それは、とある神父が落としていった銃だった。


20人以上の聖職者を「食い殺した」吸血鬼の一氏族。犠牲者には高位聖職者が多かったし、国内の混乱は歓迎されるべき事態なのだから、「エーデルワイス」が出る必要などなかった。ヴァリアはそう主張し、彼女の右腕たる剣士にも、固くそう言い張った。
「わかったよ、ヴァリア」
そう言って苦笑まじりに肩をすくめた男は、一年前まで着ていた僧衣を、あの日脱ぎ捨てて以来一度も「神父」を名乗ったことはない。その地位を捨ててしまった証なのか、それとも、その地位を名乗れば迷惑のかかる、ローマの貴人のことを慮っているのだろうか……ヴァリアはそれを、口に出して尋ねることができなかった。口に出したら、返ってくる返答はきっと前者だろう。もしそうだったら、その真情はきっと後者なのだ。それを理解できる程度には、彼女はこの男と深くつきあっているつもりだった。


吸血鬼を銀の弾丸で仕留めた神父は、交戦中に、両手に揺るぎなく掲げられたその銃の片方を、腕を撃たれることで取り落とした。
神父の腕から飛び散った「血」が、べったりこびりついたままの銃を、メンバーのひとりが拾って持ち帰り、幹部達へと、氏族の絶滅を報告した。その銃を一目見た、あの男の表情をヴァリアは見た。
コートの高い襟に表情を隠し、硬く輝く宝石のような緑の瞳も、金の髪に半ば埋もれさせたその、端正な顔。
見開かれた瞳の奥の情熱と、息苦しいほどの懐かしさを、ヴァリアは確かに認めることができた。美しい顔だった。彼女に普段向ける、兄のような優しい瞳ではなく、抉るようにその銃身に斬り込んだ、熱い刃のような眼差しだった。


彼女が口を出す前に、男は銃に手を伸ばし、「預かろう」と、普段となんら変わらぬ穏やかな眼差しに戻り、あの物憂くも禁欲的な声でそう言った。


机の上に、銀の弾丸が散らばっていた。子供がはじいて遊ぶガラスの玩具のように、弾丸は、窓の外のガス灯の朧な光を反射して、鈍くぼんやりと光っていた。
手袋を脱いだ、傷一つない白い手がその弾丸をひとつひとつ、ぴん、とはじいて転がした。机の上から床に逃がすことは決してない、ひどく微妙な、やわやわとした手つきだった。女々しい手だった。一刀で鋼鉄の壁も断ち割る男の剣勢を知る彼女には、許しがたい手つきだった。
鍵穴から見えるのは、斜め横を向いた男の、優雅なカーブを描いた顎のラインの辺りまでだった。どんな表情をしているのかは、わからなかった。デスクの前に腰かけた男は、その白い手を弾丸から離し、代わりに、卓上の銃をやんわりと捕らえた。
弾倉は抜いてあり、安全装置はかけられていた。だが、彼女はひどく息を呑んだ。男がそのまま、その銃を己のこめかみに押し当てて、引き金を引くのではないかという、おかしな不安感が彼女をそうさせた。


銃身を左手で包み込み、そうして右手がゆっくりと、神父が親指で起こした撃鉄を人差し指で撫でた。中指は繰り返し愛撫するように、神父が眼にも留まらぬ速さで引いた引き金のラインを辿った。
……そして拳銃と呼ぶにはあまりに巨大なそれを、支える血塗れのグリップにゆっくりと、鍵穴の向こうで薄い唇が近づいた。


「ユーグ!」


自分でも、尖って歪んだ声だった。叫びながらドアを開けた自分に、何ひとつ驚くことはなく、ゆっくりと銃を机に置いて男は静かに振り返った。
「どうした、ヴァリア?」
「……」
何を言えばいいのだろう。この綺麗な翠の宝石。彼女の請いに、彼女の恋いに、黙って傍らにいることを選んだこの、得がたい、だが、彼女のものには決してなろうとせぬ男に。
「……おやすみの、」
これ以上少しでも声が震えたら、このまま泣き出してしまうだろう。そう自分自身で予感して、必死に唇の震えを抑え、彼女は平静な声を作る。
「おやすみの挨拶に来たのよ、ユーグ」
「そうか……」
穏やかな声でただ同意して、立ち上がり、男はドアノブを握りしめたまま立ちすくむ彼女に音もなく歩み寄る。
そして、
「おやすみ、ヴァリア」
グリップに与えるはずだった唇を、彼女の冷たく汗をかいた額にそっと、与えてユーグは変わらぬ優しい、……何もかもを押し殺してしまった者の、あの眼差しで彼女を凍らせ、そして、部屋の外へと押し出させた。


「……私を、」
ひとりきりの部屋に戻り、彼女はひび割れた声を押し出した。
「私を、選んだのよ、あの人は」
言葉を叩きつける相手は、自分自身だったのか、それとも、
……間違いなく、銃を故意に置き去ったあの神父だったのか。
「私の元に、残ってくれたの。教皇庁じゃなく、私と一緒に戦ってくれるのよ」
頬を無様な涙が伝う。
しゃくりあげながら、彼女は壁に、自分に、あの神父に、たったひとつの拠り所を呻き続けた。


「私と一緒に、いてくれるのよ……あの人はそれを選んだの……」



矢井田瞳「一人ジェンガ」より