傷ついた両脚は、200キロの機体を無事に支えてはくれなかった。体勢を立て直そうとして銃創から皮下循環剤を噴き、トレス・イクスはがたがたと膝を震わせた。
ユーグ・ド・ヴァトーの現在位置を確認する。彼が狙撃された様子はなかった。狙われたのはトレスだけのようだ。そして、狙撃手はユーグに向けて手を伸ばしていた。
あの狙撃手はヴァトーを連れ去るつもりだ、とトレス・イクスは判断した。なぜヴァトーがトレス・イクスを拒み、あの四都市同盟出身らしき男に付き従うのか、トレス・イクスには理解ができなかった。先ほど、トレス・イクスはきちんと告げたはずだった。ミラノ公は、ちゃんと別途に手を打つ予定なのだと。ヴァトーがたったひとりで仇討ちとやらのために奔走する必要は、もうないのだと。
「待て、ユーグ・ド・ヴァトー」
ヴァトーは自分と一緒にいなければいけない。この男は任務の遂行率も低いし、すぐ情にほだされて騙されるし、一般的な確率以上にトラブルに巻き込まれやすいし――それを「不幸」と呼ぶらしい――、怖い夢を見た夜は、まるで抱き人形のようにトレスを扱い、しがみついて、そのくせ侮辱的な言葉ばかりを吐き続けたりする。
任務に背けば叱咤して、騙されれば引きずり戻して、……抱きしめられて、頑丈な機体と機構でそのひどい欲求のすべてに応えつづけて、そうしてきたのはその狙撃手ではなくトレス・イクスだ。
手を伸ばす。
「俺はおまえをミラノ公に……」
お前の帰る場所は死都ではなく聖都だ。そうでなければいけない。トレス・イクスはそう判断し、彼の主もそう判断している。だから絶対にそうでなければいけないのだ。
だが伸ばした手から、ユーグ・ド・ヴァトーは一歩を退いた。
「嘘じゃなかった」
平坦な声。人間的情動の豊かな者なら、多分、「穏やか」と――もしかしたら、「優しい」と表現したであろう声。
「嘘をついても良い日でも。……嘘じゃなかった、トレス・イクス」


『愛しているよ』
『それも嘘なのか?』


強制的に再現された、あの春の日の――四月一日のひんやりと薄暗い廊下、ストレッチャーに縛りつけられた機体、かすかな光にも驚嘆すべき反射率で輝いていた淡い金の髪、
その記憶にトレス・イクスはよろめき、伸ばした指先はかすかな生地の感覚のみを伝えて空を切る。
「すまない……」
謝るのは卑怯だ。今ここでこの一言を告げて、そんな声で謝るのはどう考えても卑怯だ。トレス・イクスの演算機構に頼らぬどこかが、そう悲鳴をあげたが、それをトレス・イクス自身は自覚することができなかった。
あの男の師が細心の注意を払って手入れし、この上なく慈しんできた両の義手。それは、トレス・イクスの手を取らない。
そして、
「すまん、神父トレス」
どこか泣いているような顔のまま、ユーグ・ド・ヴァトーは浮かべた微笑をトレス・イクスの記憶端子に焼きつけて、自動二輪車の後部座席に飛び乗った。


嘘じゃない、とあの男は言った。
嘘偽りなく愛とやらを吐いてあの男が去ることと、
嘘偽りの愛とやらの中であの男が傍にいることと、
どちらがより有意義なのだろうかとトレス・イクスは、数秒の思考を無駄に費やした。


あの男のいない空間で、ひとり、穢れた血を流しながら。




ローデンバックは自分のセーフハウスに、まるで侵入者のように裏口から忍び込んだ。尾行も監視もついてはいなかったが、警戒するに越したことのない状況だった。彼がテロリスト「ユーグ・ド・ヴァトー」と行動を共にしているということは、既に同盟警察にも知れ渡っているはずなのだから。
ユーグは野生の獣のように気を尖らせ、濡れた衣服を脱ぎもせずに立ち尽くしている。その姿をちらりと見やって、ローデンバックはためらいがちに声をかけた。
「……暖炉を使えたらいいんだがな」
「ここに俺や君がいると、知られるわけにも行かないだろう」
濡れた淡金の前髪の狭間から、燭火のようにゆらゆらと揺れる、暗い翠の光が見え隠れしていた。ローデンバックは視線をそらし、気を取り直したように己のジャケットを脱ぎ捨てた。
「着替えぐらいはしておこう、このままじゃいくら何でも凍えてしまう。君もずいぶんと寒そうだ」
「俺が?」
「寒いんだろ?」
ローデンバックは苦笑交じりにそう繰り返す。なぜそう執拗に尋ねるのか、と尋ね返そうとして不意にユーグは、その問いの意味を理解した。
「……そうだな」
うつろな眼差しを窓の外、昼なお暗い雨空に向けてユーグは呟く。
その身を間断なく包む……細かな震え。
――寒さのせいだ。
心中の死に絶えたような空虚も、咽喉の奥にふさがる冷たい塊も、そしてこの震えも、すべては寒さのなせる業だ。そうでなければ、疲労と負傷による発熱が引き起こした寒気だろう。
「とりあえず、着替えを持ってくる」
そう言ってローデンバックは扉の向こうに消えた。着替え、とぼんやり繰り返して、ユーグは己の肩に、奇跡的に引っかかったままだったものに手を触れた。
ク、と、咽喉の奥の塊がほとばしりかける。食いしばった歯がかちかちと鳴りつづけて止まない。
ずたずたに引き裂いてしまいたい。かきいだいて号泣し尽くしたい。
その相反する感情に吐き気すら覚えて膝をつきながら、ユーグはただ、己の肩にめきめきと爪を立て続けた。


その肩をいまだ不器用に護る――あの可哀想な人形の僧衣に。


矢井田瞳「How?」 BUMP OF CHICKEN「太陽」 より