200キロの鈍重な機体を、脆弱な膝は支えることができなかった。打ちひしがれた者の如くに、その場にがくりと両膝をついたまま、だが、俯くことはせず、機械なる身は作り物の両眼で、前方を睨み据えていた。
夜明けはまだ遠く、闇は深かったが、機械化歩兵の眼に捉えられぬ事象は存在しなかった。……視界から去った者以外なら。
眼差しの先に「彼」はいない。
まばたかぬ眼の端を、降り注ぐ雨は洗ってそのまま、頬を流れて伝い落ちる。
伸ばした指先に、確かに一瞬、「彼」が触れた。なのに「彼」はそこから逃れ、
……トレス・イクスから逃れて、闇の中に消えてしまった。
『春の雨は、好きじゃない』
うるさげに前髪をかきあげて、「彼」は珍しく、その翠の両眼を光の下にはっきりと晒した。灰色の曇天、落ちかかる滴を顔で受ける。その様をトレス・イクスは視認した。秀麗な白い顔にも、その表情の昏さにも、何ひとつ人間的情動をかきたてられることはなく、ただ、「彼」の姿を視界に映した。
『生温くて、安穏として、魂にべったりまとわりつかれているような気がする。鈍るんだ。……何もかもが鈍っていく』
当然のことながら、それはトレス・イクスには理解できない感覚だった。抜き身の刃のような、常にぎりぎりと研ぎ澄まされた、この死神の発言を、師匠が聞けばポーカーフェイスで言ったことだろう。「君は少しぐらい、生温く鈍っている方がいいと思うがね」と。
身の内のどろどろとした負の心、復讐の灼火、そんなものを春の雨はだらりと怠惰に弛緩させる。「彼」はそう言いたかったのかも知れない。どちらにせよ、トレス・イクスに相槌を打って貰うことを、期待するべき話題ではなかった。
『雨は、秋の雨がいい。骨まで凍るような、だがやわらかい雪にはならない、そんな晩秋の、あるいは冬の、冷たい雨だ。心を削り、研ぎ澄ましてくれる、そんな雨だ』
二人の上に降る雨が、僧衣を、その下の肌を伝い、地に落ちる時には濁った赤を含んでいる。他人のものであれ、己のものであれ、それが血液だったなら、自然に還っていっただろう。だが、トレス・イクスの僧衣を伝って落ちる滴は、自然から分かたれて、穢された滴だ。そうして大地に染み込んで、ささやかに生命を汚染する。
『俺の故郷は……そんな雨が降る街なんだ』
トレス・イクスは無表情に、「彼」のその横顔を見上げた。ゆっくりと、顔を俯けるそのついでのように、「彼」もまた、トレス・イクスの眼差しを見た。
『……行こうか』
昏い声だった。だが、からくりの身に、思いつく言葉があるはずもない。そもそも、何か言葉をかけなければいけないという思考が発生しなかった。
だからトレス・イクスはただ、「肯定」とだけ答えて、半歩後ろを従って歩いた。
「彼」は闇の向こうに消えた。何を求めて消えたか知らない。「めでたし、めでたし」と書かれて終わる、おとぎ話のような世界が、あの闇の向こうにあるとも思えなかった。
トレス・イクスの未来も、「彼」の未来も、「幸福」と名づけられるものには決してたどり着くことがない。血と泥濘の中を這い回り、敵を殺し、殺し、殺し続けて最後には敵に殺される、それだけが彼らに用意された未来だった。ずっと一緒に、その絶望的な未来を歩み続けるはずだった。ミラノ公のために。「ずっと一緒に」。
「彼」はそこから逃げて、闇の向こうに、雨の向こうに消えていった。
人工の赤は、銃創から絶え間なく流れ、雨に混じって、石畳をささやかに穢し続ける。よろめきながら、それでもトレス・イクスは立ち上がった。
追わなくてはならない。
トレス・イクスは「彼」の囚われる過去を知らない。「彼」の求める未来を知らない。
……「彼」のいない現在など知らない。
それは存在しえないものだから、存在することなど許さない。何が「彼」をかきたてて、「彼」を奪って、「彼」を連れ去ったのか、トレス・イクスはそれを知らない。知らないものは、存在しない。存在しないものが、邪魔をすることは許さない。
あの闇の向こうに消えたのは、この髪を撫でた手、この眼に映った眼差し、この手に押し当てられた唇、
この機体を与えた身体。
――追わなくては。
それこそが、女神のトレス・イクスに与えたもうた至上の命令であり、現在のトレス・イクスにとって、最優先の任務だった。
軋む脚で石畳を踏みしめて、トレス・イクスは歩き始める。
降り注ぐ雨が、摂氏何度から「冷たい」と評されるのか、トレス・イクスはそれを知らない。
「彼」が囁いた、「彼」が懐かしんだ、……還りたがった、「故郷の雨」が本当に「冷たい」のか、トレス・イクスはそれを知らない。
知らないから、愚かな機械は頑なに、この雨もきっと、「彼」の嫌いな「生温い雨」なのだと、断定して思考から即座に削除した。
椎名林檎「闇に降る雨」より