「鞭かナイフか、それが問題だ」
法廷用の正装――誰が何と言おうと、あれこそが狩魔の血を継ぐ者の正しい装いだと彼女は信じている――を脱ぎ捨て、それでも十二分に機能的かつかっちりとした私服をまとった彼女は今、敵を目の前にして呆然と立ち尽くしていた。
か弱い乙女の拳でなかったら、ぎりぎりと掌に爪が食い込んで、血が滴っていたことだろう。その右手に、今、携えられているのは鞭ではない。使い慣れたあの革の握りの感触が、冷たい木の柄に変わっただけで、これほど心細いものだったのか。鞭を手放し、唇を噛む彼女は、無力なひとりの少女に過ぎなかった。
「わ……私は、狩魔の娘……」
解き放たれたはずの依存にすら、すがらずにいられないのか。低い声が、軋る歯の間から漏れる。
「狩魔冥に、不可能はない……そうよ……私のロジックは完璧だった……なのに……」
鞭を振るように、ビュッ! と風を切って手に持ったものを振り下ろす。彼女の手を離れたそれは、家政婦が必死の思いで磨き上げたフローリングの床に、不吉な音を立てて突き刺さった。
「なのに、この無様なざまは一体なんだというの!」
これほど追いつめられた声は、法廷の敗訴の瞬間にすら出さなかったかもしれない。狩魔冥は、涙すらこらえて拳を震わせた。
床に突き立っている、彼女の頼りない武器は――ナイフ。
その刃にこびりついている、赤黒いどろりとした塊は――……
「……お、男らしい嘆き方だな……」
気圧された――というより、心底怖気づいた震え声をもらしたその口が、むんずと、別の人間の片手で塞がれた。
「――!!!」
むーむー、と窒息しかけて腕を振りまわす青スーツの弁護士を、有無を言わさず、口を塞いだ手の持ち主が引きずって廊下を歩み去る。
先ほどまで彼らは、冥の立ち尽くしているその部屋の入口に、顔の半分だけを出して、うち震えるその後ろ姿を及び腰で観察していたのだった。
スーツをかっちり着込んだ大の男ふたりが、少女の迫力に怯えながら覗き込んでいたその部屋を、通常、人はキッチンと呼ぶ。
そして、天才美少女検事狩魔冥は、その邸の中でもっともキッチンに縁遠い人間のはずだった。
――いったい彼女の身に何があったのだ。
デコラティヴな――確実に彼女と同じ趣味に染められていると思われる――、フリルタイも白くまぶしいワインレッドのスーツを着こなした男の、その、端正な眉間に苦悩の皺が刻まれた。もともと、愛想の良い顔ではない。それが眉間に皺を寄せると、もう、無罪の被告人ですら発作的に「許してくれ私がやったんだ」と土下座してしまいそうな迫力がある。
――私から問いただせば、角が立ってしまうだろうか。
そう考えたからこそ、いかにもものの役に立たなさそうなこの腐れ縁の悪友を、ひきずって連れてきたのだ。だが、悪友でもありライバルでもあり、そして何より腐れ縁でもあるこの男を、冥はいたく敵視している。父が、兄のような先輩が、そして自分自身が、敗北の屈辱を舐めさせられた相手なのだ、無理もない。
――連れてくるだけ無駄だったか。
連れてきたのは自分の癖に、うとましげに、押さえつけた頭を見下ろしてふと、男は――御剣怜侍は、鼻と口を両方押さえたせいで、友人が死にかけていることに気がついた。
「しっかりしたまえ、成歩堂」
小声で叱りつけながら揺さぶってみる。
「ち……ちひろさん、今いきますから……」
「成歩堂……?」
どうやら別の世界への入口に足を踏み入れているらしい成歩堂に、さすがに焦りを覚えて御剣は一喝した。
「異義あり!」
「うわっ!」
死にかけていても、天敵のあげるときの声はさすがに魂を打ち抜くらしい。成歩堂は跳ね起きて、存在しない法廷記録へと手を伸ばした。
「み……御剣……千尋さんが……千尋さんが川の向こうで僕に手を」
「いい加減、彼女に頼る癖を直したまえ……君がその様子では、いつまでたっても彼女も成仏できまい」
「そうだな……成仏して欲しくないって、僕や真宵ちゃんが思ってしまうのがまた、問題なんだろうな……」
「……気持ちは、わからないでもない……が」
「いや、いいんだ、御剣。……死者は戻っては来ない。それが本当は正しい在り方――」
「……人の家で何をしているの、貴方たち……」
立派な職業と立派な体格を持ち合わせたふたりの男が、いまさら己の目的を思い出した時には、すでに、包丁をそのほっそりした右手に持ち、レースを贅沢に使ったフリルエプロンに身を包んだ狩魔冥が、唇をわなわなと震わせながら立ち尽くしていた。
「メイ!」
その名を呼んで一歩前へ出ようとした御剣の、真面目そのものといった表情に、本能的に成歩堂は危機を悟る。
とっさに彼は親友の、その時代錯誤なフリルの襟を掴んで彼を後ろに引き倒し、お決まりのポーズでいきなり冥に指を突きつけた。
「狩魔検事! 君は大きな過ちをおかしている!」
「なっ……」
状況を整理してみれば、彼女は気づいただろう。日本滞在の時に使っている、彼女のこの一軒家に、チャイムも鳴らさず不法侵入しているのは、このはた迷惑な男たちの方だということに。
だが出会い頭のハッタリは、成歩堂がもっとも得意とする処だった。
「私が……私が何の過ちをおかしたというの! 成歩堂龍一!」
「玄関の鍵は、かかっていなかった!」
「……なんですって!」
つられて驚いた冥の、あまりに純粋な驚きように、成歩堂の後ろ手に押さえつけられた御剣が、何か物言いたげな様子を見せる。
だが成歩堂は御剣に一言も言わせることはなく、畳み掛けるように言葉を継いだ。
「閑静な住宅街の一戸建て、鍵のかかっていない玄関、中から漂う異臭……」
ババーン! とBGMでもつきそうな勢いで、成歩堂は再び、冥に指を突きつける。
「こんな状況では、犯罪と勘違いされて中に踏み込まれても仕方がない!」
「ああああああっ!」
「というかメイ、それは鞭ではない!」
とっさに、法廷の時と同じように、手の中の物を抱きしめようとした冥に、御剣が慌てて指摘する。
ぱっ、と包丁を手放した冥の、足先1センチ足らずの床に、鈍い音を立ててそれは突き刺さる。
重苦しい沈黙が、三者の間に流れた。
「……それで、」
包丁を屈み込んで抜くべきか、それでも見なかったことにするべきか、三者ともが悩んだまま、とりあえず冥が口火を切る。
「貴方たち……まさか、その、覗いたりは……」
「メイ……すまない、実は――」
「覗くって……着替えでもしてたのか? 僕たちは今ついたばかりだけど」
もう御剣に任せると何を言い出すか心配でならないらしい成歩堂が、再び御剣を押しのけてあっさりと言ってのける。
「そ……そう。見ていないなら結構よ」
動揺している冥は、御剣の主張には気づかず、視線をそらしながら落ち着かない様子で、それでも高飛車に頷いた。
「料理中かい?」
御剣が畏怖の視線を向けるほど堂々と、そらぞらしいほどに不思議げな顔をして成歩堂が、ゴージャスなフリルエプロン姿の、古式ゆかしいメイドさんのような冥を眺めやる。
「貴方には関係のないことよ」
つーん、と言い捨てて冥は、エプロンを外しながら背を向けた。
「紅茶ぐらいは入れてもいいわ。レ……」
レイジ、と呼びかけたのだろうか。言いにくそうに口篭もった次の瞬間、ぎこちなく言い直す。
「……あ、貴方なら知っているでしょう、御剣怜侍。居間よ。あそこでおとなしく待っていなさい」
「……了解した」
やや納得のいかない表情ながらも、おとなしく御剣は目礼し、成歩堂に向けて「こっちだ」と顎をしゃくってみせたのだった。
「状況を整理しよう」
今日も重力に逆らって見事に跳ね上がっているギザギザ頭を、ビシッ! と整え直して成歩堂は御剣に言った。
「それより成歩堂、いくら鍵が偶然空いていたからといって、忍び込むのは不法侵入では――」
「事の起こりは1月末日に、君が狩魔冥宅の家政婦から受けた報告だ」
遠慮がちな御剣の異義を見事に跳ねつけて、成歩堂は手もとの手帳をパシパシと叩いてみせた。
「日本滞在中の彼女は、基本的に家事――特に料理はまったくせず、すべてを家政婦と外食産業界に任せっぱなしだ。そうだね、御剣」
仕事熱心な弁護士の言葉に、思わず検事は素直に頷く。
「そうだ。彼女は料理に関するすべての作業を嫌っている。いや、憎んでいると言ってもいい」
「……いつも思っていたんだけど、狩魔家の人たちはどうして、何かを憎むということにあんなにエネルギーを傾けることができるんだろう」
「どうしてだろうな」
「いや、君もだって」
即答でつっこんでおきながら、成歩堂は御剣の反論を待たずに話を本題に戻した。
「それほどまでに料理を憎んでいる狩魔検事が、家政婦のいない時を見計らって、どうやら何らかの料理をしているらしい……しかも、」
「見る影もなくキッチンを汚しつつ……だ」
憂鬱そうに眉を寄せて、御剣は窓の外を見た。ロココ調だかバロック調だか何だか、成歩堂には理解できない見事な調度品の中で、ベストまでしっかり着用したスーツ(しかもワインレッド)を着込んだ男が憂鬱そうに腕を組むと、時はそのまま「風と共に去りぬ」あたりにワープして成歩堂だけが取り残される。
こいつ、この服装で小指立てて紅茶飲んだりしたらどうしよう、自分は突っ込まずにいられるだろうか、と悩みながら成歩堂は真顔で頷いた。
「掃除しても掃除しても、来るたびに汚れているキッチンを見かねて家政婦が、君に苦情を申し立てたわけだ。突然降って湧いた彼女の新しい趣味を、何とかしてやってもらえないか、と」
「なぜ相談相手が私だったのだ?」
「僕に聞くなよ」
「あの家政婦にとって、私はまだ狩魔家の一員だということなのだろうか……昔のままに」
「多分、君がマダムキラーなだけじゃないかな」
「なっ、何を言うのだ成歩――」
「さて、そこで問題なんだけど」
法廷で、彼の傲慢かつ(ほぼ)完璧な物言いに振り回される成歩堂は、ここぞとばかりに復讐の悦楽に酔いしれながら、やはり御剣の異義を却下した。
「御剣」
「……なんだろうか」
「どうして僕はここにいるんだろう」
「私が連れてきたからだろうな」
「……どうして君は僕をここに」
「メイに恩を着せる良い機会だと思うが」
しれっと吐かれた言葉に、成歩堂は目眩を覚えて天井を仰いだ。
「ありえない……」
「私もそう思う」
「おい!」
「いやまぁゆっくりして行きたまえよ成歩堂」
「目をそらすな、御剣! もしかしなくともお前、他に友達を思いつかなかったから僕を引きずってきたんだろう! そうなんだな!?」
「う……ム」
言葉につまった一瞬後、開き直った御剣は胸を反らして「光栄だと思え」と言い放った。
冥がトレイ片手に部屋の扉を開けた時、成歩堂と御剣は、口論を通り越してそろそろ掴み合いの喧嘩に発展しかけているところだった。
ソファに座ってそっぽを向いて読書中の御剣に、半ばのしかかってがぁがぁ抗議している成歩堂が、気づいた時には戸口に佇んだ冥が、まじまじと見つめているところだった。
「あ……ええと」
「随分と親密ね」
「ああ、うん、おかげさまで」
思わず成歩堂がとぼけた返事をしたその下から、うんざりしたような声があがった。
「……いい加減、どきたまえ」
持参してきたらしい資料の束を、成歩堂の顔に押しつけて彼を押しのけ、御剣はやれやれと溜息をつく。成歩堂にしてみれば、「溜息つきたいのはこっちだよ!」といったところだろう。
この男たち一体なんなの、と、半ば嫌気もさしながら、冥はそれでも律義に紅茶を出してやる。
だが、
「ふむ……?」
「……うわぁ」
招かれざる客ふたりの視線は、紅茶に――正確には、紅茶のカップを差し出した冥の手に釘付けになる。
「何よ――……あっ」
しまった、と思って手を引っ込めようとした時には、御剣の大きな手が素早く伸びて彼女の手を掴んでいた。
「火傷か? ……それだけではないな」
すらりと白い冥の手に、不格好な火ぶくれや切り傷の跡がある。
「手当しておいた方がいいよ、それ。救急箱ある?」
「この部屋を出て右に曲がって階段の傍、電話の脇の収納スペースの一番下だ」
「御剣、僕は君がそんなことまで知っている理由を突っ込んで聞かない方が良いのかな」
「問いつめる暇があったら救急箱を取って来い」
「はいはい、行って来ます」
「ちょっ……は、離してよっ」
勝手にてきぱきと働きはじめる法曹界のやり手ふたりに狼狽して――それ以上に、幼い頃から兄妹のように行き来しているとは言っても、立派な若い男性に手を取られてまじまじ見つめられていることに狼狽して、冥は手を振り解こうとする。
だが、
「メイ、いいかね」
そのあたりをまったく斟酌しない鈍感な御剣は、あろうことか、立ち上がるとメイをしっかりとソファに座らせて、自分はその傍らに跪いた。
誰か助けて! と、気恥ずかしすぎるその構図に耳まで冥が赤くなってなお、気づかぬ御剣は生真面目に言葉を継ぐ。
「自分では気づかないかもしれないが、最近の君は少し挙動不審だ。周りの皆が心配している」
「……余計なお世話よ」
「私の心配も余計かね」
「あ、あなたに心配される筋合なんてない!」
「……」
冥の罪悪感を心底抉るような表情で、ひとしきり沈鬱に顔を背けてうつむいた御剣は、やがて、そのままぽつりとつぶやいた。
「君は、成歩堂に、私のことを弟のようなものだと言ったそうだが」
「そ、それは……」
「弟が姉を心配するのは、おかしいだろうか」
どう考えても、キッチンを少しばかり破壊したり、手が怪我だらけになったり、始終苛々したりしている程度で、年上の弟弟子がおろおろするのはおかしいだろう。そうは思ったが、冥はつい、答えそびれて黙り込んだ。
「……力にならせてほしいのだ」
反則な優しさで、御剣は冥の手をかすかに握った。
「力になる、ですって……? あなたに、私の何がわかるって言うの!」
悲壮な声をふりしぼって、冥は弱気になるまいと唇をかむ。
「メイ?」
「私が、どれだけあなたに引け目を感じていたか、知りもしないくせに……そうよ! あなたはいつもそう! 私がどれだけ後を追いつこうとしても、振り向きもせずに涼しい顔で一歩先を行ってしまう! 完璧に!」
「メイ、私は……」
「修羅場中に悪いんだけど」
割り込んだ声にふたり揃って振り向けば、片手に救急箱を提げた成歩堂が、頭をかいてヘラ、と笑った。
「とりあえず、手当をしよう。御剣が右手、僕が左手」
「了解した」
「ちょっと、あなたたちッ――」
両手を男どもにとられてねんごろに手当されるなど、あらゆる意味でやっていられない。冥は顔を真っ赤にして立ち上がろうとしたが、真面目に悲しげに無骨に見つめてくる御剣と、「まぁまぁ」とのらりくらりなだめてくる成歩堂のダブル攻撃に、呆然と座り直さずにはいられなかった。
てきぱき綺麗に包帯を巻かれた両手を、冥は絶望の表情で眺めている。彼女の座るソファから、少し離れたところに成歩堂は、「ちょっと」と御剣を引き寄せた。
「何だ成歩堂」
「あのさ、君、そんなに彼女にひどいことばかりしてきたのか?」
「……むしろ私の方が、狩魔家の父娘に虐げられてきたと思うのだが」
「それに異義はないけど」
「どうして異義がないのよ」
低い声をかけられて、大の男が揃ってふたり、身をすくませる。
「み……御剣。とりあえずお前が悪い。謝りなさい」
「う、うむ、すまなかった」
「とってつけたような異義も結構よ!」
憤懣やるかたなしといったように、少し復活してきたらしい冥は勢いよく立ち上がった。
「メイ、その……」
「私の力になりたいと言ったわね、御剣怜侍、成歩堂龍一!」
「いや、僕はつきそいで――ぁダッ!」
「勿論、ふたりで力になるつもりだ」
成歩堂のささやかな異義を、かなりの力で彼の足を踏むことで打ち消して、御剣は友人の分まで勝手に助力を請け負った。
「いいわ。見せてもらいましょう、あなたたちの覚悟を!」
高らかに言い放つと、冥は足音も荒く部屋を出ていく。
「み、……御剣、お前ぇ!」
「今度、真宵君の機嫌がどうしようもなく悪くなった時に一報したまえ。今回の借りを返してやる」
「うわっ、ありがとう! ……ってそうじゃなくて!」
とっさに礼を言ってしまった成歩堂が悔やむ間もなく、冥はすらりとしたその姿を再びふたりの前に見せた。
臨戦態勢は万全――先刻のフリルエプロンをばっちり着込み、包帯の上にゴムの手袋をした彼女は、ふたりの前に仁王立ちになると手に持ったものをつきつけた。
「……エプロン?」
眉を寄せてつぶやく御剣の傍らで、冷汗をたらして成歩堂が後ずさる。
「ま、まさか、狩魔検事、これ、僕たちが……」
「ご想像の通りよ、成歩堂龍一。
……キッチンに入るにはエプロンをつけ、髪が落ちないように包むか縛る。常識でしょ?」
ソファの上に無造作に投げ出されたのは、冥のものとお揃いの、きらびやかなフリルエプロンと三角巾。
「勘弁してくれ……」
成歩堂は頭を抱えた。
敗北を知らせる木槌ならぬ、冥の一言が今にも放たれようとする。
だが、それを片手で押しとどめ、御剣はゆっくりと前に出た。
「意図はよくわからないが、これが私の覚悟を問うというのなら……」
バサッ! 気障な仕草で、ワインレッドのジャケットを脱ぎ捨てると、御剣はそれをソファに放る。
「……私は甘んじてそれを受け入れよう」
引き締まったウェストを強調する黒のベスト、それを軽く整えて威儀を正した御剣は、フリルエプロンと三角巾を手にとる。
そして、眉間に皺を寄せた恐ろしく真摯な表情で、素早く袖を通し、機能的な動きでしっかりと、ひらひらひらめくフリルの紐を蝶結びに締めた。
「よし、がんばろうか御剣!」
やけくそに明るい、確実にどこかが吹っ切れたらしい成歩堂の声が響く。
そして彼は勢い良く、フリルエプロンを取り上げると、己の姿を見ないように天井を見上げてそれを着けた。
ご丁寧に三角巾までしっかり巻きながら、御剣は1ミリの動揺もなく「さて、メイ」と彼女を振り返る。
だが、
「……メイ?」
当の冥は両手を顔で覆い、ソファに突っ伏すように膝をついていた。
「いや、笑って良いよ、狩魔検事」
冷静に成歩堂が許可を出し、耐え兼ねたらしい冥はめずらしく――実にめずらしく、けらけらと甲高い声で爆笑した。
見慣れない光景に、男ふたりが唖然と見守る中、震えながら、笑いつづける彼女は涙を拭く。
「わ、……わ……わたしの負けよ……お願いだからそれ、脱いで頂戴……」
「……代わりのエプロン、貸してくれる?」
「貸すわ……貸すから……お願い……」
ひきつりながら何度も頷き、冥はよろよろと立ち上がった。
「だめ……私、今度から法廷に立つあなたたちを見るたびに、きっと思い出して笑えてくる……」
「そんなにおかしい姿だろうか。エプロンはそれなりに着けなれているつもりだったが」
本気で不審げに御剣は言って、本棚のガラス戸の前にいかめしく佇み、頭の先から爪先までをじっと睨んで検分する。
やがて、
「……たしかにおかしいな」
ぼそりとつぶやいたその言葉に、今度は、冥だけでなく成歩堂も、フリルエプロンをつけたまま、転げまわって笑い出した。
手慣れた仕草で、御剣は手の中のものを細かく包丁で削っている。実に優雅なその手つきを眺めやって、成歩堂はその視線を、御剣の傍らの冥に移した。
「何か御用かしら」
冷たい声で尋ねられ、肩をすくめてからその傍に歩み寄る。
ちょいちょい、と手招きをして冥の耳元に手をあて、囁いた。
「何となく、君の言いたいことも判る気がする」
こんなに料理のうまい男が傍にいては、なるほど、料理の不得意な彼女は「あなたに何がわかるっていうのよ」とヒステリーのひとつも起こしたくなるだろう。まったく、不器用な一面もあるくせに、なぜこんなことだけが上手いのか。
そこまで考えて成歩堂は、ひとり小さく笑うと、硬い表情で彼の囁きを聞いている冥に、言ってやった。
「でも、そう悲観したものでもないと思うよ。小学生の時のアイツ、折鶴ひとつまともに折れなかったんだから」
「……そうなの?」
思わず冥が、成歩堂の顔を見上げる。
「そう」
力強く保証してやれば、「そうなの」と再びつぶやいた冥の口元に、ふと、どこかはにかむような笑顔がちらり、と見えかけて、おや、と成歩堂はそれを覗き込んだ。
鞭を振り回し、天才検事と謳われ、18歳でせいいっぱい背伸びして、法廷に立つ彼女からは、それは考えられない笑顔だったのだ。
だがその瞬間、
「冥、ちゃんと見ているか?」
穏やかだが断固たる先生の声が飛び、残念なことに、「見てるわよ!」と冥はあの厳しい表情に戻って、成歩堂に背を向けてしまったのだった。
そして、2月14日。
めったに座らぬデスクにどっかり腰を下ろして、成歩堂は卓上の花を睨んでいた。いや――花と見まがう、愛らしいピンクのラッピングがなされたそれは、独特の甘い匂いを漂わせている。
『いやぁ、すみに置けないなぁ、なるほどくんも』
この、この、とニマニマ笑いながら彼をつつく、真宵の奔放な笑顔を成歩堂は思い出す。
帰宅した彼を待っていた、この小さな箱。差出人を示すものはない。真宵はチョコレートケーキを二人分買ってきて成歩堂と一緒に食べたし、春美からの贈り物ならば、真宵はちゃんとそう言うだろう。第一、彼女の敬愛する真宵の恋人が、成歩堂なのだ……と、そう信じ込んでいる彼女が、成歩堂にチョコレートを送ってくるとは考えにくい。
――まさかとは思うけど……。
成歩堂は、ラッピングをほどいたその箱の中身を、もう一度覗き込んだ。
少し空気の泡が入った、いかにも手作り風味の――正直に言えば、少々不恰好なトリュフがころころと、彼の視線を出迎えている。
さんざん悪戦苦闘しながら、御剣が冥に教えていたのもやはり、チョコレートの……それもトリュフの作り方だった。
――いや、でも、まさかなぁ……。
遭遇するたびに鞭でひっぱたかれている成歩堂には、どうせ義理だとわかっていても、やはり咄嗟に信じられるものでもない。
それでもひとつ手に取って、口に放り込んでみる。
がりり、という微妙な音がした時点で、成歩堂の疑問は少し、確信に近づいた。
同じ時刻、執務室のデスクに、同じくどっかり着席した御剣怜侍検事が、同じく首をかしげて、デスクの上のブルーのラッピングの小箱を眺めていたことを、まだ、成歩堂は知らない。