なだらかな丘を登りきると、古代の遺跡のような巨石がユーグを出迎えた。その中のひとつ、海と向かい合って聳え立つ2メートルほどの岩を背に、朴訥たるサムライは、彼の眼差しそのもののような緑の芝の上へと座り込んだ。
緑の芝、と言っても今、その色を判別することは難しかった。海は入日によって茜色に染め上げられ、その上を金の波が絶え間なく踊っていた。その海に面して座ったユーグの眼の翠もまた、ブランデーのような物悲しい赤茶色に染められていた。
彼の後を追ってゆっくりと、丘を踏みしめて登ってくる人影がある。踏みしだかれる草花が、気の毒なほど潰れ萎れていた。ここに誘うべきではなかったのかもしれない――ふと、ユーグはそう思う。人形は石畳を踏みしめる姿こそ似合えど、懸命に咲いている花々を避けて歩くことなど、思いつきもしないに違いなかった。
「神父トレス、ここだ」
岩に背をもたせ、ユーグは片手を挙げてみせる。まるで狙撃を警戒するかのような――実際警戒しているのかもしれないが――、慎重な足取りでトレスは丘を登りきり、ユーグの眼前に佇んだ。まぶしい西日を遮られて、やや熱っぽかった頬がひんやりと癒される。ユーグはほっと嘆息した。
本日夜半、この丘の向こうに「アイアンメイデン」が着陸し、トレスとユーグを拾ってそのままアルビオンへと離陸する。北国の晩夏の肌寒さは、ユーグには親わしいものだった。トレスにとっても、暑いよりは寒いほうがずっと快適らしかった。
“ガンスリンガー”“ソードダンサー”、どちらも、鉤裂きだらけの僧衣をまとっている。海を挟んだ北の隣国――かつての「ブリテン」と同じ語源を持つこの街は、信仰心篤く、教皇庁にも好意的だった。市民の協力を得られたおかげで、損害はさほど深刻なものにならずにすんだ。
それでも、派遣執行官二人を投入する規模の仕事は、ユーグの肩に疲労と、そして拭いがたい憂鬱を押し被せている。……人をダース単位で斬った後に、憂鬱にならずに済まそうという方が間違っているのだろうが。
「このままアルビオンか。血糊も落とさんままに」
「肯定。宿に向かっている時間はない」
厳しい職場だな、と、ユーグは口の中でつぶやく。人を斬ることに疲れた時、剣は剣士を裏切るのだという。彼は今だ若く、だが、己の背後に迫る何者かの足音を、このような夕方にはどうしても幻聴するのだった。
「……疲労が激しいようなら、ユニットの変更をミラノ公に提言する」
どこか遠慮がちにも聞こえる、同僚の機械音声だった。そんな不器用な気遣いを聞いていて、なぜ一度でも、チタンに魂を押し込められたこの同僚を、人形だ機械だと思い込むことができたのだろう。ユーグは苦笑した。確かに疲れてはいたが、時に家族のようにすら愛しく思うこの機械化歩兵を、今は、手放したくなかった。
「大丈夫だ。……だがそうだな……もう少し傍に来てくれないか。何か抱いていたら気分が和らぐかもしれない」
その発言は、「死神」と恐れられる28歳の青年剣士の発言としては、著しく常識を逸脱しているものだったに違いない――だが、ユーグの言動に慣れてしまった人形は、異論なくそれに従った。ユーグのすぐ目の前に、膝を突いて彼を覗き込む。「逆だ、逆」と、従順な人形の両肩を掴んで、ユーグはそれを軽くねじるように押した。
「……卿と同じ方向を向けということか?」
「そう……ここに座るんだ」
開いた己の脚の間を、叩いてみせる。トレスは一秒半ほど考え込んだようだったが、やがて大人しくユーグに背を向け、その場に腰を下ろした。……慣れているというより、それが当たり前の行為なのだと認識しているのかもしれない。ユーグは個人主義の職場に感謝すべきだろう。
背もたれにしていた岩から身を起こし、トレスの身体を両手で抱え込むようにして、その背にぐっと体重をのしかける。小柄な肩に頬を押し当て、じっと夕陽を見つめ、ユーグはともにその赤と金の光を浴びた。――先刻、共に血を浴びたように。
「――ヴァトー神父、いつまでこうしているつもりだ?」
大人しく腕の中におさまったままの機械化歩兵が、堅実な口調で問うてきた。余剰時間があるから大人しくしていてくれるが、タイムリミットが来れば容赦なく立ち上がるつもりだろう。その前にユーグの予定を確認し、“アイアンメイデン”と連絡を取るつもりなのかもしれない。
しずしずと海の赤を強めていく夕陽を、トレスの肩に顎を乗せて眺めたまま、ユーグはぼんやりと問い返した。
「日没は何時だ?」
「20:36」
一秒の遅滞もなくトレスは答えた。
「20時36分……」
眼の奥まで染め抜くような赤が、緩慢に海へ近づく様を、トレスを抱き寄せ直しながらユーグは見つめる。
「今は何時だ?」
「20:14」
太陽が沈むまで22分。ユーグは頭の中でそう計算すると、眼前にあるトレスの耳に唇を寄せた。
「……あの太陽が沈むまで、このままにさせてくれないか?」
トレスが答えるまでには、1秒弱の空白があった。
「――了解した」
そのためらいの理由は尋ねず、「ありがとう」とつぶやいて再び、ユーグはトレスの頭に頬を押し当てる。
綺麗な夕陽だな、と言ったとて、トレスは決して同意しない。彼にとって夕陽とは、光量補正の対象以外の何物でもないのであって、それが赤であれ青であれ、情緒を掻き立てられる原因にはならない。
そも、トレスの眼に、地平線に沈む太陽がどのように映っているかさえ、ユーグは知らないのだ。かの機械の眼差しの中、夕陽は赤くないのかもしれない。光は眩しくないのかもしれない。……夕陽など存在しないのかもしれない。天空にある太陽を、どの時点から夕陽と呼んだら良いかも判然としない、そんな曖昧な語句など、この人形は持つことさえないのかもしれない。
だからユーグはそれ以上、何一つ言うことなくただ、どこからか聞こえるかすかな駆動音と、きつく香る硝煙に身をゆだねて夕陽を眺める。腕の中の人形は、四肢がちぎれもしなければ、首がもげもせぬままに、大人しく、飛行船の到着を待っている。……ユーグは何よりもそれを喜ぶべきだった。何人何十人、人を殺し、新たな罪を背負い込んだとて、その代償にこの時間があるならば、欣然と地獄へ赴くことができる。
「――お互い、怪我が少なくて良かったな」
ぽつりと呟けば、少し考え込んだのち、「肯定」と素直にトレスは頷いた。きっと、機械の故障は「怪我」とは言わないのだ、と主張しようとしたのだろう。それを引っ込める程度には、トレスはユーグの疲労度を考慮しているようだった。
東の空は既に、眠りにいざなうような深い濃青に染まりつつあるのだろう。だがユーグはそちらを振り向かず、ただ、凪いだ海を凪いだ心地で物悲しく見つめていた。かつて、5000年ほど前にもやはり、この地でこうして海を見つめ、彼方の常世国に想いを馳せた人たちがいたのだろう。顧みて此岸の、憂世のままならなさに囚われて、今のユーグのように疲れ果てた、穏やかな眼差しで誰かを抱いて。
太陽が海へその身を横たえ、海面は打ち沈んだ藍から黒へと褪せていく。
「――今何時だ?」
腕に収まった埃っぽい身体、その肩の留め具を指で弄いながら、ユーグは夕陽を見つめたまま尋ねる。
やはり一秒の遅滞もなく、トレスははっきりと答えを返した。


「20:38」


「……2分も過ぎてるじゃないか」
眼前の太陽は、三分の一ほどは隠れたようだが、まだとても没したとはいえない。
後ろからトレスの横顔を覗き込んだユーグを、振り返ろうとはせず、乾ききった機械音声でトレスは答えた。
「日没予定時刻の定義は、太陽の中心線が地平に沈む時間であって、太陽がすべて沈む時間ではない」
「……それは知らなかったが……けどな神父トレス、」
「補足する。地平近くを視認する際は、光の屈折により錯覚が発生する。卿が現在見ている太陽は、実際にはすでに沈んでいるものだ」
ユーグは眉を寄せ、理解できたとは言えない途中経過を脳裏から消去した。結果だけを反芻する。
「……つまり、もう太陽は沈んでいる……ということだな?」
「肯定」
愛想のない声で答えて、それきりまたトレスは黙り込む。
しばらくトレスの言葉を待っていたユーグは、やがて恐る恐るといった様子で、トレスを抱く腕に力を込めた。
「……で、その……俺はまだ、ここにいていいのか……?」
「現在の卿に太陽は視認できるか?」
ユーグは海面に目をやる。太陽は、薄いレンズのように、海面に張りついている所だった。既に、辺りには闇が忍び寄りはじめていた。
「見える」
祈るような思いでそう答える。
「見える……ような気がする……あと2分ぐらいは……」
「了解した。120秒間この体勢を保持する」
それきりトレスは、また、大人しく黙り込んだ。
その機械の眼差しに、海の果てはどう映っているのだろう。すでに太陽は海面に判別しがたく、ただ、その残照がほのかに海面を照らしているだけにすぎないというのに。
ユーグは黙って、トレスの肩に顔を埋め、固く瞳を閉じる。そして、生身の人間なら息をつまらせるほどの力で、腕の中の人形を抱きしめた。


心を持たぬはずの存在がくれた、奇跡のように優しい120秒――その間ずっと、ユーグの閉ざされた目蓋の裏には、夕陽の残光が張りついていた。それは視界の闇の中で、太陽がとっくに沈んでなお、太陽そのものであるかのように、眼を射るような赤でユーグを照らしつづけた。


いつかユーグが生に倦み剣に負ける、その瞬間に――視界を覆い尽くすであろう彼自身の鮮血のような、激しく、そして悲しい赤であった。