陰鬱な石造りの廊下に反射するのは、二組の足音だけではなかった。延々と続く師父の繰言を、明らかに適当な相槌をもって受け流しながらも、カルは廊下にがんがんと響き渡るその内容のくだらなさに溜息をついた。
「てめーはいいよなーカル! 署名する時だって簡単だしよ。犬っころみてぇに気軽に呼べる名前だもんな。おいカル! ってよ。カル、カル、カルカルカル=ス!」
「……そこまで連呼しなくていい……」
何に対しどのあたりから腹を立てて良いのやらわからず、カル=スは力なく、声高に己を誹謗する男を制した。カル=スがカル=スという名前であることは、別にカル=スの責任ではない。彼を生み育んだ辺境の一族――あの呪われし氷の揺籃の、閉鎖性がそうさせたのだ。
本来なら、名の後には集落のしきたり通りに、父親の名と姓、そして「その息子」という意味を持つ古語が続くはずだった。だがカル=スに、名乗るべき父親の血脈は存在しない。だからカル=スがカル=スであることは、ネイが「ネイ」としか名づけられなかったのと同じように、忌むべき過去のためであって、別に羨ましがられる筋合いはない。
それがこうも延々「あーあーいいよなーてめーはよー」と愚痴られると、うっかり「すまないな」ぐらいは言ってしまいそうになる。確かに署名は楽に違いない。署名などする機会そのものが滅多にないが。
とにかく先刻から阿呆のように、カルカルカルカル繰り返しているこの男を何とか黙らせなくてはならない。占領したばかりの敵の根城で、こんなくだらない話題で名前を連呼されるのは、いくら忠実な弟子とはいえ、少しばかり不愉快なのである。
「いいかダーク=シュナイダー、私の名はそもそも……」
「それだ」
バサッ! とマントを翻して振り返り、ダーク=シュナイダーは愛弟子の胸元に人差し指を突きつけた。カル=スもつられて急停止する。
「……どれだ?」
「俺様のこの格別に高貴な名『ダーク・シュナイダー』だ」
「…………良かったな、高貴な名で」
古代の言葉で「暗黒の貴公子」という意味なのだ、などと、この男が大真面目に吹いてみせた与太を素直に信じていたのも、出会ったばかりの子供の頃のことだけである。褒め言葉にも疲労をにじませてカル=スが呟けば、「よくねぇ」とダーク・シュナイダーは、高貴さの欠片もなく吠えた。
「いいかカル。よく考えてみろ。オレはお前をカルと呼ぶ」
「そうだな」
「で、お前がオレを呼ぶ時はダーク・シュナイダーだ」
「その通りだ」
早くこいつ歩き出さないかな、と廊下の向こうを透かし見るカル=スの両肩を、「聞け!」とダーク・シュナイダーは実に真剣にがしりと掴んだ。
「いいか、アーシェスとオレは『アーシェ(はぁと)』『ダーシュ(はぁと)』とバランスもとれて実にイイ感じだ。だがお前の『ダーク・シュナイダー』は『カル』に比べて明らかにアンバランスだ」
「バランスの問題じゃないだろう」
「いーや問題だ。確かに、お前はカル! と気軽に呼ばれりゃすむことだろう。だがな、お前はオレに、お前が『ダ・ア・ク・シュ・ナ・イ・ダ・ア』と呼び終わるまでずっと待ってろと言ってるわけだ。不公平じゃねえか! お前が一回呼ぶ間に、オレはカルカルカル! って三回はお前を呼ぶはめになるぜ!」
「……つまり、」
肩をガクガク揺さぶられながら、にじむどころか、疲労にどっぷり浸かった声でカル=スは問い返す。視線は現実からの逃避を求めて、右斜め上60度ほどに泳いでいた。
「お前は、私に仇名で呼んで欲しいんだな?」
「いいや」
雰囲気たっぷりに一拍置いて、世界一傲慢な男は高らかに宣言した。
「むしろ、呼べ!」
カル=スは四天王にストライキの権限がないことを心から憎みつつ、その場にがっくりとうなだれた。


「カル」
「……」
「なぁ、カァール。まぁーだ決まんねえの?」
「……ダーク・シュナイダー」
その名で呼んでも頑なに返事をせず、ひたすら自分の要求だけを突きつけ続ける彼の暴君に、カル=スは深々と嘆息した。その息の重さは精神的疲労から来るものだけではなかった。
あてがわれた豪奢な寝台の上、読もうとした魔導書も取り上げられ、カル=スの身体の上にはずっしりとした筋肉の塊が乗り上げている。勿論、カル=スがこんな暴挙を許す相手など、ダーク・シュナイダー以外にそうそう存在するものではない。
征服したての女たちを抱いていれば良いものを、夕刻の会話を引きずって、この男はカル=スの寝所まで押しかけてきたのだ。眠りが浅い上に、ちょっとしたことでなかなか寝つけないカル=スの気質を、この師父と呼ぶべき男は知り抜いていて、こうして身体の上に居座っている。もっとも、たとえカル=スが熟睡していたとて、容赦なく叩き起こしたのだろうが。
「とりあえず、身体の上から退いてくれないか。暑苦しいんだ」
皺の深く刻まれたシーツを、肩の上まで引き上げようと引っ張り上げてみる。ダーク・シュナイダーは嫌がらせのように、カル=スの枕の両脇に両手をつくと、そのやわらかな銀髪をぐしゃぐしゃとかき回した。髪と一緒に、二人の身体の間のシーツもますますよれる。
「カル、なぁ、カル」
呼ばれ続ける名。不意に息苦しさが増して、カル=スは緩慢に身じろいだ。髪の下の地肌、そこを荒々しく指先がすべっていく。
ダーク・シュナイダーの気まぐれな愛情表現に対して、ネイのように力いっぱい甘えられたら、それはそれできっと楽になれるのだろう。だが、
「私には……無理だ」
力の抜ける身体、頬を枕にうずめてカル=スは小さくつぶやく。いつものように、胸を氷塊がふさいでカル=スは冷たく、硬く表情を閉じこもらせた。
「お前なぁ」
まただ。カル=スは頬だけでなく、顔全体を枕に埋めた。気まぐれのように優しい声。父親ぶったその態度……
「もういい、お前には期待しねえよ」
ズキリ、と氷塊が胸を刺した。のしかかる期待にあえぐよりは、放置されたほうがずっと楽であるはずなのに、カル=スは己の身勝手さに嫌悪した。
「カル」
枕にまで近づく師父の、炎の吐息。
「お前に無理なら、おれが決めてやる」
「ダーク、」
「違う」
「……ダ、」
「『ダァ』」
身体の上の存在の、眠くなるような熱さ。
「お前が『カル』だからな。おれも『ダァ』だけでいい」
北の大陸で、それは肯定を指す言葉。
赤子が歯も生えぬその口で、最初に放つ言葉の一つ。


だがカルの故郷たる辺境の地では、
幼い子供がそう叫べば、振り返るのは彼の父親――……


「『ダァ』……」
囁くと、笑みの気配を背中に感じた。
「……ク・シュナイダー」
「おいこらっ、てめっ」
ぐりぐりと、枕に顔を押しつけさせられる。ふふ、と笑うと不意に、息苦しさが増してカル=スは、ダーク・シュナイダーの身体の下で無理やりに身を丸めた。
「『ダァ』! 言ってみろおら!」
「ダーク・シュナイダー、苦しいよ」
「この野郎……もっと苦しくなりやがれ!」
脇の下に手を差し込まれてくすぐられ、カル=スは涙が出るほど笑い転げた。
引きつる息も、浮かぶ涙も、笑いのせいに違いなかった。





「カルーーーー!」


その声に撃ち抜かれた胸が、はあっ、と大きく息を吸った。もう随分と長い間、息を詰まらせて凍え切っていた肺を、炎のエレメントが熱く灼いた。
顔をあげればそこには炎の鳥と化した師父が、彼を抱き取ろうと両手を広げたところだった。彼が拾われたあの日から、変わることなくその手は彼に伸ばされていた。気まぐれに父親ぶって、愛情めいたものも見せて、……息を詰まらせ、言葉を呑んでばかりのカル=スを、「しょうがねぇな」と引き寄せるあの腕。
許してやると。
お前がお前を許せぬというなら、おれがお前を許してやると――その手を伸ばしてこの男は言ったのだ。
――あぁ、
カル=スの咽喉が、声を出そうと必死に震える。
『お前が「カル」だからな。おれも「ダァ」だけでいい』
それは肯定を指す言葉。
それは父親を指す言葉。
ようやく立ったばかりの赤子が、いっぱいに手を伸ばして無邪気に、叫ぶ為にある言葉――


「ダァ――…………ク」


――あぁ、あぁ、やはり、言えるはずもない。
ようやく出せた声は涙に詰まり、カル=スはただ、彼の師父の手を必死に求めた。
懐に飛び込む氷の竜を、炎の鳥はその翼の中にしっかりと抱き込む。
おぼつかぬ歩みの果てにようやくたどりついた、そんな我が子を抱き上げる父親のように。