遠雷のような轟きが、うららかな春日の下に響き渡る。音の高低に従って、音源たる発声器官もまた、ゆっくりと繰り返し上下していた。
「……うぅ?」
自分の見ているものが、いかにも不可思議な現象であるかのように、座り込んだ小さな機械化歩兵はぱっちり目を見開き、忙しくちかちかさせながらその上下を眺めている。
国務聖省、スタッフオンリーの一角にある憩いの中庭。立入禁止の芝生の中に堂々と上がり込み、あまつさえ一本の木の根元に頭を預け、轟音としか思えぬいびきを高々と響かせて昼寝しているのは、……上下する胸に密生した胸毛を見ればその正体も一目瞭然だろう。
「ぷぅっ」
おきろ。と、重たいおむつのお尻をどすんと芝の上で揺すってみたベベ・トレスは、対抗するように高まったいびきの音に、辟易して「にぅ」とむずかった。跳ねたお尻も、ちいちゃな手も、確実にシスター・ケイトの趣味と思われる真っ白いフリフリのベビーウェアも、すでに泥と埃で見る影もない。どうやら、どこかでダメパパ(仮)の監視を突破し、はいはいによる脱出と冒険を敢行中といったところらしい。
気を取り直したようにはいはいの体勢に戻ると、勇敢な赤ん坊は何の使命感でいっぱいになったものか、ばたんばたんと昼寝のライオンに突進した。
土のついた手を伸ばし、その僧衣の脇にとりあえずよいしょ、と取りつく。よじ登る気満々の、20キロの重りにしがみつかれてさすがにうるさくなったのか、いびきの音がぴたりと止んだ。
「……ンだぁ、お前」
ねぼけた声とともに、力強い大きな手が伸びてひょい、と小さな同僚の腹の辺りを鷲掴みにする。
「ぷぅ」
「あぁ? 拳銃屋の隠し子か? そうかそうかサムライの奴、とうとうタネつけやがったな」
その反応はどうも、ベベ・トレスのお気には召さなかったらしい。適当な――だがその実、赤ん坊を安全に確保した手馴れた持ち方で、寝転がったまま自分の目の前に20キロの塊を掲げて眺めやる、ものぐさなライオン。「にぅ」と赤ん坊はそれを威嚇した。
「生き物の臭いがしねえな、お前」
ひくひく、と浅黒く日焼けした鼻が動く。
「うぅ?」
「……ったく、面倒くせぇモン作りやがる……」
眠たげな……あるいは、眠たげな様子の中に何かを押し殺したような、そんな声で低く唸るようにつぶやき、大きな同僚は小さな同僚を、べたん、と腹の上に据えた。
「にぅ」
「うるせぇ、俺ぁ昼寝の最中だ。迷子の親探しなんざ御免蒙るぜ。面倒くせぇからここで寝てけ……いつか探しに来るだろ、金髪振り乱した野郎がよ」


いびきの轟音が復活する。
しばらく、「にぅ、にぅ」と得意のヒップアタックを、鎧のような腹筋に向けて振り下ろしていた小さな冒険者もまた、やがて飽きたか、獣の腹の上にぺたんと伏せて休眠体勢に入ったのだった。


……半泣きの「金髪振り乱した野郎」がふらふらと、探し疲れて問題の中庭に辿り着いた――意地悪なことに師匠は探知機の存在を教えてはくれなかった――まさにその時、彼の目の前で悲劇は起こった。
形容しがたい、野太く濁った悲鳴が鼓膜を直撃し、思わず剣士はその場でよろめく。
「な……な……なにしやがんだてめぇぇっ!!」
つまみあげられてがみがみ叱られながら、きょとん、と脚をぶらぶらさせている物体に、とりあえずユーグは混乱をかなぐり捨てて飛びつき、今にも小さな頭を丸かじりしかねない(と、ユーグには見える)獣の手から、力任せに奪い取った。
「トレス! どれだけ俺を心配させれば気が済むんだ君は!」
後はうんざりするほど甘ったるい、鼻に抜けるわ舌は巻くわのフランク語に取って代わり、「俺の天使くん」だの「俺の可愛い宝物くん」だのと繰り返しながら抱擁とキスに忙しい剣士は、だが不意に、背後の剣呑な――と表現するにはあまりにおどろおどろしい――殺気とも言うべき気配にぴたり、と動きを止めた。
「……あのなぁ、クソサムライ……」
「……ガルシア神父……?」
恐る恐る振り返り、その顔から胸元に視線を落とし、……笑いに引きつりかけた表情で沈黙したユーグは、腕の中で不思議そうに自分を見上げる可愛い赤ん坊を覗き込んだ。
「だ……だめじゃないか神父トレス……おいたしちゃ……」
「にぅ」
心外げに振り回された、小さな丸々とした拳に握られたままの、小さなサイボーグの戦利品。
「わかってんのかサムライ……って笑うんじゃねえ! このチビ拳銃屋、こともあろうにこの俺様のファンタスティックな胸毛をむしりやがった!」
俯いてぶるぶる震えながら、堪えきれずに「ぶっ」と噴き出した、失礼なサムライはそれでも懸命に、しっかり握られた胸毛を取ろうと、力強いその拳を開かせる。
「てんめぇぇ……」
「す、すまない、ガルシア神父……彼も、その……め、……珍しくて、きっと……」
まさか本体のトレス・イクスも、この気高い獣の僧衣から覗く胸毛を眺めながら、「一度むしってみたい」と思っていたのだろうか。いやそんなことはあるまい、と必死に己を否定しながらも、ますますひどくなる笑いの発作にユーグは耐え切れず、とうとうその場にしゃがみこんで赤ん坊を下ろしてしまった。
「……決めた」
そこに落ちかかる、ぐるるるる、と咽喉の奥で唸ったかのような、不吉な宣言。
「え?」
不穏さに顔を上げれば、復讐者の顔で唇を笑顔の形にひきつらせた破戒神父が、仁王立ちに立ちふさがっている。
「……何を……」
「決めたぞ俺は。てめえの胸毛も、この俺がじきじきに引きむしってやる」
「…………はぁ? ちょ、ちょっと待てガルシア――」
「問答無用! てめえも俺の苦しみを味わえぇぇーーーーーー!」


生地の破れる音、獣の咆哮、剣戟の音、えぐれる芝生。
聞き苦しく見苦しいそのありさまに、「にぅ」と優等生の赤ん坊は苦言を呈する。
だがやがて、やっぱり飽きたのか潔く拳を開き、戦利品をぱらぱら落とすとばたんばたん、と冒険を続行して去ったのだった。