ベンチの上に転がった、黄色いくまのぬいぐるみは、久しぶりのお外に興奮した赤ん坊に、どうやら忘れ去られてしまったようだった。


ユーグはベンチの上に座ったまま、芝生の上をころころ転げている赤ん坊から目を離さずに、そっとそのぬいぐるみを引き寄せた。
いい具合に傷んだそれは、腹がぱっくりと裂けて白い綿が露出している辺り、なかなかホラーな様相を呈しているのだが、あのたくましいサイボーグ・ベビーはそれを気にした様子もなく、今日もはいはいしながら引きずりまわしていたのだった。
当の赤ん坊は「うぅ?」などと、いかにも不思議そうにうなりながら、花にとまったちょうちょをしげしげと眺めている。すでに泥だらけの手と膝を眺め、だが、別段やんちゃを止めようとはせず、ユーグは懐から小さなテープを取り出すと、目立たぬように、くまのおなかをそれで留めてやった。
この立体的に縫製された黄色いくまの構造を、ユーグはすっかり覚えてしまった。同じものを一から作れと言われても、恐らく問題なくやり遂げてみせるだろう。
「……信じられるか?」
手の中のくまの腹を小さく撫でながら、ユーグは囁く。
「こんなに必要とされている君が、ある日突然、不要になって捨てられる。……それどころか……君の乱暴な天使そのものが、『存在しなく』なってしまうんだ」
握りしめられて、ぬいぐるみが悲しげに軋んだ。


「乱暴な天使」に夢中の彼に、のんびりとした、だが断固とした口調で釘をさしたのは彼の師匠だった。
「いいかね、ユーグ」
ユーグの膝の上で力強くミルクを飲んでいる赤ん坊から、視線をそらし、その視線をひたと弟子に据えて教授は言ったのだ。
「どんなものにでも終わりは訪れる。例外なく、『どんなものにでも』、だ。……特にそれが、実験的な試みであるならば」
ユーグは膝に赤ん坊を乗せたまま、師匠を見上げていぶかしげに問い返そうと、口を開いたままで固まった。ぽんっ、と口から哺乳瓶の乳首を引っこ抜き、「うぅ?」とサイボーグ・ベビーがユーグを見上げた。それに返事する余裕もなく、ユーグはただ、膝の上の天使をこわばった顔で見つめているしかなかったのだ……


「にぅ」
ばしん、と靴を叩かれてユーグは我に返った。彼の義手は、あやうく手の中のぬいぐるみを握りつぶしてしまうところだった。
抗議の眼差しで自分を見上げている赤ん坊に、慌ててかがみ込む。
「すまない。ほら、返すよ」
両手でくまを手渡してやれば、ユーグの足元に座り込んだ赤ん坊は、機嫌を直してそれを握りしめる。無邪気な可愛らしさが今は痛々しくて、ユーグはそっと、茶色のふわふわした頭に手を置いた。
ちかちか演算の光る眼を、ぱっちりと開いてサイボーグ・ベビーはユーグを見返す。
だがやがて、
「ぷぅ」
と何やらひとり納得し、受け取ったばかりのくたくたしたくまを、えい、とばかりにユーグに突き出した。
「神父トレス?」
「ぷぅ」
さぁ受け取れ、とくまを押しつけられ、思わずユーグはそれを手に収める。
「……もしかして、慰めてくれているのか?」
「ぷぅっ」
手のかかる大人だ、と言わんばかりに「肯定」してみせて、赤ん坊は鷹揚にユーグを見上げる。
「……はは……」
泣きたくなるような愛しさに襲われて、ユーグは手を伸ばし、得意げな赤ん坊を抱き上げると膝の上に置いた。
「俺は君がこうしてくれる方が、ずっと慰めになるんだよ」
「うぅ?」
抱っこが嬉しいのか、上機嫌にサイボーグ・ベビーは重いおむつのお尻を揺する。
その膝の上に、ぬいぐるみを乗せてやってユーグは、ぎゅっとぬいぐるみと赤ん坊を抱きしめ、その小さな丸々とした手を握りしめた。
「……いつかここに、大人の君と一緒に来たい。君が何一つ覚えていなくても……ここで一緒の時間を過ごしたいんだ」
「ぷぅ」
ぬいぐるみを抱っこして、ユーグに抱っこされて、小さなあくびをしながらでも……
赤ん坊は確かに「肯定」と答えてくれた。




「……卿は泣いているのか?」
ベンチを軋ませながら恐る恐る腰掛けた、小柄な機械化歩兵がふと、そう言ってユーグの顔を直視した。
「いや……」
涙を流してはいなかった。ユーグは困ったように笑って、傍らの肩をそっと抱き寄せた。
「……ヴァトー神父?」
「君は知らないかもしれないが、」
泣き笑いの顔を誰にも見られまいと、芝生から眼を背け、頬を茶色の固い髪に押しつける。
「俺は……君が思っているよりずっと、君のことが好きなんだよ、神父トレス……」


「知っている」
その声はひどく小さく、幼子のように素直だった。
眩暈のような、だが決して不快ではない――幸福と言っても良い既視感の中で、トレスはその一言を呟いたまま、じっと、眼に痛い翠の芝生を見つめて動かなかった。



平井堅「思いがかさなるその前に…」より