耐えがたい緊張感に支配された沈黙が、無人の回廊に満ちていく。
二対の機械の眼差しは、先ほどからかちあったまま一歩も譲らず動かない。
……床上165センチ前後と、床上20センチ前後の地点で。
「……敵味方識別信号を再確認」
沈黙を破ったのは、床上165センチから発せられる、作り物の視線の持ち主だった。
「ぷぅ」
生真面目によいこのお返事をしてみせたのは、床上20センチから発せられる、同じく作り物の視線の持ち主だ。
「…………信号を照合。照合結果ネガティヴ」
何となく、現在の自分の置かれている状況を心もとなく感じでもしたのだろうか。弟機よりわずかに感情制御のゆるいHC-IIX――派遣執行官ブラザー・バルトロマイは、確認するように、また目の前の物体に聞かせるように、照合結果を音声化した。
「うぅ?」
そんなはずはない。もういちどかくにんしろ。と言いたげに、気難しげにぺちんと床を叩いてみせ、目の前の汚れた物体は己の機体を揺すった。
どこを突き進んで、この中庭沿いの回廊に辿り着いたものか、かつては白かったのだろう衣服も、ドゥオのものより白く薄いはずの人工皮膚も、見事なほどに泥まみれである。それが不快なのか、何か痒みのような擬似感覚でもあるのか、「にぅ、にぅ」と床の上でぐずっている。
物体の背後――人間の赤ん坊に酷似した外見の機体である以上、尻をむいている方角が「背後」であるはずだ――に回ろうと、目を離さぬままそろそろと己の機体を移動させると、それも気に入られなかったのか、物体はぺたぺたと四つん這いのまま進行方向を変換した。
また正面からじぃー、と睨み上げられて、ブラザー・バルトロマイは次の手段を思考する。
見たところ、無害な愛玩用の機体のようだが、なぜか何度も検索をかけずにはいられない。これが「勘」というものなのか? そう自問して即座に、かの殺戮機械はそれを却下した。機械に「勘」などあるはずもない。何か、見落とした要素があるからこそ、即時保護に到らずこうして警戒しているはずである。
「にぅ」
先ほどから、落ち着かなく身体を揺すっている――おそらくは何か懸命に主張している――機体をとりあえず、スキャンしてブラザー・バルトロマイは軽視すべからざる事態に気づいた。
人間の赤ん坊なら排泄器官があるべき辺りの「下着」? ……に、皮下循環剤が漏れ出しているのだ。
「損害評価報告を」
平板な声で、それでもそう告げてやれば、物体は我が意を得たりと言いたげに、「ぷぅ」と身体を跳ねさせた。
そのまま、なぜかごろんと仰向けになる。
「……?」
「……うぅ?」
両者ともに、意志の疎通かなわぬぎこちない沈黙が再び満ちた。
だが、今度の沈黙を破ったのは当の本人――本機?――たちではない。
「おお、ブラザー・バルトロマイではないか!」
呼びかけた人間は、呼びかけられた機械と同じ修道服に身を包んでいた。
「ブラザー・ペテロ、卿は――」
この機体について何か情報を持っているか。そう尋ねようと開いた口は、だが、上司の大音声によって、珍しいことに開いたまま固まった。
「ぬぅっ……その赤子、おぬしに生き写しではないか! さては――」
「否定。俺は『生き』てはいない」
咄嗟にその部分しか否定できなかったのは、ここまで極端にデフォルメされた顔と、己の顔について「類似」という曖昧な特徴を検索することができなかったためである。俺は「これ」と似ているのか!? と、咄嗟に振り返れば、仰向けにひっくり返って腹を見せたまま、正体不明の自信に満ち溢れた「赤子」はやたら得意げにブラザー・バルトロマイを見返してきた。
そこに局長の、決定的な処断が下される。
「さては、その赤子はおぬしの生き別れの兄弟だな! 良かったではないか、おぬしやあの派遣執行官以外にも、生き残りがおったとは!」
「……………………」
ブラザー・バルトロマイが修道士であることを鑑みれば、「実子」という選択肢がブラザー・ペテロに浮かばなかったことはまだ理解できる。だがそれ以外の部分にはもう、どこから何を指摘すれば良いのやら見当もつかず、気の毒な機械はそのままそこに立ち尽くした。
加えて、
「ぷぅ」
とりあえず元気良く、よいこのお返事をしたらしいその一声が、機械の混乱に拍車をかける。
「おお、そうかそうか、兄上に存分に可愛がってもらうのだぞ!」
「ぷぅっ」
「そうと決まれば、兄弟感動の対面に部外者がおるのも無粋極まる。ははははは、某は退散せねばなるまいな!」
ではな! とさわやかに片手を挙げて、限りなく細い頼りの綱は、あっさりと歩み去ってしまった。
残された殺戮機械は、他にとるべき方策を見出せなかったのか、仰向けのままの小さな機体をじっと見下ろす。
「……『兄弟』」
鸚鵡返しのようにその言葉を音声化すれば、「ぷぅ」と重ねて肯定された。
しばしの沈黙。
やがて、弟機と同一の顔は物静かに、横に振られた。
「否定。卿は俺の兄弟機ではない」
現存する唯一の兄弟機は、HC-IIIX……派遣執行官「ガンスリンガー」。
「ガンスリンガー」は「敵性体」。
……だからこの「赤子」は、「兄弟機」であってはいけない。
うぅ? と不思議そうにうなったきり、ぱっちりと目を見張って「兄」を見上げ、動かない小さな機体。
それを見下ろすブラザー・バルトロマイの、心なき――心なきはずの機械の瞳の、奥底に無数の光がまたたきはじめる。
それは、彼が何事かについて、あたうる限りの演算能力を割いて検索し始めたことを、示していた。
……いい加減人生に疲れ始めていた派遣執行官「ソードダンサー」が、彼の最愛の赤子人形を呼ぶ声すら枯れ果てて、ふらふらと回廊を彷徨っている。すると、彼のあまりの惨めさを哀れんだのか、風が気まぐれに、その耳に小さな物音を運んできた。
がばっ! と顔を上げ、熱に浮かされたような眼差しをユーグは忙しく左右に振る。
そして吸血鬼の「加速」も追いつけまいというスピードで、目的の「物体」に向けて飛び掛った。
「神父トレス!」
「ぷぅっ」
「物体」――なにやら謎の布にぐるぐる包まれたベベ・トレスが、それでも元気良く、よいこのお返事をしてみせる。
「よかった……無事でよかった……! てっきり俺は君がガルシア神父の胸毛に頭から貪り食われたのかと……!」
安堵のあまり支離滅裂になりながら、布のかたまりをひっかかえ、もう二度と離すまいと抱きしめたユーグ――あろうことかこの絶世の美丈夫は、半泣きで回廊に座り込んでしまった。
「ぷぅ」
自分を抱きしめたままめそめそしている男にも、無邪気にして度量の広きサイバー・ベビーは呆れることなく、ぺちぺちと肩やそこらを叩いてやる。
ひとしきり、腕の中の宝物への愛情と情熱と安堵の念を語り尽くしたユーグはそれから、わずかに赤ん坊を身体から離してつくづくと眺めやり、そしてようやく、そのふにゃふにゃずっしりした機体を包む、奇妙な布地に気がついた。
「……天使クン、これはどうしたんだ……?」
よく見れば、赤子がころころ転がって遊んでいたその傍らには、やたらきっちり正確に畳まれた、濡れたおしめが安置されている。
どうにも、ベベ・トレスを新たに包んでいるその布地に、不吉な既視感を覚えてならない。そう思いながら恐る恐る、二重三重の分厚いベールをユーグはそっと剥がしていった。
生地が長すぎて余ったのだろうそれは、実に不器用に、べしょべしょのおむつ代わりにベベ・トレスの機体をぐるぐる包んでいた。まさかこの服は、いやそんなはずは、と葛藤に震えながらユーグの手で開かれたそれは、修道士が着用する深紅の肩衣だった。
そして染め抜かれた……「神の鉄槌」。
「……ト……トトトトレス……一体どこでこれを……というかむしろこれは誰の……」
「うぅ?」
たとえそれがどんなにごわごわした生地であれ、おむつを替えてもらえたことで十二分に満足したらしい。肩衣に埋もれて何度かもぞもぞした赤ん坊は、ふやふやとあくびをすると、そのまま休眠体勢に入ってしまった。
ちょっと待て! と揺さぶりたい衝動にかられながらも、ミルクも飲まずの赤ん坊が、この大冒険でどれだけ疲れたのかを思いやれば勿論、起こすことなど出来るはずもない。
「すまない……こんなに危ない目に遭わせて……」
この小さくも勇敢な機械化歩兵は、機密いっぱいのその身体で、異端審問官に遭遇してしまったのだ。運良くどこも負傷していないように見えるが、最悪の事態を思えば今更ながらに身体が震えてきて、ユーグはしっかりと、腕の中の赤ん坊を抱き直した。
「誰かはわからないが、これはきちんと洗って返そう」
ベベ・トレスのおむつは、実際にはただの皮下循環剤が染みているだけなのだから、別に不潔でも何でもない。片手に、肩衣に包んだ小さな身体を抱きかかえ、片手に、おむつを回収して立ち上がったとき、ユーグはふと、ひどくかぎ慣れた臭いに気づいて眉をひそめた。
ミルクくさい肩衣の、奥底からかすかに香るガン・スモーク。
「……まさかな」
該当するひとつの名前を、苦笑して脳裏から追い払い。十歩ごとに忙しくキスをするという甘やかしっぷりを発揮しながら、ユーグはお疲れのベベを製作者に診察してもらうべく、足早に回廊を去っていった。
不器用にぐるぐる巻かれた即席のおしめの正体が、とある機械化歩兵の懸命なる演算結果だと、知るのはたった二機の「兄弟」だけなのであった。