業を抱きし柔き胸



狩魔豪の自慢の秘蔵っ子は、自分ひとりだと思っていた。そんな冥のプライドを打ち砕いたのは、昏い眼をした陰気なひとりの少年だった。


休暇をもらって、アメリカ留学から帰って来た冥に、父はその少年を紹介した。伏し目がちに、少年は冥の前に佇んでいた。時代錯誤な良家のご子息といった様子のスーツ。そのかっちりした服装は、冥を不快にはさせなかった。
――狩魔の……お父様の教えを請いに来たのね。
冥はまだ10歳だった。それでも、世の中の大概のことはすでに知ったような気になっていた。もちろん、父にはかなうはずもない。それでも、見事に均整の取れた長身で、沈鬱に彼女を見下ろしているこの、つまらなそうな年上の少年に、自分が負けるはずはないと思っていた。
――それにしても。
「御剣」という名に聞き覚えがある、と言って首を傾げれば、父は娘の記憶力の良さを喜ぶように声を上げて笑った。少年の昏い瞳の奥に、ゆら、と何かが揺らめいたように思えて、冥は不覚にも、一瞬気圧された。だが、次の瞬間、少年は礼儀正しく目礼して、師の許しを請うように、ちらりと彼を見上げた。行け、と父が手を振れば、ものしずかに背を向ける。
どうせ、じきに自分は司法試験に合格するだろう。ならば、彼は自分の後輩になるに違いない。――そう、未だ心幼い冥は、ごく自然にそう考えた。己の甘さに、その時は気づきもしなかった。


御剣怜侍が司法試験に合格したのは、そのわずか1年後のことだった。


父は、司法修習生の御剣怜侍を、大学に進学すらさせずに手許に囲い込み、ほぼすべての裁判に、助手として従えて赴いたらしい。
その報せを冥は、太平洋の西側で、苛立ちに歯ぎしりしながら受け取っていた。
父は、愛娘相手でも容赦はしなかった。彼女は時折論戦を挑んでは、決まって、完膚なきまでに叩きのめされた。それでも、父は娘が挑んでくること自体を喜んでいたし、幼き法曹の同志として、決して手加減はしなかった。
少なくとも冥は、そう思っていたし、そう願っていた。
だが、彼女は日本滞在のたびに思い知らされることになった。
人目を顧みず、罵声とともに分厚いファイルの束を叩きつけた父の姿。そのファイルで頬を打たれ、あの堂々たる体躯を床に無様に転げさせた御剣怜侍の額の血。
父の職場を訪ねた冥が、ただ立ちすくむその目の前で、御剣怜侍は緩慢に、だが慣れた様子で起き上がると、散らばったファイルを集めはじめた。その手が止まり、冥はとっさに、彼が顔を上げるのだろうと、なぜか、身を硬くした。
だが御剣怜侍は、顔を上げようとはしなかった。
彼はファイルの中の、とある頁に視線を落としていた。その手が顎を撫で、しばし考え込み、それから、眼がぎらりと輝いた。次の瞬間、彼は跳ね上がるように立ち上がり、そのファイルを小脇に抱え、すでに歩きはじめた師の後を勢い良く追いかけた。
「先生!」
血も拭わず放たれた、ビリビリした朗々たる声。冥は、彼がそんな声を放つ男だとは思っていなかった。狩魔邸で、彼が見せる顔は沈鬱な、おだやかな、ほの暗く、だが、それなりに冥の存在を尊重する、そんな、つまらなく礼儀正しい青年だった。
だが今、憎悪のような激しい声で、御剣怜侍は父を呼んだ。父は立ち止まらない。追いすがる弟子の言葉を、前を向いたまま聞いていた。
御剣怜侍は乱れた髪を直しさえせず、堂々たる体格にふさわしい、堂々たる身振りで話を続ける。やがて、時折、父の頭がかすかに頷く形に揺れるようになった頃、ふたりの姿は廊下の向こうに消えた。声をかければ、ふたりとも振り返ってくれただろう。だが、冥は言いようのない憤りに打ち震えたまま、一声たりとて放つことはできなかった。
憎悪のような情熱。
父のそれは御剣怜侍に全面的に向けられて、彼をまるで押し潰さんとするかのように、徹底的に叩き付けられていた。御剣怜侍のそれは、父に向けられることはなかったが、何か別の――……「法」そのものか、「世界」そのものか、あるいは「自分」だったのか、そんなものに向けられているように冥には思えた。
どのみち、その暗く深く激しい感情は、冥の中には存在せず、また、冥に向けられたものでもなかったのだが。


御剣怜侍は、狩魔邸に個室をあてがわれている。もともと客間のひとつだったそこに、彼はほとんど住み込みで狩魔豪の教えを受けていた。冥が、はなばなしい戦歴と手柄話を土産に日本に帰省する時、食卓には彼もいて、おだやかに彼女の話を聞いていた。
食事の後に、冥は紅茶を飲みながら、よく男たちに論戦を吹っかけた。御剣怜侍は、口数の多い弁士ではなかった。彼は相手の手の内を、じっと観察するタイプだった。注意深く冥から情報を引き出し、情報が揃った、と見るや一気に反撃の刃を突き立てるそのやり口は、父に似ているような気もするし、似ていないような気もするのだった。
若いふたりが戦っている時は、父は論戦に参加しようとはしなかった。ただ、冥と怜侍が互いの叡智を尽くす様を、口元に笑みをにじませて鑑賞していた。己の育てた二匹の闘犬が、食らい合う様を眺めるように。


結果の出るような議論は少なかったが、稀に――ごく稀に、冥が論戦に勝つことがあった。
黙り込む御剣怜侍に、父はグラスを揺らしながら唇の端を釣り上げ、こう言った。


「姉弟子とはいえ、七歳年下の子供に敗北するとはな。
 父親の程が知れるぞ、御剣」


刹那、御剣怜侍の鋼のような肢体が、獰猛な怒りで膨れ上がったような気がして、冥は息を飲んだ。
そして同時に、彼が言われた言葉の意味に気づく。
御剣怜侍の父親「御剣信」は、身の程知らずにも、最強の検事狩魔豪に、戦いを挑んで来たと言う。
そんな父親の息子だから、狩魔の血には勝てないのだ――それは裏返せば、そんな父親の息子がいくら、狩魔の薫陶を受けたにしろ、冥に勝つことがあってはならない、ということになる。
――私は、狩魔の娘。
息苦しいその事実の重さを、誇りに無理矢理ねじまげて、冥は傲慢に顎をあげて御剣怜侍を見下した。


狩魔の娘であり続けるということ。
その重圧は彼女しか知らず、彼女はその重圧あればこそ、すさまじい努力の末に最年少の検事にのしあがった。
だが、その彼女と同じく――あるいは、彼女以上に――必死の努力で、飛び級などもない日本の地で、英才教育を受けているわけでもなかった御剣怜侍は、20歳の検事になった。
――何の為に?
彼の父が殺されたことに、何らかの関係があるのだろうということしか、まだ少女の冥にはわからなかった。御剣怜侍は、己のことは頑なに話そうとはしなかったのだから。


一度だけ――15歳の時に、冥は、真夜中に御剣怜侍の寝室を覗いたことがある。はしたない意図などはなかった、と、後に彼女は自分自身に言い聞かせたが、その度に何とも言えない、後ろめたい気持ちになって苛々するのも確かなのだった。
事の起こりは、使用人たちの噂話だった。少年の頃より、彼を訪れるらしい悪夢。「無理もないわね、目の前でお父様があんなことになって……」と、声をひそめて語る彼女たちの話を、冥は小耳に挟んだのだ。
目の前で、父を殺される。それがどんな恐ろしいことなのか、さすがの彼女も想像することはできなかった。
聞けば稀に御剣怜侍は、部屋の外に聞こえるほどの声をあげて、うなされることさえあるという。
それを聞いた夜、冥は夜中に起き出してスリッパを脱ぎ、裸足でそっと、御剣怜侍の部屋の扉に耳を寄せた。たしかに、彼女はうめき声を聞いた。彼女は、その声を聞いたことを後悔した。
扉越しに聞いてしまうと、その声は恐ろしいほどに――……下手をすればいっそ淫らと表現しても良いほどに、背徳的なうめき声であったのだ。たしかに、悪夢に苛まれる苦痛の喘ぎであるはずものにかかわらず。
とっさに、「もしかして」と、想像先走る多感な年頃の脳裏に、ひどく後ろめたい想像がよぎる。自分はもしかして、あの端正な青年のとんでもない声を盗み聞いてしまったのではないか。
対応に困り、両手で口を押さえて後ずさった時、
「何をしている」
低い低い声に、文字どおり彼女は飛び上がった。
振り返れば、部屋着の上にガウンを羽織った父が、恐ろしい顔をますます恐ろしく厳格に歪め、じっと佇んでいる。
「お……お父様、」
この状態の父に、嘘など言う度胸はない。即座に冥は、最小限の事実を手早く答えた。
「レイジがよくうなされているって聞いたから、様子を見に来たの」
「……ふむ?」
うち震えて自分を見上げる愛娘。法にまつわることならともかく、プライベートの狩魔豪は、必要以上に厳格な父、というわけでもなかった。眉をひそめると、コンコン、と軽くドアをノックしてから、父はかすかに声の漏れるその扉を素早く開いた。
冥にとってはありがたいことに、御剣怜侍は、やはり、悪夢にうなされているようだった。おかしなことに、彼はカーテンを一切閉めず、もう晩秋だと言うのに窓まで開け放って、ベッドサイドの明りを点けて眠っていた。
ぎりぎりと、シーツを握りしめて青年は、端正な顔を恐怖に歪めて大きく喘いでいる。思わず、ふらふらと引き寄せられそうな……そんな悩ましい表情で。
「部屋に戻りたまえ、メイ。この男も、年頃の少女に見られたい顔ではないだろう」
部屋に入ろうとはせず、扉の外に立ち尽くしていた冥に、背中を向けたまま父は言う。
「……おやすみなさいませ、お父様」
一瞬の沈黙は、なんの逡巡だったのか、自分でもよくわからぬままに、冥はそう言って優雅に膝を折り、顔を上げ――……
ベッドを見下ろす父の横顔に、思わず声をあげそうになる己の心を必死に抑え込んだ。


彼女の父の眼は、笑っていた。
憎悪と嘲弄と、おそらくは、歪みねじれた愛情をマグマのように噴き出させながら。


その手が、空気を求めて何度もせつなく上下する青年の喉に、ゆっくりと伸びる。
――お父様! レイジ!
呼べず震える少女の前で、父はゆっくりと、ひどくゆっくりと青年の喉を掴み、少しずつ力を込めていく。
「……がッ……」
締められた喉から苦鳴が上がり、引っ張られたシーツがミシリ、と音を立てる。
……だがやがて、父の手はがっしりしたその首から這い、襟元を掴んで「起きたまえ、御剣」とやや荒っぽく、彼を揺さぶった。


目覚めて跳ね起きたのだろう、激しい衣擦れの後にかすれた声が、「せんせい、」と呼びかける。
それを背中に聞きながら、冥は小走りに部屋の前を走り去った。


己の中の闇を自覚したのは、その時だったのかもしれない。
彼女を絶対的に支配する父の、その愛情よりずっと強い憎悪を、御剣怜侍は一身に受けている。
そして、礼儀正しく、優しく不器用に彼女に接するあのほの昏い青年は、己の内を食い荒らす虚無や嵐と戦うのに必死で、彼女のことも、……父のことすらも、ちっとも受け入れてはいないのだ。
――貴方になんて。
ベッドに飛び込んで、訳も分からず冥は声を殺して泣いた。
――貴方になんて、負けはしないわ。レイジ。
行ってしまう。
いつか私を置き去りにして、食らい合い殺し合いながら、彼らは遠くへ行ってしまうのだ。大好きな、大嫌いな――そんな感情すら麻痺するほどに、重くて近しい人たちなのに。


――負けないわ。負けるものですか。
彼女は呪いのように、その言葉ばかりを呟きながら、朧な未来の分まで涙を流し尽くした。
いつか彼らが彼女を置いていったその時、無様に泣かずにすむようにと。