仏に仕え、神の名を持つ、そんな彼につけられた名は、本当に彼にふさわしかった。
快音と同時に、ヘッドフォンをしたままの司馬が振り返った。
打球を眼で追いかけ、そして、すぐに打者に視線を戻す。
「音楽聞いててもわかるんだ? シバくん」
傍らをちょろちょろと走り回っていた兎丸に声をかけられて、司馬は顔を兎丸に向け、こくりとひとつ頷いてまた、打者を見た。
「そっか、すごいなぁシバくん……やっぱり蛇神センパイの音って全然違う?」
「牛尾! 呆けてないでさっさと投げるのだ」
鹿目の尖った声が、牛尾の耳を容赦なく叩く。
「あ、ご、ごめん鹿目くん」
ボールを投げようとした瞬間、
カァン!
「……あ、」
「何やってるのだ牛尾ーーー!」
「うわっ、ごめんごめん!」
あらぬ方に飛んでいったボールを、もはや追いかけもせず地団駄を踏む鹿目に、ひたすら謝り倒して牛尾は代わりにボールを追いかける。下っ端が拾うに任せれば良いのだ、と鹿目は主張するが、牛尾にとってボールはトモダチ……などという生易しいものではない。もういっそ恋女房だ。一球たりとて、自分がこぼしたものを他人任せにするわけにはいかなかった。
「三象! 肩ならしにつきあうのだ、腑抜けの牛尾は一宮とでもチンタラ球を投げ合っていれば良いのだ!」
容赦ないにもほどがある鹿目の、甲高い怒号は、だが不思議と牛尾には不快を感じさせない。たしかに、鹿目の言葉は身も蓋もなく真芯をえぐる。だが少なくとも、粘着質ではなかったし、何より、その率直さが何度も、チームメイトの間に風穴を開けてきたのだった。
一宮と三象を追い回す鹿目の姿を、ほのぼのと笑って眺めつつボールを探しているうちに、先程から、彼の思惑をかき乱している音がもう一度、響き渡る。
カァン!
――ああ、やっぱり、彼の音はすぐにわかる。
ボールを拾い上げながら、牛尾は顔を上げた。
数メートル先のバッターボックス、フリーバッティングに珍しく、蛇神が例のバットを使っている。
利き腕のはずの右手を、胸元へ拝む形に添えたまま、子津の投げる球を、ライトへ、レフトへと一球ずつ、片手打ちで打ち分けていく。ストレートを放られようが、カーブを放られようが、オーバースローだろうがサイドスローだろうが、まったく関係なく、偶数はライトへ、奇数はレフトへと打ち分けるものだから、子津の表情が落ち込んでいくのも無理はない。
当の蛇神は、一球打つごとに口元が動いているところを見ると、何やら題目でも唱えながらバットを振っているようである。その光景を見ていると、胸元にぴしりと構えられたままの右手もあいまって、フリーバッティングというよりは、仏道修行のように見えないこともない。
――やっぱり、一球打つたびに「南無阿弥陀仏」とか唱えてるのかな。
敬虔なキリスト教の信者である牛尾の、仏教知識などその程度のものだ。もっとも、いかに深甚な仏教知識を持っていたとしても、蛇神の奇矯な行動を読み解くことなどできるはずもないのだが。
何十球打ったことだろうか、片手にバットを提げ直し、蛇神は居住まいを正して子津に礼をする。
つられて子津がぺこぺことお辞儀すると、バッティング中の厳しさからは想像もつかぬ温顔で、にこりと笑い返して蛇神は子津に背を向けた。
歩み寄る蛇神に、「お疲れ」と牛尾は片手を挙げて笑いかける。
「手隙であるか、牛尾」
バットを丁寧に拭いながら、蛇神は牛尾をちらりと見た。……ような、気が牛尾にはした。何せ蛇神は眼が細すぎる。目線の先は、相手が推測するしかない。
「あぶれたんだ。これから素振りをしようかと思っていたところだよ」
「我もあぶれ者也。つきあわぬか?」
「はは、いいよ、あぶれ同士だね」
あぶれ者、という言い方がおかしくて牛尾は笑う。実際、後輩たちにとっては雲の上の人にも思えるらしい牛尾と蛇神、鹿目と三象は、自然、「あぶれ」の常連になるのだった。
蛇神がバットを仕舞い、その場にたてかける様を、牛尾は見守る。50人以上いる十二支野球部員の中でただひとり、木製バットを使う男。禍禍しい――と言えば彼は激怒するかもしれないが、とにかく、異様な空気を放つ梵字を無数に刻んだそのバットは、金属バットの快音の中で、ひとり、乾いた木の音という異彩を放っている。
十二支のクリーンナップの一角を担う、彼は牛尾の背後に泰然と構えた五番打者。バッターボックスに牛尾が立ち、構える一瞬前に視線を投げれば、ネキストバッターサークルには、あのおどろおどろしい空気を振り撒きながら、彼が眼を閉じて座禅を組んでいる。おおよそ、敵も味方も寒気を感じるはずの光景なのだが、四番打者の牛尾にとっては、そのふてぶてしい落ち着きがこの上なく頼もしい。彼が後ろに控えている。彼が僕の後に続いている。そう思えばこそ、牛尾は思う存分バットを振り回すことができたのだった。
それが、今は。
「待たせたな」
グローブを左手にはめ、蛇神が立ち上がる。
「あ、ううん」
「……牛尾、いかがした?」
4センチ上から降る、いぶかしげな視線。
あーなんでもないよ、と笑いかけて、牛尾は背後からかけられた声に凍りつく。
「蛇神、その腑抜けをなんとかしろなのだ。さっきからお前を見ては、悩ましくめめしい溜息をつきっぱなしなのだ!」
あたりをはばからぬ鹿目の声は、グラウンド中に響き渡った。
ひゅん、と小さなモーションで小気味良く鋭い球が迫る。
吸い込まれるように、グローブにおさまった球を、投げ返してから牛尾は苦笑した。
「さっきはごめん、びっくりさせたよね」
衝撃を綺麗に殺しながら球をキャッチし、蛇神はやや不思議そうに牛尾を見返す。
「お主が謝ることではない。我が驚いたゆえは猿野のアレ也」
「あー……まぁ、彼はお茶目さんだから」
お茶目さん、の一言ですむものでもないと思うのだが、基本的な一線が少しずれている牛尾はまじめくさってそう批評し、基本的な一線が大幅にずれている蛇神もまた、「そうであろうな」と頷く。
鹿目の声が響き渡った次の瞬間に、いつのまに変身したものやら、音速を超えて衝撃波を生むほどのスピードで突進してきた猿野――というか、明美が「ああーん蛇神サマったら主将の熱・視・線・独占しちゃってずるいッてか貴様らどっちもアタイのもんじゃーーー!」と、その手のギャグにいまだに慣れぬ蛇神に、ツッコミクロスチョップを食らわせようとしたのだ。
蛇のくせに蛇に睨まれた蛙の如く、すくみあがって動けない蛇神の代わりに、牛尾はにこやかにトンボの一振りで猿野をはたき落として事無きを得た。結果、痙攣を起こす猿野の屍を傍らに、彼らはのどやかにキャッチボールを開始したのだった。
「牛尾よ、何を悩む?」
「え、」と一瞬頭が空白になってもなお、入学以来、こうして嫌と言うほど向かい合ってきた仲は、綺麗に相手の球をグローブに納める。
「悩んでおろう?」
「うーん……」
話題を替えたくて、わざと蛇神の足下近くに悪送球をする。だが蛇神はいともたやすく、半ば背を向けるようにして屈むと同時にキャッチした。
そのまま、人を食ったことにグローブをはめたままの手で、ラクロスでもするかのように球を投げてくる蛇神に、キャッチしてから降参、と両手を挙げてみせ、
「新しい打順について、ちょっとね」
と、今度はしっかり、ボール1個分のずれもなく相手のグローブに球を叩き込む。
ぱしっ、ぱしっ、と互いのグローブが確かな感触を伝えながら、彼らは一球ごとに一言を投げ合った。二年と少しの間、そうしてきたように。
「打順? 何ぞ不満か?」
「不満はないよ」
「では不安が?」
「不安……? それに近いかなぁ」
「打撃力は倍増也。それに何の不安がある?」
「君はどう思う? 君だって変更になっただろう?」
そう、蛇神は5番から3番へとシフトしていたのだ。クリーンナップの一角を担うことには変わりがないのだから、彼にとってはそう問題もないのかもしれない――4番打者かベンチのどちらかしか経験していない牛尾には、そのあたりの機微は理解できない。だが、何かしら、心境の変化はあるのではないか。むしろ、あってほしかった。
そんな牛尾の心情を読んだかのように、
「心境の変化が、ないわけではない」
物静かにそう言って、蛇神はサイドスローに近い投げ方で、牛尾の右腕の先を狙った。
それをたやすく受け止めて、わずかに崩した体勢を直す反動で、牛尾は球を投げ返す。
と、ジャストミートの球を受け取った蛇神は即座に今度は、牛尾の左腕の先を狙った。
右、左、高め、低め、と蛇神は、キャッチボールとは思えぬ意地の悪さで、牛尾の身体を振る。だがこれも、彼らの間では多少荒っぽい遊びでしかない。
一言ごとに一球が飛び交い、一球ごとに一言を伝え。
「お主は、」
「なに?」
「我のことを、」
「君の、何?」
「我の構えを、毘沙門天に喩えたな」
「ああ……教科書で見た仏像にね、」
似てたから。そう言いかけて、大きく右にぶれた球を、頭から飛び込みざまにキャッチする。グラウンド上で一転し、投げ返した。
右手を高々と上げたさまが、似ていたのだろうか。彼の言動とその容姿からの想像だろうか。いささかできすぎのその名を、蛇神のフォームに与えたのは、牛尾だった。
「毘沙門天とは、」
蛇神は高らかに跳躍して、空中に在る間に球を投げ返す。
「……あれは仏敵を討ち祓う守護者也。右手に鉾、左手に宝塔、魔を踏みつける戦勝の仏である」
「君にはぴったりだ」
「光栄也」
「それに縁起が良いよ」
「我もそう思う」
グローブに球をしっかりと納めたまま、不意に、蛇神は小さく笑った。
「蛇神くん?」
「牛尾よ、我は思うのだ」
牛尾のグローブの真芯に飛び込む硬球。
何千球と受け慣れた、ショートからサードへの送球。
「今までの我は、毘沙門天などと呼ばれながらも、お主の後ろに漫然と控えておるだけであった。
されどこれより、我はお主の前に立つ露払い。
これぞ真、毘沙門天の名を戴くにふさわしき打順也」
「ツユハライ」
まっすぐ飛び込んできた硬球を、投げ返すことも忘れて牛尾は立ち尽くす。
「露払い」
飄然と蛇神は繰り返し、グローブの左手を軽く挙げてみせた。
投げ返せ、というその意図も汲み取れず、その姿を呆然と見たまま牛尾は動かない。
牛尾の前に、蛇神がその背を見せて敢然と立ち。
彼らの敵を、真打である牛尾の現れる先払いにと、蛇神がその鉾で薙ぎ払う。
「……それじゃあ、まるで、」
「牛尾」
「え、な、なに」
「お主の敵は我の敵也」
当然のようにそう言って、蛇神は辛抱強く、投げろ、とグローブを振ってみせた。
一塁ベースを踏んだ時点で、わざわざ立ち止まった蛇神の姿を、牛尾はネキストバッターサークルで見つめていた。
「露払い、か」
ぽつり、つぶやいて立ち上がる。
彼の毘沙門天が、塁を進む。彼の敵を、斬り払い薙ぎ払い、傷を受けても敢然と、塁を進んで彼を振り返る。
――その言い方だと、蛇神くん、僕は君のブッダになってしまうんだよ。
あの時、牛尾が敬虔なキリスト教徒であるように、あるいはそれ以上に、仏を敬うこと篤い蛇神には、とても言い出せなかった言葉を、胸につぶやく。
涜神の言と、わかっている。
異教の戯言と、思うべきだ。
だが、
「……いいね、それって」
普段の貴公子然としたその姿をかなぐり捨て、牛尾は獲物に躍り掛かる猛禽の笑いをふと浮かべると、彼の毘沙門天を、彼の敵の直中より帰還させるべく、堂々と――彼の如来にふさわしく堂々と、バッターボックスで胸を張った。