炎のような赤を誇る毛皮、自在に地を蹴る強靭な脚、一噛みで命を奪う鋼鉄の牙。
……幾多の優れたものを持ちながら、その獣はいつになっても、水鏡の前で悲しげに溜息をつくのだった。
「おめでとう」
前にもこんな感じで声をかけた――そんな既視感を味わいながら弓親は、振り返るその長身を眺めやった。
いやがおうにも眼を引く赤毛、副官章はつけぬ略装、帯刀、長い手足をのっそりと動かす獣のような立ち居振る舞い。
「――えっと」
「なに、僕のこの美しい顔を見忘れたっていうの」
「ンなわけねぇでしょ、弓親サン……その、」
「何を祝われたのかがわからない?」
「そりゃァ、この事態スから。めでてぇことが、ねぇわけじゃねぇけど」
「念のために言っておくと、『朽木兄妹が生き残った』――なんてことは、君自身のめでたさじゃないね」
「違うンスか」
きっと、この男が「めでたい」とまでは思わずとも「よかった」と安堵したのは、弓親が挙げた二人の無事ぐらいだったのだろう。届かぬ月星のように愛しつづけた少女は自由の身となり、畏れつつ敬愛し抜いた上官もようやく意識を取り戻したという。
だが、他人の無事はその本人に祝辞を述べれば良い。ましてや弓親は、あんな鼻持ちならない気高さと美貌の持ち主たちの為になど、一言たりとて祝ってやるつもりはなかった。
「卍解に、到ったんだろ?」
物静かに鞘に納まったままの蛇尾丸を、視線で指す。
「あぁ……」
言われて初めて、恋次はそれが「祝われるべきこと」なのだと思い至ったらしかった。
「副隊長で卍解に到ったのなんて、君ぐらいじゃないか。祝辞を述べてもおかしくないと思うけど?」
「別に……一角サンなんて、三席じゃないスか」
その名を出す時だけ、恋次は律儀に声を低めた。彼が卍解に到っているという事実は、弓親と恋次と当人だけの秘密なのだ。
「それに俺はもともと、斬に偏ってる身です」
斬拳走鬼。恋次はそのバランスが、副隊長としては桁外れにいびつだった。もちろん、すべて一定のレベルに達してはいる。だが三席以下の身で、恋次より鬼道に長けた者など掃いて捨てるほど存在した。
「偏ってれば、卍解ぐらいできて当たり前って?」
「そういうわけじゃねぇけどよ」
底意地の悪い弓親の言葉に、恋次は奇天烈な眉間を寄せる。
「なんにしても、まだまだスから」
その「まだまだ」の直前には「朽木隊長には」、直後には「遠い」という言葉が入るのだろう。そんな弓親の思惑を、破ったのは他ならぬ恋次の言葉だった。
「何せあの黒崎一護ときたら、始解して十日もたたずに卍解ときやがった。……かなわねぇなァ」
そう言って「フン」と笑った恋次の、その表情に弓親はかすか、目を見開いた。それは、共に生死を越えた戦友を、誇るような笑顔にも見え――……だが同時に、遠く軽やかに駆け去ってしまう者に対しての、諦観めいた淋しさの表われのようにも見えた。
「君は、」
言いかけた言葉がなんだったのか、自分でも見つけることができずに弓親は沈黙した。やがて彼は溜息をひとつつき、
「君は馬鹿だね、恋次」
と言葉を継いだ。
それは一欠けらの嘘もなく弓親の心情そのものだったが、言葉にすると少し違っているような気もした。そんな弓親の複雑な心情など理解はせずとも、反論する気にはなれなかったのか、「そうスかね」と恋次は無骨な笑顔を返してきた。
「馬鹿さ。僕の教えを、何一つ覚えちゃいない」
「え、」
基本的に先輩に対する敬意を欠かさない恋次は、幅広の鉢巻の下で焦ったように眼をまたたかせた。弓親は恋次の造作を整っているとは認識していなかったが、常に隠しがちなその両眼の、熾火のような赤は気に入っていた。
「冗談だよ。……行くんだろ」
救護詰所の方角を、弓親は顎で指してみせた。あぁ、はい、とぼんやりとした返事をしてから、恋次はその眼で弓親を見下ろした。
一瞬でも――と弓親は思う。
この子供を初めて見かけたその頃に、一瞬でも、一角に似ていると思うなんて自分は何て迂闊なのだろう、と。
「んじゃ……失礼します」
一方的に話題を切り上げた時の弓親の、とりつく島のなさは恋次もよくわかっている。堅実に頭を下げてから、恋次は弓親に背を向けて、もともとの行き先に向けて歩き出した。
やや猫背がちのその後姿を、弓親は見守る。
――そうだ、あの時も『おめでとう』だった。
六番隊から副隊長へと打診を受け、それを恋次が一角に、続いて弓親に打ち明けた時のことだ。
「おめでとう」と祝してから弓親は、「どうせ受ける気なんだろ」と、恋次をよく知る者なら誰もが言ったであろうことを言ってやったものだ。
すると恋次はかぶいた眉を朴訥に寄せて、心底困惑したように言い返してきた。
『なんで俺なんスかね、弓親サン』
十一番隊には一角もいるし、弓親もいる。それに自分は斬に偏り鬼は拙く、副隊長に向いた人材とも思えない。ましてやあの朽木白哉に、無力な若輩が何の助力もできるはずない、ほかにもっと向いた人間がいるような気がする――
『これって何かの陰謀スか』
大真面目にそう言う恋次を見て、弓親は「ああこいつは馬鹿なんだ」と心の底からしみじみ思った。
一角が恋次に対し、卍解に到る際の心構えを懇々と、彼なりに丁寧に教えたことを弓親は知っている。卍解の見込みのない者相手に、そんな手間を踏んでやる一角ではない。確かに斬に偏ってはいるが、それはすなわち、斬に突出して秀でていることの裏返しでもある。
ばさらな見かけとは裏腹に、恋次は仕事を真面目にこなす。苦労してきた身の上だからか、出自で人を差別することがない。後輩の面倒見も悪くないし、先輩には素直に頭を下げる。
そして恵まれた体格と体力、回復力のずば抜けた斬魄刀。
これだけのものを持ち合わせていながら。
この愚直なばかりの男は、それを羨む人間の存在には気づきもしないのだ……
『恋次、いいことを教えてあげよう。一度しか言わないから、謹聴したまえ』
『は、』
『君はおチビちゃんと一緒に育ったせいか猫背ぎみだし、髪は赤すぎて品に欠けるし、刺青はもう悪趣味の極みとしか表現できないし、顎は尖りすぎだし眼は細すぎだし、斬魄刀はグロテスクだし、刃が伸びるせいで構えは這うみたいに不恰好だし、戦い方は泥臭いし鬼道と来たら赤子並みだし、上位席官のくせに貧乏性でいまだに野良犬そのまんまだ』
『……』
『それが君だ』
『……そうスね』
『でもそれは醜いということじゃない』
『弓親サン……?』
『きらきら光るものだけが美しいってわけじゃない。君はそれを知るべきだ』
その時の恋次の、虚をつかれたような――子供のように素直な空白の表情を、弓親は終生忘れないだろうと思った。
「……何、ホけてんだ」
「んー」
声をかけられても、別段、弓親は驚きはしなかった。一角は、弓親に近づく時に気配を殺すような真似など、決してしなかった。たとえどんなに気配をひそめたとて、弓親が、一角の気配に気づかぬはずもなかったのだが。
「恋次って、馬鹿だよね」
「何だァ急に。いつも俺が言ってンじゃねえか」
「改めて痛感したのさ」
振り返って弓親は、片眉を上げて自分を見返す一角の顔を、じっと見た。相変わらず行儀が悪い立ち姿だ。鬼灯丸を、天秤棒のように肩に乗せて腕を引っかけている。
十一番隊は獣の群れだ。剣八という不世出の魔物の体躯の傍ら、牙を剥く獣たちが、噛みつく相手を探して身を丸めている。
喧嘩に興ずる時の一角のさまは、見ていて楽しくなるほどだ。自分もうっかりここで死んでいいかなぁ、という気になれるそのはなやかな狂気を、弓親は心の底から気に入っていた。
「似てないね、やっぱり」
一角の顔をしげしげと見て、弓親はそうひとりごちる。
恋次のような能力と体格があれば、と思わずにいられないのは、この男のせいだろう。今の自分が気に入っていないわけでは決してない。だが、それでも、弓親はいまだに斬魄刀の能力をひた隠しにしている。
直接攻撃に長けたあのような身体を、このかぶき者の隣に立たせ、思う存分、巨大な刀を全力で振るうことができたなら――そう夢想する弓親の気持ちなど、恋次は理解することができまい。
炎のような赤を誇る毛皮も、
自在に地を蹴る強靭な脚も、
一噛みで命奪う鋼鉄の牙さえも、
恋次にとっては、自らが持っていて当たり前の付属物に過ぎないのだから。
――なんて傲慢な馬鹿だろう。
不審がる一角の肩を押し、「何でもないよ」と笑いながらも弓親は思う。
一護や白哉まで桁外れではなくとも、恋次は、大抵の死神が羨むであろう才の持ち主だ。
なのにあの男は今でもまだ、空を見上げ、届かぬ月星に溜息をついている。
きらきら光るものだけにしか、価値はないのだとでも言いたげに――
「何か、ムカついてきたよ僕は」
口を尖らせてみせれば、一角は「おっかねェこった」と欠伸をした。
「まァそういう時にゃァ木刀でも振るのが一番だろ……来いよ、相手してやるから」
「そういう汗くさい方法は好きじゃないね」
「へェへェ」
「聞いてるのかい、一角!」
「置いてくぜ」
ごく自然に、ばしり、と背中をはたかれて弓親は咳き込んだ。既に歩き出している一角に、「この、馬鹿弟子の馬鹿師匠!」と罵声をあげてみせれば、詰まった胸はようやくスッと通ったような気がした。