「本当に、あの小娘を魔戦将軍にお迎えになるのですか?」
天幕の入り口にかけたシェラの手が、ぴたりと止まった。
とっさに、入り口脇に立ったまま気配を殺す。天幕の中から、かすかな衣擦れの音を風の精霊が運んできた。精霊は次に、ものやわらかな、どこか少年の甘さを残すテノールを彼女の耳に滑り込ませた。
「小娘? 誰のことだ?」
「おとぼけになっても無駄ですぞ。あのシェラという女吟遊詩人です」
シェラの名を呼んだのは、D・S亡き後は大陸最大の魔術師と名高い「氷の貴公子」カル=スが、己が配下に集めた文官のうちのひとりだった。カル=スの配下には、アビゲイルと同じ程に文官の率が高かった。彼の蒼氷色の瞳には、征服よりも、征服した後の統治こそが重きものとして映っていたのであろう。
かといって、一般の魔術師のように、武官を軽視するわけでもない。彼の虎の子とも言える側近衆「魔戦将軍」は、全員が何らかの武術の会得者である。吟遊詩人たるシェラでさえ、己が身を護る手段には不自由しなかった。
側近を武官12人で固め、多くの優秀な文官を厚遇する。それ以外の兵力は、集団の長のひとりだというのに、ほとんど持たぬ。
シェラが、アビゲイルでもなく、ガラでもなく、同性であるアーシェス=ネイでさえなく、女嫌いを公言するカル=スをこそ、己が頭上に戴く存在として選んだのは、別に被虐趣味があったからではない。このような、柔軟なバランス感覚に、彼女が敬服の念を抱いたためであった。
だが、
――あの頭でっかちめ。
彼女は細い眉をいからせ、ふたたび天幕の入り口に手をかけた。手をかけたところで、今飛び出してもどうしようもないのだということに思い至る。
それどころか、「男であると証明したいなら脱いでみせろ」などと言われれば万事休す――自然の驚異を司る彼女にも、性別を転換する術はない。あったらとっくの昔に使っていただろう。
天幕に手を添えたまま、その場でぎりぎりと歯を軋らせた時、
「シェラが、女?」
ひんやりとおだやかな声が、彼女の名を呼んだ。
名を呼ばれただけで、不思議な安堵感が彼女を包んだ。やわらかなテノールの主は、こゆるぎもせず文官の言葉を受け止め、そして、端然としてその場にあった。
「そうですとも! 少し見る眼のある者が見ればすぐにわかります。音に聞こえた凍土の支配者カル=スが、女を男装させ側近として侍らせているなどと、近隣諸国の物笑いとなるは必須!」
シェラはその声に眉を寄せ、だが、その場でそっと瞳を伏せた。激昂しかけた己を恥じる表情だった。
たとえ、シェラ自身に、そしてカル=ス自身に、なんの恥じることがなくとも、政治の世界では、わずかな傷さえ無理矢理広げて攻撃を仕掛けてくる輩は後を絶たない。文官は純粋に、それを心配しているのだ。
――……それでも、私はカル様のおそばに在りたいのだ。
それは男と女の問題ではなく。伝説を作り上げる「王」の傍らにこそ在って、歌を紡ごうと望む……そんな、吟遊詩人の本能であると言えた。
「なるほど、そなたの言いたいことはよくわかった」
片手を挙げて言葉を止めさせたのだろう。今は軍装せぬ軽装の、衣擦れの音はさらさらと揺れる。
そのまま、天幕の主は涼やかな声で文官に問い返した。
「それで? シェラ自身はなんと言っている?」
「は、」
「男だと言っているのか、女だと言っているのか?」
――男です! 私は女であることを捨てても、あなたに――!
その言葉を喉に飲み込み、唇を引き結ぶ。
文官の返答はない。だが表情が雄弁に語ったのだろう、涼やかな声の主は涼やかな声で少しだけ、笑った。
「そう、もっともシェラの身体をよく知っているであろう、シェラ自身が男と言っているのだ。シェラは男なのだろう。私も、シェラは男だと思う」
それきり、この上なくおだやかにシェラの名を発音するその声は止み。文官が書類の束を抱え、小さな吐息と共に一礼したその音を聞いた彼女は、とっさに後ずさり、そばの木立の後ろに身を隠した。
木々の間に隠れた彼女を、見つけることのできる者は皆無に近い。文官が天幕の入り口を捲り上げ、姿を見せる。
「言い忘れていた。シェラについて」
天幕の中から声がかかった。
文官が振り返り、木立の中で彼女は息を飲む。
それに頓着する様子もなく、どこか子供のあどけなささえ残す声は、文官に言葉を向けた。
「吟遊詩人というものは、静寂を好むそうだ。だが、魔戦将軍といえども他の兵士と天幕はそう変わらぬし、皆、温厚にして寡黙――とはとても言えまい。 自然、シェラの周囲は騒がしいものとなるだろう」
何を言い出すのかと、天幕の外でじっと次の言葉を文官は待つ。
「だから、」
わずかに笑みを含んだ声は言葉を継いだ。
「吟遊詩人殿が、良き詩句を思いつくことができるよう、彼にはできるだけ、ひとりでゆっくりできる環境を割り振るといい。
私の知る吟遊詩人は、入浴中などのくつろいだ時間に、歌を考えると言っていたしな」
文官はしばらく沈黙し、ややあって苦笑と共に深く一礼した。
「仰せの通りに。我らが王よ」
「そこの者。カル様の天幕近くに潜んで、何をしている?」
かけられた声は、質問ではなく詰問だった。いつのまにか、気配を露わにしてしまっていたらしい。シェラは反論も弁解もせず、ゆっくりと木立から出て己の姿を見せた。
「……シェラ?」
堅苦しく武装を崩さぬ白鎧の騎士――イングヴェイが、驚いたように眼をまたたいた。
「どうした、こんなところで。カル様ならもう、お休みに――」
「イングヴェイ」
ぽつりと名を呼ぶ。
「何だ?」
天幕からは少し距離があるのに。万が一にも主の眠りをかき乱すまいと、イングヴェイは敬虔に声を潜め、そして、シェラを手招いて天幕との距離を取った。
――ああこの男は。
騎士の実直な仕草に、なぜか泣いてしまいそうになってうつむく。
「シェラ?」
「イングヴェイ、私は……カル様のために命を捨てよう」
「……」
「あの方に、生涯を賭けてお仕えしたいと、思う……」
「シェラ、……皆同じ気持ちだ」
傍らに立ったイングヴェイが、遠慮がちに肩に手を置く。
性別を知られぬためには避けた方が良いのだろう。だが、シェラはそのまま黙ってその場に佇んだ。
「能力も個性もばらばらだが、魔戦将軍の誰一人として――カル様のために、命を投げ出さぬ者はない。
君もまた、魔戦将軍の一人だ」
「……ああ」
うながされて、うつむいたまま歩き出す。イングヴェイの顔を見れば、胸にこみあげるものをすべて吐き出して泣いてしまうと、知るがゆえに。
戦乱に喘ぐこの時代。
シェラははじめて――己がこの時代に生まれたことを、天に感謝した。