駒と駒の邂逅



倉院里育ちの千尋には、同世代の女性の華やかな会話は時に苦痛でもあり、時に新鮮でもある。それでも、彼女にも人並みに、服装や、魅力的な異性や、美味しい食事への興味はあるから、友人たちの会話を聞くのは決して嫌いではなかった。
その日も彼女は、新素材のストッキングの履き心地について熱弁する友人の話を、うんうんとそれなりに熱心に聞いていたところだった。日の当たる喫茶室は、気分がのびのびとして居心地が良く、研修所の中でも、彼女のお気に入りの場所のひとつだった。
彼女の前で熱弁を振るっている同期の友人は、客観的に見て、美人というほどではなくとも、自分の雰囲気によくあった身なりをした、魅力的な女性であった。千尋より二歳年上だが、年下の千尋を随分と可愛がり、対等に接してくれている。ありがたいことだわ、みんな親切な人たちばかり、と千尋は素直に思っているが、彼女は、美しく若く、気取らず聡明な自分が、いかに魅力的な人物かを知らない。
「あら」
明日の休みは一緒に買物にいこう、と千尋を勧誘していた友人が、不意に会話を止めて千尋の後ろを見透かすような仕草をした。
「どうしたの?」
敬語禁止、とその友人に言い渡されている千尋は、友人の視線の先を振り返ろうとする。
その腕を引いて押しとどめ、友人は囁いた。
「御剣クンが来てるわよ、珍しい」
「御剣……くん?」
「今年の最年少合格者。知らない?」
「ううん……」
もちろん、千尋は知っていた。御剣怜侍。今期、もっとも有名な合格者と言って良い。高校卒業と同時に司法試験に合格し、すでに裁判・検察各教官から、強烈な誘致がはじまっているという話である。
ただ本人は狩魔検事に公私ともに師事しており――狩魔検事が、我が子以外に教えを授けたのは彼ひとりなのである――、おそらく間違いなく、検察の道を進むことになると思われた。
だが、千尋が思い出したのはそのことではない。
――あの時の子供が、もう、司法試験に……
千尋の母の運命をへし曲げたあの事件……DL6号事件は、10年、いやまだ9年前のことだ。あの時、ずたずたに引き裂けた眼をして、それでも気丈に、互いを護ろうと親子寄り添っていた、その少年を、千尋の母は見たらしい。
何とかしてあげたいわ、あなたと年の近い子なのよ、と千尋に笑いかけて、倉院の里を旅立った母は……二度と、戻っては来なかった。
わざとらしくないよう、振り返る。
千尋たちからふたつほど離れたテーブルに、端正な面差しの青年が、かっちりとしたスーツをまとって着席していた。
ものうげに眼を伏せて本を読んでいる。目元に疲労の色が濃い。無理もない。周囲は全員、彼より少なくとも2年は年上なのだし、つい一ヶ月前までは、特進とはいえ年齢的には高校生だったのだから。
――なんだか、かわいそうね。大学進学はしないのかしら。
なにが彼をそんなに駆り立てるのか。何となく、千尋には理由がわかるような気がした。千尋もまた、根本を同じくするものに駆り立てられて、霊媒の技術すら捨て、こんなところまで流れ着いているのだ。
――運命、っていう言葉は陳腐だけど……
あの事件に運命を狂わされた親を持つ、ふたりの子供が今、こうして同じ場所で学んでいる。それは千尋に、奇妙な予感をもたらした。
――あの事件はまだ、終わってはいない。
当時の無力な子供たちが……きっと、何かを目覚めさせる。今すぐでなくとも。時効には間に合わずとも。いつか、きっと。


不意に、青年が顔を上げてこちらを見た。
視線に気づいたのだろうか。千尋はニコ、と笑って目礼する。
青年は何かを言いかけ、だが、黙って少し頭を下げた。
じろじろ見すぎたかしら、と内心、千尋は少し反省する。相変わらず、自分の外見のことは頓着していない。研修所の若き天才と若き才女が、ふたり揃っているとすれば、それは衆目を集めて当然なのだ。御剣は、その集まった視線の鬱陶しさに、顔を上げ、そして千尋に気づいただけだった。
周囲との交流を遮断しているような、ほの暗い空気の青年に、千尋はやんわりと声をかける。
「こんにちは、御剣さん」
「……」
御剣は本を閉じてもう一度顔を上げた。
「綾里千尋といいます。よろしく」
「あやさと……さん」
わざわざ立ち上がって千尋が一礼したことに、少し驚いたのか……それとも「綾里」という名に聞き覚えがあったのか。戸惑うように青年は、本を机の上に置いた。
親の躾だろうか、狩魔検事の躾だろうか。青年もまた、ものしずかに立ち上がる。
「御剣怜侍です。……よろしく」
検事の出世頭と、弁護士の出世頭。そう、周囲に目されているふたりは、形式的な挨拶を交わすと、片方はひとり、片方は友人と連れ添って、それぞれの授業へと向かったのだった。


片手に、ブックバンドをかけた書籍を抱え、疲労と眠気を振り払う為に早足で歩きながら、御剣はぽつり、ぽつりと、先程聞いた名を口の中で繰り返す。
「あやさと……綾里、か……」
対人的に不器用すぎる上、二重にも三重にもやっかみを受けやすい環境にいる御剣に、同期生の噂を吹き込んでくれるような友人がいるはずもない。だが、彼は綾里の名を知っていた。二重の意味で、知っていた。
――あの霊媒師と、同じ姓か。
不意に耳の奥に、ガァン! と叩き込まれる音響を感じて、急激に歩みを止める。
つつ、と、背を冷汗が伝ったが、彼は異常を外に出さぬよう自制した。事件から9年。過去のフラッシュバックを、体の中にとどめておけるようになってから、まだ数年とたってはいない。
何かを突っ切って忘れようとするかのように、再び早足で歩き出す。
――綾里、千尋。……あの霊媒師の縁者だろうか。
そう考えてから、口元だけで小さく苦笑した。
「……まさかな」
聡明な彼をもってしても、霊媒師の一族が弁護士になるとは、とても思いつけなかったのだった。


研修を終え、20歳の検事が誕生したその一年後。
千尋は、あの事件にかけられた幾重の鎖を解くために不可欠な、最後の一刀と出会うことになる。


……その時はまだ、情けない風邪引きの坊やとしてしか、彼女の眼に映らなかったとしても。