『そうか、病気の子供はいないのか。』






「まったくお猿の兄ちゃんったら、人騒がせにも程があるよ!」
腹が立ってしょうがない、といった様子で叫びながら、音を立ててロッカーを閉めた兎丸を、おろおろと司馬が追いかける。
個性的かつ無茶苦茶な仲間たちに囲まれて、部活の時間の三分の一は確実に、おろおろして過ごしている……そんな生真面目な下級生を、先輩たちはほほえましく見送った。
「シバくんだってそう思うよねぇっ!? いきなり辞めたかと思ったら、またいきなり戻ってくるんだから」
一瞬たりとてじっとしていない、元気いっぱいの素振りでくるん、と急に立ち止まって振り返れば、司馬はそんな兎丸に激突しかけてたたらを踏んだ。
軽く両手でバランスをとって――小回りの効く兎丸よりずっと大柄なのに、少し体を振るだけで、兎丸の変幻自在なその動きについていってしまう彼は、やはりバランス感覚に秀でているのだ。大好きな友達の長所を、改めて誇りたい気分でニッコリと笑えば、兎丸の機嫌が直ったことが嬉しかったのか、司馬も遠慮がちに笑い返した。
その笑顔が、本当に嬉しそうで、「まったくもうシバくんは、」と兎丸のいつもの愚痴が漏れる。
そんな兎丸に、猿野のことをとりなそうとしているのか、懸命に両手を振ってみせたり、猿野の所に喋りに行こうよ、と手を引いて誘ってみたりしている司馬が、今更ながら、あまりに人が良すぎるように思えて、兎丸のせっかくの機嫌はまた、少し損ねられてしまった。
「あのねぇシバくん!」
ぴしっ、と鼻先に指を突きつける。驚いたように少しのけぞって、司馬はきょとんと兎丸を見返した。
「シバくんだって、お猿の兄ちゃんに怒る資格があるんだよ! ううん、シバくんがいっちばーん怒る資格があるんだからねっ!」
司馬の、信じられないほどの人畜無害さを知る兎丸は、どうしても司馬に対して点が甘くなる。この見事なえこひいきっぷりを、だが、部員たちは咎めない。たしかに、常に誰かを気遣っている司馬に対しては、このぐらい点の甘い人間がいないと、バランスが取れないような気もするのだ。
兎丸の義憤の原因が、本気で思い当たらないらしい司馬は、困ったように兎丸を眺め、そして、助けを求めるように周囲を見渡す。だが、ある者は肩をすくめ、ある者は視線をそらし、ある者は困ったように苦笑を返し、ある者は我関せずの態度を崩さない――といった様子で、誰も司馬に救いの手を差し伸べようとはしなかった。
この部には、『駄々をこねる兎丸の担当は、司馬』『駄々をこねる犬飼の担当は、辰羅川』『駄々をこねる猿野の担当は、子津』『駄々をこねる虎鉄の担当は、猪里』『駄々をこねる鹿目の担当は、三象』……という、暗黙ながらにして鉄の掟が敷かれている。その掟に従って、司馬は何とかして、自力で兎丸のご不興を解かなければならない。
意味がわからないから教えてほしいよ、と自分もロッカーを閉めておろおろ兎丸を追いかけると、部室を出たところで兎丸は振り返り、ぐい、と腰に手を当てて司馬を見上げた。
「ぼくは知ってるんだよ。シバくん、お猿の兄ちゃんいなくなるって聞いてほんとにがっかりしてたでしょ。それに、あのMD! 退部届の話聞いてから、あれも頑張って作ったのに、あっというまに兄ちゃんが取りやめにしちゃったって聞いてどう思ったの?
 ぼくはちょっと腹が立ったよ、シバくんが兄ちゃんのために、野球のこと思い出してくれそうな曲とか一生懸命選んで、それでプレゼントしたってのに、兄ちゃんにとっちゃただの気まぐれだったんだもん!」
兎丸の剣幕に驚いて、司馬は口を開けたまま固まっている。サングラスの下で、その眼はきっと見開かれていることだろう。
「ねぇ、どうなのさシバくん!」
せいいっぱい背伸びして兎丸が詰め寄れば、両手を「降参」の形に挙げてたじたじと後ずさりながら、司馬は困ったように首をかしげた。
兎丸の言ったことを、彼なりに反芻して、そして考え込んでいるのだろう。だが、考えたのはほんの一瞬のようだ。すぐに、司馬の表情は変わる。
照れたような、困ったような、だが、嫌味のないやさしい苦笑。
「シバくん?」
兎丸だけにわかる、司馬の声なき言葉は確かに兎丸に届いた。
今度は、兎丸がぽかんと口を開ける番だった。
「……本気で言ってるの?」
うん、と司馬は素直に頷く。
「……も〜〜〜……シバくんってほんとに……」
脱力して、兎丸はその場にしゃがみこんだ。司馬がやっぱりおろおろと、一緒にしゃがみこんでみれば、急にばねじかけのように立ち上がる。そしてやっぱりおろおろと、司馬もそれを追いかけて立ち上がった。
「もういい! わかってるんだよ、ぼくだって」
行こう! と司馬の手を掴んで、校門に向けて彼を誘えば、困ったように首をかしげたまま、それでも、素直に司馬もついていく。
小柄な身体でせいいっぱい大股に、飛ぶように、司馬を引きずって歩きながら、兎丸はつんと口を尖らせたまま言った。
「……それが、シバくんのいいところなんだってことぐらいね」


真っ赤になりながらも、嬉しそうに照れ笑いをする司馬と、あっという間に機嫌を直して、彼に笑いかけて一緒に去っていく兎丸の、仲の良い後姿を眺めて蛇神が物堅く数珠を鳴らす。
「仲良きことは美しきかな……とは、言うが」
「どうしたの、蛇神君」
部室の扉を開けて、牛尾が顔を出す。「終わったか牛尾」と振り返り、蛇神は片手で拝むように彼に挨拶をした。
「司馬君と兎丸君は、仲直りをしたみたいだね」
ショルダーバッグを肩にかけながら、牛尾は部室の外に出て、しっかりと扉に施錠した。
「牛尾、司馬殿は兎丸殿に何と答えたと思う?」
部室の外の騒ぎは、最後まで残っていた二人の耳にも聞こえていた。蛇神の問いの意味を汲み取った牛尾は、「ああ」と口元に手を当てて、しばらく考え込んでいた。
「蛇神君、きみ、テレビとか……見ないよね」
「見ぬな」
あっさりとした答えが返ってきて、「そうだろうね」と苦笑する。牛尾も決して、庶民的な娯楽に縁のある性質ではない。それでも、蛇神の、現代文明に対する乖離っぷりからすればまだ、常識的な方に入る。
「あのね、昔、お酒のコマーシャルがあってね……外国の酒場のワンシーンだったかな。二人の男性が話しているんだ。どうも、貧しい女性について話しているらしいんだけど」
「ふむ?」
蛇神は、話の回り道を苛立つような人間ではない。これが鹿目だったら、容赦なく「それがどうしたのだ、まわりくどいのだ」とツッコミを入れたことだろう。
「ひとりが言うんだよ、『あの女性には、病気の子供なんていなかったんだよ』と」
「……病気の子供?」
牛尾を促して歩き出しながらも、夕闇の中で、蛇神は精悍な眉を寄せる。
「病気の子供」
繰り返してから、牛尾は小さく笑った。自分もなかなかのものだが、蛇神は自分に輪をかけた朴念仁だ。説明しないと、多分わからないだろう。
「つまりさ、片方の男の人は、その女性に騙されたんじゃないかな。自分には病気の子供がいるとか……それで、男の人はお金をあげてしまったんだね」
「ああ……娼婦であるか」
「……」
理解するとなれば非常にストレートな一面も、奥が深くて好きだけどね……と、牛尾は胸中につぶやいて苦笑した。
「まぁ、娼婦とは限らないけど、とにかく、貧しい女性だったのかもしれないね。その人は調査して、友達に教えてあげたのかな」
「親切心から出たものか、微妙なところではあるが」
「うん」
きっと、親切心ではなかったのだろう。牛尾は苦笑を少し深くした。基本的に、光の中にいる彼にとっては、他人の不幸を喜ぶといった、野次馬的な感情は理解しがたいものだった。だが、逆に、そういう種類の人間も世の中にいるということは、思い知らされてきた環境の人間でもあるのだった。
「それでね、教えてくれた人に対して、もう片方の人はこう答えたんだよ――」


『そうか、病気の子供はいないのか。』


「――やさしい、ほっとしたような口調でね」
蛇神の返答は、少し遅れた。牛尾が覗き込めば、沈黙する彼の口元が、ふと、やんわりとした笑みを口元にたたえた。
「司馬殿も、そう答えたと言いたいか、牛尾」
ちらりと、その優しい笑みのまま視線を向けられて、牛尾もまた、無言で小さく笑い返した。彼らは――いや、部の仲間たちはほぼ一様に、司馬のそんな一面を愛していた。貴重なものに、思っていたのだった。
「病気の子供は、おらなんだのだな」
「うん、いなかったんだよ」
きっと司馬は、兎丸にこう笑ったのだろう。MDが無駄になって、良かったなぁ、と。……本当に嬉しそうに。照れながらも、ほっとしたように。
「司馬殿は、」
蛇神はその名を呼びながら、謹厳にまた合掌した。
「我が修行の果てにやっと辿り着くであろう境地に……最初から、当たり前のように立っている、真、稀有な童子也」
童子、というその言葉に、蛇神は宗教的な意味を持たせたのだろう。その深さは牛尾にはわからなかったが、それでも、蛇神の抱いたやさしい小さな笑いは、蛇神自身の根本のやさしさを、きちんと語っていると、彼は知っていた。
野球に夢中で、野球の虜で、それだけに命を賭けていた自分の周囲に、今、こんなにやさしい人たちがいる。それは、牛尾には、どこか罰当たりなほどに信じがたい、奇跡的なことであるように思えるのだった。
「野球やってて、良かったよ」
その笑みが見えなくなりつつある、夕闇濃くなりゆく空を見上げて、牛尾はそう囁いた。
「真、……」
じゃっ、と数珠の鳴る音がして、空を見上げたままの牛尾に、蛇神の静かな声は滑り込んだ。
「そう思える主を将と仰げて、我も良かったと思うておる」


空を見上げたまま、へへ、と牛尾は照れて笑い。
謹厳に地を見つめたまま、蛇神の唇に、ふ、とやわらかな笑顔がかすめて、消えた。