やわらかな光、と人間は表現するが、トレス・イクスに光の硬軟は理解できなかった。約3200秒前――自然現象は時に正確な時刻表現を困難にさせる――に、雨は止み、厚く垂れ込めていたはずの雲海の波間から、一条の白光が差し込んでいた。雲の所々が明るく輝き、幾筋もの光が、丘に、その先の砂浜に、その先の海面へと突き刺さる。丘に敷かれた新緑の絨毯、そこには無数の水滴が置かれ、与えられた光をいっせいに弾いて輝いていた。
やわらかな光。トレス・イクスの傍ら、4時方向120センチの地点に佇んでいる同僚は、そう表現する。光の硬軟を理解するのは、人間だからなのだろう。そこにはトレス・イクスとの厳然たる差異が存在した。
「――天使の階段だな」
絶え間なく続く波の音に混じっても、なお明晰な声が聴覚センサーに捉えられた。
「何?」
首だけを動かし、4時方向を肩越しに見る。半ば透けるように光を反射する、豊かな淡金の髪。その狭間から覗く翠の眼も、自然光を受けて奥底まで透徹に輝いていた。雨あがりし丘の新緑のように。
「そう言うんだ。天と地を結ぶ階段のように見えるから」
翠の瞳は、ひとつゆっくりとまたたいて、トレス・イクスから「天使の階段」へと視線を移した。またたいた瞬間の、光を弾く睫毛の動きまで、人形の眼ははっきりと認識し、記憶した。
会話は一旦終了したと判断し、トレス・イクスは海面へと視線を戻した。「アイアンメイデン」の到着が遅れると、連絡が入ったのは325秒前のことだ。沖合いの天候はかなり悪かったらしい。
露と草をさく、さくと踏んで、トレス・イクスのすぐ背後に同僚は寄り添って立つ。
「美しい風景だ。宗教画のように。……罪深き人たる身で、ここにいても良いのかと悩んでしまうな」
トレス・イクスは返答せず、だが、背後から己の身体を包むように伸びてきた二本の腕を、拒もうともしなかった。接続孔を数基抱えた敏感な首筋に、波打つ金髪と、吐息と、そして遠慮がちに押し当てられた唇の感触が、強く残った。


……強制的に再生された記憶を切断し、トレス・イクスは車窓の外に視線を移した。風景を押し潰すように低い、白灰の雲。肌寒い早春の緑。点在する農家。切り出した大きな岩……
視線は天に向き、何かを探すようにしばし彷徨う。雲の切れ目は存在しない。それを己が探していたことに気づく前に、視線は元通り、地上に戻った。


帰還命令を無視した“ソードダンサー”は、アントワープからブリュッセルへと移動しているらしい。これ以上国際紛争の種を撒く前に、早急に確保する必要があった。
「確保する」。……生死問わず。最悪の場合、射殺という手段もありえる。


埃を払ったギターの弦を、繊細な長い指が丁寧に巻き上げていく。トレス・イクスは弦のきしきしと軋む音を聞き、ペグと呼ぶらしいつまみを握り込んだ指が、ゆっくり力を込めていく様子を見た。
「ピアノは少し習ったんだが……ギターは遊びでいじっていただけなんだ。それももう、10年以上前のことだから……」
言い訳のようにつぶやきながら、手袋を外した白い手は、ひっかくようにたわむれに、一本の弦を軽くはじいた。AとGの中間の、間延びした音が波形に揺れた。
教授の実験室の隅で、埃をかぶっていたギターだった。主の不在の掃除中、それを見つけたのはトレス・イクスだった。「懐かしいな、ギターだ」「弾けるのか」「少しだけなら」……そんな会話の後、3.6秒の沈黙をおいて、淡い金の滝は揺れ、しっかりと襟を詰めた首は傾げられた。「聴いてみたいのか?」と、何故聞かれたのかはわからない。だからトレス・イクスは素直に、「卿が弾くのなら鑑賞する」と答えたのだ……
カーテン越しの、色あせた陽光が斑となって落ちかかる、飴色のギター。床に転がった、傷だらけのケースを行儀悪くトン、と爪先でつついて開き、椅子に座ったままかがむようにして、中を覗き込んだ翠の瞳――……その整った眉が困惑に寄る。
「音叉もないのか……困ったな」
「440HzのAか?」
「そうだな、普通は――……」
穏やかな、ほの昏い声は途中で断ち切られた。断ち切ったのは、トレス・イクスの声で正確に再現された、440HzのAだった。
ひどく大切そうに、弦はそっと一音つまびかれ、A音だけの合奏は少しずつ、あの白い手が操るペグによってトレス・イクスへと寄り添われた。


「止めたければ、俺を殺せ」
……その声が割り込んでくるまで、トレス・イクスの聴覚センサーには、440HzのAが耳鳴りのように響きつづけていた。戦闘の際に受けた衝撃で、センサーに異常が生じているのかもしれない。戦闘に支障はない、とトレス・イクスは判断した。
白々しい電気の灯りに照らされても、敵性体の姿を通常視野で視認することはできなかった。敵性体は壁の向こうに存在するのだ。熱源・音響モードを重ね合わせればあかあかと、刃を構えて刺突の体勢に入った剣士の姿が浮かび上がった。
雨音が遠い。
素手で手を伸ばしても、壁を打ち破るためのわずかなタイムラグが明暗を分け、トレス・イクスが敵性体を捕獲する前に、その胸部は敵性体の刃によって抉り抜かれていることだろう。
壁の向こうの、届かない熱源。海面を指差した、六弦をつまびいた、精巧なその指先に握り締められた、刃という名の死。
――なぜだ?
壁の向こうの額に、レーザーサイトの光をポイントしてトレス・イクスは自問する。
――なぜこんな事態を招いたのだ?
こんな結末を迎えるために、ローマから出張してきたのではなかった。あの淡い金の髪を鷲掴みにしてでも連れ帰り、プロフェッサーに散々説教させたのちに、四都市同盟の攻略任務へと、共に参加するはずだったのだ。
――何かを……何かを俺は誤ったのだ。
たとえば、「天使の階段」を二人で見上げ、寄り添うように抱き包まれたその時に。やや拙くも繊細にギターを這う、その指をじっと観察していたその時に。
何かを……トレス・イクスは何かを言わなければならなかったはずなのだ。


だが、人ならざるこの身に一体、何が言えたというのだろう……?


じりじりと、半身たる「ジェリコM13」の撃鉄が上がっていく。
最期の口づけを銃弾によって与えるべく、その行動を是認しながらも、トレス・イクスは最期の0.01秒まで、己の与えるべきだった言葉を思考しつづけていた。



COCCO「雲路の果て」より