同じ色の瞳
『成歩堂さん。……あなたを見て、だれかに似ていると思いました。
……わかりましたよ。この検事さんです。』
車椅子の青年があの時指差した、きつい眼差しの少女が今、子供のように顔をくしゃくしゃにして泣いている。
その様を見ている成歩堂の手から、眼を通す余裕などなかった雑誌が滑り、そして、空港の床にばたんと落とされた。
イトノコ刑事が連絡をとってきたのは、成歩堂決死のディナーの翌朝のことだった。
経済的にも精神的にも、肉体的にも二日酔になって死にかけている成歩堂を、朝っぱらから派手に「トノサマンのテーマ」で叩き起こしてくれたのだ。
くだらない用件だったら検事に転職して有罪にしてやる、などと物騒なことを考えながら、携帯を耳に当てた彼の眠気を、イトノコ刑事は一言で綺麗に吹き飛ばした。
『御剣検事、海外に行くらしッスよ!』
次の瞬間、成歩堂は跳ね起きてパジャマのボタンを外しはじめていた。
話をよく聞けば、何のことはない。御剣がニューヨーク行きの国際便を事務官に調べさせ、その上で「外出する」と言い置いて出ていっただけの話だ。
それだけで「また御剣検事が高飛びッス!」と早合点して成歩堂に電話をかけてきたイトノコ刑事を、だが、成歩堂は責める気にはなれなかった。
――僕だって、職務そっちのけで真っ青になって追っかけるよ。御剣。
当たり前だろう。それほどまでに……
……それほどまでに、残された者に深い傷を与えたのだ。御剣の失踪は。
親しい――少なくとも、親しいと信じていた――誰もが、己を責め、御剣を責め、心身ともにひどく荒れた。勿論、検事局にはしっかりとした手続をとっていたからこそ、帰国後すぐに検事として動けたのだろうし、イトノコ刑事とは、それなりに連絡をとりあっていたらしい。
それでも。……それでも。
成歩堂の視線の先で、少女はバッグを取り落とし、両手を顔に当てて泣きじゃくる。御剣が不器用にその頬に触れ、髪に触れ、そして肩に触れている。一言も言葉をかけることはなく。
『……おふたりの見ている方向はちがうのかもしれません……今は。
でも、あなたたちの目は同じ色をしています。』
車椅子の青年は、そう言って成歩堂を見上げてニッコリと笑った。
何もかも相容れぬ、天敵のような存在と似ていると、そう言われてあの時の成歩堂はひどく動揺したものだった。
あの少女と、自分は同じ眼をしていたのだろうか。
なくしてしまったものを、憎み、切り捨て、それでも必死に追いかけて、だが、追いかける理由には顔を背けて、
がむしゃらに進むことで振り切ろうとする、
……そんな、眼を。
『私はもう一度、あの男に会わなければならないの。』
あの時の、爪が食い込まんばかりに拳を握りしめた、余裕たっぷりの笑みとは裏腹に震える、少女のほっそりした手指を思い出す。
あいつは死んだ、と成歩堂は自分に言い聞かせつづけてきた。「死を選ぶ」、そう言ったのは御剣本人だった。
死んだのだ。もう一度やり直せるのだと、煉獄の炎に焼かれながら法廷に立ちつづける必要はなくなったのだと、憎しみと執着だけで勝利にしがみつかずとも、共に真実を発掘していけばよいのだと、その為に、我らは向かい合い、対峙しているのだと――……そう、これから語りあうべき未来が待っているはずだったのに、その未来をあっさりと、捨てて御剣は死んだのだ。
――僕が、殺したのか。
あの日、彼が狩魔豪を打ち倒した弾丸は、15年前に御剣信の命を奪うに足らず、狩魔豪の検事生命を奪い、そして……その二者と分かちがたく結びついていた御剣怜侍の生命をも、奪い去ってしまった。
少なくとも、彼はそう思い、心の中で御剣を殺しつづけて生きてきたつもりだったのだ。
だが、
『私は信じない。
彼は生きている。
この世界のどこかで……かならず。』
まっすぐな眼で、必死な眼で、泣きそうな眼で少女は言った。
離れたところから、後ろめたく半ば隠れて様子を見ている成歩堂の前で、今、御剣に頭を撫でられて泣いている、狩魔の娘、18歳の天才検事。
『私はもう一度彼に会って……
ケジメをつけてやるわ!
……私の手で、ね……。』
成歩堂龍一は、「検事・御剣怜侍」をその手で殺したのだと思いつづけ。
狩魔冥は、「検事・御剣怜侍」をその手で殺すのだと想いつづけた。
「同じ色の眼」をして、
「違う方向」を見据えながら。
不意に目の前に、雑誌が一冊突き出された。
ぼんやりと顔を上げて、先ほどまで数十メートル先にいたはずの男が、雑誌を差し出し、黙然と自分を眺めていることに気がつく。
「……やぁ、御剣」
おはよう。そう言って困ったようにえへへ、笑えば、少し首を傾げてから、御剣もまた「おはよう」と無骨に答えてきた。
その広い肩の向こうに、ショートボブの泣き顔の少女の姿はない。随分と長い間、成歩堂は物思いにふけっていたようだった。
ぼんやりとしたけだるさの中で、雑誌を受け取って立ち上がる。
「成歩堂?」
何も聞こうとしない御剣は、ただ、生真面目な声で名を呼んだ。
見ていたのか、とも、なぜここに来た、とも尋ねようとはしない。
成歩堂も、自分から言い出そうとは思わなかった。
「メシ、まだだよな?」
「昼飯か?」
「うん」
「そういえば、まだだな」
「行こうよ」
な? と、振り返って軽く肩の動きでいざなえば、わずかに口元をほころばせて、「君の奢りだろうな」と御剣はつぶやき、肩を並べた。
順番を待つ間、堂々たる広い胸をややそらすようにして腕を組み、じっと、ショーケースの中のサンプルを睥睨している御剣を、成歩堂はしばらく眺めていた。
相変わらず、基本的にどこか大げさでクソ真面目なんだよな、と、にしんそば定食と睨み合うその姿に心で頷く。
考え込む御剣が、にしんそばと天ぷらそばのどちらを頼むべきかで深甚なる沈思の小道に迷い込んでいるのか、それともプラスチックのサンプルの単価を計算しているのか、はたまたショーケースの中のかすかな埃でも見つけて眉をひそめているのか、それは成歩堂にもわからない。
だが、
――どれもありえるのが、ちょっと怖いな。
案外、「そばアレルギーとは何と恐ろしいものだろう。私は花粉症ひとつですんで神に感謝するべきなのかもしれん……フッ、神の実在を信じているかと聞かれればそれも疑わしいものだが」などと考えているのかもしれない。どちらにせよ、なにを考えていても不思議ではないのが、御剣という存在だった。
「なぁ、御剣」
「何だ、成歩堂」
山掛けそばの黄色い丸を眺めながら、御剣は無愛想に返事をする。
「アクロさんに言われたんだけどさ」
「む……」
気難しげに寄ったままの眉が、かすかに動いた。
「僕と狩魔冥検事の目は、同じ色をしているらしいよ」
「……目が?」
御剣はそこでやっとサンプルから視線を外し、成歩堂の眼の中を覗き込むような仕草をした。
「メイの眼は……もっと薄い」
「そうじゃなくてさ」
少しだけ笑い、自分が笑えたことに安堵して、その笑いの残滓のままに、成歩堂は何気なく言葉を継いだ。
「さっきの彼女を見て、アクロさんの言いたいことがわかったような気がした。
……僕と彼女は、同じ物を見失い、同じ物に怒り、同じ物を眼で追っていたんだろうなって」
御剣の眼が、少しだけ細められて成歩堂を見つめる。
そして彼は、傲然と腕を組んだまま、だが、深くおだやかな声で言った。
「君も……泣きたかったか?」
予想外のその問いに、成歩堂もまたその顔を見直し、だが、揶揄や挑戦の感情を相手から見出せずに、困ったように頭をかく。
「どうかな……ちょっとは、泣きそうだったかな。けど……
やっぱりいいよ、僕は」
「いい、か」
「うん。
君も、泣かなかったしね」
御剣も、15年の歳月がすべて崩れ落ちたあの日に、ただ、瞑目することしかできなかったのだ。
子供のように泣きじゃくるには、彼らは、少し年をとりすぎていて……そして、互いのライバルであることに、強い誇りを抱きすぎていた。
互いに、互いだけには二度と見せることのできない、弱い顔があり……少女の激情の発露を、羨ましいような、懐かしいような気持ちで眺めても、もう、戻ることのできない日々があることも知っている。
「……フン」
苦笑して、御剣が手を伸ばし、その強い手で成歩堂の肩を掴んだ。
軽く揺さぶって、そして放つ。問いの形をとった、確認を。
「君と私は、きっと……それでいい、んだろうな?」
「それがいい、と強がっておくさ」
成歩堂が言い返せば、世間話の苦手な男の、ぎこちない笑みが口の端にのぼる。
そしてそのぎこちない笑みのまま、御剣は言えずじまいの言葉を、ごく自然に言うことができた。
「すまなかった。成歩堂」
「……ちくしょうッ、それは反則だ!」
なぜか一気に泣いてしまいそうになって、そんな自分に焦りながら、成歩堂は片手で己の両眼を覆う。
「修業が足りないよ、弁護士クン」
ぽんぽん、と背中を叩いて御剣は、ようやく空いた席に向かおうと先に一歩を踏み出した。
ぐっと喉の奥にこらえて塊を押し込んで、成歩堂は両手でビシッ! と今日もよく尖った髪を整え直し、胸を張って顔を上げた。
「早く来い」
のれんをくぐった検事が、あのお高く取り澄ました皮肉な笑いを浮かべて、片方の肩をすくめてみせる。
「わかってるよ! ……やっぱり今日はお前の奢りだからな!」
ふたりの男の他愛のないばか騒ぎを包み込んだ、ビルの上空。
航空機が目にまぶしく白い雲を引き、青空の中に消えていった。