛尾にとっては、もういっそ「羽化したての蝶のようにピュアで繊細な」とでも言いたいぐらい、常に真面目で真剣だ。だが、どこかに東洋的な曖昧さがある。すべてを呑み込む黒ではなく、もっと優しい――それでいて気高い――……
――ああ。
牛尾はひとり、小さく笑った。木洩れ日がちらちらと落ちかかる、彼の黒髪が陽に透ければ、何色に見えるかを思い出したのだ。
――紫だ。
彼は、限りなく黒に近い紫。
――紫は、日本では特に高貴な色だしね。
自分の想像に自分で満足して、牛尾は蛇神の休む木陰へと、トンボを担いだまま歩み寄った。
「蛇神君、」
やんわりと呼んでから、自分の出した声の甘さに少し驚いて、だが、その甘さにも満足してにっこりと笑う。
災難なのは、そんな見事なまでに恋人向けの甘い声を聞いてしまった、他の部員たちだったが……当の蛇神はさして驚いた様子もなく、ゆっくりと面を上げて牛尾を見ただけだった。


名を呼ばれた。変わらずに、甘えた声をするものよ、と思いながら蛇神は顔を上げ、光の中にたたずんでいる牛尾の、まぶしい笑顔にひとたび瞳を閉じた。
光の中に立つ姿が、これほど似合う男も珍しい。薄暗い堂の内、座禅することで一日の大半をすごすことも厭わず、僧形ともなれば、外を歩くにも深く編笠をかぶって影に入る己には、存在しない美点だと思う。
――彼を色に喩えるならば。
ふと、一瞬のそんな思考がかすめ、蛇神は立ち上がりながらも、光の下の牛尾を注視した。一通りメニューを終えたらしい。自分と場所を替わりたいのだろう。だが、この影の中に彼が入り、あの光の中に己が出て行く、それは、奇妙な取り違えのように思えてひとたび、歩みを止める。
――黒か白かと問われれば、白であろう。
白は、そのままの己で在ることがもっとも難しい色だと言えるかもしれない。血の赤、闇の黒、誘惑の紫、惑いの青、少しでも混じれば、それはすでに白ではなくなる。取り込めば取り込むほど、複雑な、穢れた色になっていく。だが、牛尾はそうではない。頑固なほどに、己を貫いている。すべてを取り込んでいるように見えて、決して己を変質させはしない。
人の上に立つべき者。すべてを明らかにする光にも、決して物怖じはせぬ男。真実を恐れぬ、高らかに上を目指す、ともすれば、己ひとつの悟りにとどまろうとする蛇神にとって、牛尾は、その手をとって高処にいざなう力強い導き手だ。
――されど、純白というわけでもあるまい。
彼は確かに頑固で潔癖で、穢れや闇を理解しない傲慢な光ではあるかもしれない。だが、病のような白にはならぬ、ほんの一筋のやわらかな何かがその純白には混ぜられている。それが、彼を孤独から救い、周囲に人を集めている。
――ああ。
蛇神は、牛尾以外の誰にもわからぬであろう幽かな笑みを浮かべて、彼の光に向けて一歩踏み出した。元来色の薄い彼の髪が、陽に透ければ何色に見えるかを思い出したのだ。
――金……であるな。
彼は、白に限りなく近い黄金。
――古く西洋でも、金はもっとも尊い貴金属であったろう。
自分の想像に自分で満足して、蛇神は、もう一歩を進めると、木陰と光のちょうど狭間、牛尾の目の前まで歩みを進めた。
「交替か、牛尾」
呼ばれた声に引きずられたものか、それとも、己の、やや気恥ずかしいとも言える想像がそうさせたのか、蛇神の声もまた、ひどくやわらかく深い色合いを帯びている。
うん、とまた笑い、牛尾はごく自然に手を伸ばすと、ふ、と蛇神の肩にそれを置いた。
「交替」
「心得た」
蛇神は軽く、己の肩に載った牛尾の手に手を添えて、そして、木陰に入る牛尾とすれ違うように、ゆっくりともう一歩を踏み出した。




限りなく黒に近き紫の影は光の下へ踏み出し、
限りなく白に近き金の光は影の下へ踏み込む。




互いの領域に抱き取られるような、そんな、安心感と高揚感を抱きながら。