――だから無理だと言ったのだ。
パチリと、まどろみの余韻もないはっきりした翠の瞳に見開かれ、貫かれてトレス・イクスは心中にそう呻いた。それは限りなく、愚痴に近い感想だった。そしてその機械らしからぬ慨嘆は、1800秒前の彼の記憶を再生すれば、実に無理からぬことなのだった……
実直にパイプを捻りながら、教授がスーツハンガーから取り出した衣装一式を見て、トレス・イクスは一瞬、己の腰の後ろに手を回した。愛銃ジェリコを抜き撃ちしかけて思いとどまる。ここは教授の実験室だ。迂闊に発砲した場合、謎の紳士セキュリティが発動して、気がつけば逆さ釣りなどという事態を招きかねない。
代わりにトレスは、無表情にしては奇跡的に、その全身に抗議を込めて、眼前の紳士を睨みつけた。
「そう怖い顔をするものじゃないよ……ああ、君のその顔は生まれつきだったか」
「悪びれる」という言葉は、ウィリアム・ウォルター・ワーズワース博士の無駄に分厚い辞書から欠け落ちているのかもしれない。手に掲げたもの――上等な真紅のウール地のコートを、教授はトレスに向けて振ってみせた。
「何度も言うがね、イクス神父。この任務は君にしかできない――君に不可能なら、他のどの派遣執行官にも不可能なことなんだ」
「否定」
いや。と言い張られたに等しい、一言のみの即答。のみならずトレスは、わずかその服を避けて後ずさるような仕草さえ見せた。
それはコートと言うより、裏キルト地の上下スーツの一そろいだった。ダブルのボタンはウサギの皮らしき真っ白なファーでくるまれており、襟ぐりや袖、ズボンの裾なども同素材であたたかく覆ってあった。
そして、机の上に安置された、そのスーツ専用の、やわらかなウールの帽子。……白い「ぼんぼり」のついた、とんがり帽子……
その服装が「誰」のものであるか、いくらトレスでも知らぬはずはない。
「『サンタクロース』は聖人だが、現在流布している『聖誕祭の前夜に贈与物を配布する』という伝説は虚偽だ。ヴァトー神父には真実を告げることを勧告する」
「では君は、ユーグの信仰を無にしてしまうつもりかね? ショックでまた背命行為に走るかもしれないよ。いや自傷行為かな」
スーツを眺め、教授は器用に、パイプをくわえたまま唇の端から溜息をもらす。
「今頃彼は、聖夜なのに逢ってもくれないつれない恋――いや同僚にすっかり気落ちして、自室で不貞寝しているだろう。そこに追い討ちをかけるのかね。朝起きてプレゼントがなかったら、さぞやがっかりするだろう。ましてや『サンタクロースはいない』などと……」
嘆く顔が思い浮かぶねぇ、などとスーツに向けてかきくどく教授から、トレスは視線を外す。確かに、ユーグ・ド・ヴァトーは精神的に不安定な個体だ。だが、そこまで甘やかしてもいられないではないか……
「……仕方ない。シスター・モニカに頼むとしようか。彼女なら壁を抜けてこっそり『サンタクロース』を演じることができるだろうからねぇ。だがどんな不埒な悪戯をすることやら……」
「否定!」
「おや、ではやはり君が引き受けてくれるんだろうね?」
己の咄嗟の発言にフリーズしたトレスが我に返ってみれば、眼前には真っ赤なスーツと、眼を輝かせた紳士が迫って逃げ場を奪っていた。
枕元に手を伸ばしたままフリーズしているトレス・イクスを、稀有なる翠の瞳の持ち主はじっと見上げている。どこか昏さをたたえたその眼差しは、だが、寝起きの今は純粋に透徹だった。
教授に持たされた「プレゼント」を、枕元に置き去りにして、気の毒な機械化歩兵はそろそろと手を引く。無言で見つめ合ったまま、どこかぎこちなく一歩後ずさった時、無邪気に不思議そうな声で、ユーグははっきりと呼びかけた。
「神父トレス?」
「否定」
嫌がらずにあのつけひげもつけておくべきだった。そう心底悔やみながら、派遣執行官"ガンスリンガー"は任務の失敗を悟る。それでも己の正体を咄嗟に否定したのは、サンタクロースのコスチュームをさせられた己の現状の無様さよりもまず、「ユーグの夢を壊してはいけないのだ」と、トレスが愚直にも信じ込んでいたためであった。
困惑したように、横たわったままユーグは翠の眼差しを上下させ、やがて、ようやく正しい答えにたどり着く。
「ええと、サンタクロース……なのかな?」
「肯定」
本当にそれでいいのだろうか。そう思わないでもなかったが、トレスはユーグの出した答えに飛びついた。
「その……サンタクロースが、俺に何をしに来てくれたんだろう? 俺はもう子供じゃ……」
言いかけてユーグはようやく、枕元の物体に気づいて沈黙した。さぁ任務は果たしたのだから撤退しよう、とトレスがくるりと背を向ければ、
「ト……サ、サンタクロース、ちょっと待ってくれないか」
と、やや慌てたようにユーグは声をかけてくる。
「……用件の入力を」
機械なりに最大限に気の進まぬ様子で、それでも実直な人形が振り返れば、ユーグは上半身を起こして、サイドテーブルのミネラルウォーターを手に取ったところだった。頭をはっきりさせたいのだろう、瓶を傾けて一口飲む。
瓶を元通りテーブルに置いて、ユーグは小柄で若すぎるサンタクロースを、今度は遠慮なく鑑賞した。
「……用件がないのなら」
「いや、ある。あるからもう少し傍に来てくれないか。サンタクロースを間近に見るのは初めてなんだ」
無闇に甘い声で誘われて、トレスは素直に枕元に戻る。そして「用件の入力を」と繰り返した。
「うん、それが……俺にはとても愛している人がいるんだ。本人は機械だと言い張るんだが」
「……」
俺は機械だ。そう言おうとして、トレスは今の自分が「トレス・イクス」ではなく「サンタクロース」なのだと思い出した。際どいところで沈黙したサンタクロースに、ユーグはあでやかに微笑みかける。それはまさしく相手を愛しい人だと見做している以外の、何物でもない笑顔だったが、トレスはそれには気づかなかった。
「俺にとって彼はとても大切な人で……今日も彼と一緒に、神への感謝を捧げたかったんだが、俺は明日早朝から任務でな? 今日は早く寝ないといけないからって、彼は逢ってもくれずに俺を部屋に押し込めたんだ」
「その人物の行動は正しい」
トレスは断言した。近場での任務だから、列車の中で眠るようなことはできない。「就寝を推奨する」とユーグを部屋に無慈悲に追いやったのは、他ならぬトレスだった。……つまり間接的に、熱烈な愛の告白をされているのだが、この人形はそれについてあまり驚きはしなかった。つまりトレスは、ユーグが愛しているのは自分だと言う確固たる自信がある、ということになるが、己の存外の図太さにも気づいていない。日ごろあれだけ「愛している」と言われ続ければ、麻痺もしてくるものらしかった。
「でも俺は寂しいんだよ、ト……サンタクロース」
何か別の者の名を呼びかけて、ユーグは己の発言を修正した。それを疑う隙もなく、作り物の繊細な手が伸びて、赤い帽子を被ったサンタクロースの、小さな顔、その両頬を包み込む。
「……ユーグ・ド・ヴァトー?」
「君はその人にそっくりだ」
右手の親指がゆっくりと、トレスの滑らかな頬を辿って唇に触れた。
「本当に驚くほど似ているんだ。彼に逢えない寂しさが、思わず癒されてしまうほどだ。だから君が本当にサンタクロースで、俺の欲しいものをくれると言うのなら――」
顔をゆっくりと引き寄せられて、トレスは混乱する。こういうイレギュラーな事態におけるサンタクロースの心得など、教授が教えてくれたはずもない。ただ教授は、「ユーグは『生物』の気配に敏感だからね。攻撃意志のない『機械』である君なら、彼に気づかれずに部屋に侵入できるだろう」などと無責任な推測を立てただけなのだ。
忙しく瞳の奥で演算光を透けさせているトレスが、混乱していると気づいたのか。ユーグはあやすようにそっと頬を撫でながら、それでもその顔を引き寄せることは止めず、そっと、額に唇を触れさせた。
そのまま、息だけでささやく。
「彼の代わりに、俺にキスして――一緒に眠ってくれないか? 俺の大事なサンタクロース君」
サンタクロースなら、『プレゼント』をあげなければいけないのかもしれない。
すでにひとつ、枕元に置いていることは覚えているくせに、トレスの思考はあっさりと、己の生体部品が無意識に望む方向へと傾いた。
どこかふらふらと、一度顔を離して、自分を覗き込む翠の双瞳を見返す。どこか子供のような憧れを瞳に乗せて、穏やかに自分を見ている眼差し。トレスはそれが「サンタクロース」に対するものなのか、それとも「トレス・イクスと同じ顔をした存在」に対するものなのか、判断しかねた。だが『プレゼント』をあげるのはサンタクロースの義務である。
そして義務は執行されるべきだった。
暖房設備のない部屋に、置き去りにされたミネラルウォーターは、きっと冷え切っていたのだろう。水ですすがれ、清められたユーグの唇は冷たかった。
敬虔に瞳を閉じ、優雅にカーブしたその白金の睫毛をふるりと震わせたユーグの顔から、そろそろと距離をとる。
「……ありがとう」
わずかに発光しているのではないかと疑われるほど、純度の高い翠の瞳は再び顕わとなり、低い声が礼の言葉をそっと囁いた。
「礼は不要だ。俺は義務を果たしたに過ぎない。それより就寝を推奨する」
「一緒に眠ってくれるんだろう?」
「……」
サンタクロースとはそんなことまでサービスするものなのだろうか。そもそも普通は、次の『プレゼント』の贈与先に向かうべきものではないのだろうか。
だが、
「……俺は、あの可愛い人に振られた挙句にサンタクロースにまで振られるんだろうか? この聖夜に?」
やけに物悲しげにつぶやいたユーグの一言が、トレスの意思を不本意ながら決定した。
「場所を空けろ」
皮下装甲フル装備の時ならともかく、担いだ袋にジェリコを隠しているだけの現在なら、トレスの体重はせいぜいが140キロ程度といったところだ。スプリングを入れていない、頑丈なユーグのベッドなら、暴れなければ耐えてくれるということは既に知っていた。
いそいそと隅に寄ったユーグがめくってくれた布団に、行儀良くブーツを脱いで上がりこむ。「帽子も取るんだよ」と優しく伸ばされた手を拒否するべきか迷う間に、帽子は取られて顔を露わにされていた。明らかにトレス・イクスな顔をちらりと見て、だが、ユーグは別段の感想を述べはしなかった。
「どうぞ」
ぽんぽん、と枕を叩かれる。だがトレスは枕ではなく、枕のすぐ斜め下に頭を置いて横たわった。そうすると、枕に頭を置いたユーグが、楽にトレスの顔を覗き込めて喜ぶのだ。
「ありがとう……俺のことを何でも知ってるんだな」
咽喉の奥で笑いながらユーグがまたも、そう律儀に礼を言う。そしてトレスの意図した通りに、枕に頭を乗せ、すぐ下のサンタクロースの頭をいとおしむように、ほお擦りした。
眠りに落ちるまでの37分間、ユーグはサンタクロースの赤いコートの上に抱えるように腕を載せ、途絶えがちに話をして聞かせた。それは大抵、彼の想い人だという機械化歩兵の話で、ユーグはその人が如何に実直で、如何に勤勉で、そして如何に仲間思いであるかを熱心に、腕の中のサンタクロースに語るのだった。
俺は機械だとも、俺はそのような個体ではないとも言えないトレスは、ただ、ユーグの言葉を黙って聞いていた。ユーグがどんなにその人形を、同僚として尊敬し、家族として慈しみ、そして、情熱を捧げる相手として愛しているか……眠りに就く前の祈りの時に、この奇跡をどのように神に感謝しているか、トレスはじっと、ユーグの腕の中で聞き入っていた。
そしてユーグは、うたた寝の狭間にうっとりと、サンタクロースの額にもう一度キスをして囁いた。
「最高の贈り物をありがとう、サンタクロース……人に与えてばかりの君にも、何か望みのものが手に入りますように」
望みなどはない。そうトレスは答えようとして、ユーグがやわらかな吐息と共に、意識を手放し始めたことに気づいた。満ち足りた、安らかな寝息だった。きっとサンタクロースの存在を確信したからだろう、とトレスは生真面目に判断した。
ユーグが眠りに落ちた、と判断してトレスはあたうる限り静かに、身体の上の腕を退けた。いくらユーグでも、朝の光の下でこの状況を再確認すれば、隣にいるのがトレスだと認識してしまうに違いない。任務は成功したのだから、速やかに撤退するべきだった。
「ン…」
小さく呻いて、トレスの方に半ば身体をうつむけていたユーグは、丁度良い具合に寝返りを打って仰向けになった。ベッドが軋まぬよう、時間をかけてそろそろと床に降り立ってから、不意にトレスは、ユーグの言葉を脳裏に再生した。
『人に与えてばかりの君にも、何か望みのものが手に入りますように』
「……俺は機械だ」
発声せず、トレスは口の形だけでそう呟く。
その視線が、眠るユーグの顔の上に落ちた。……正確には、その唇に。
ユーグは「サンタクロース」の――正確には「トレスにそっくりなサンタクロース」のキスを望み、トレスはそれを叶えた。
だが別に望みを叶えるのは一度だけでないといけない、などということはないだろう。
自分がなぜそんなことを唐突に思ったか、その疑問からは故意に意識を逸らし、トレスは眠るユーグの唇に、ためらいなく唇を寄せる。
そして触れるだけのくちづけを与え、ゆっくり顔を離した。
『何か望みのものが手に入りますように』
「……肯定」
ささやかに、だがなぜかひどく満たされて、トレスは物音を立てまいと、指先でブーツをつまみあげた。
裸足のままぺたぺたと、扉に向かって歩み寄る。扉の向こうでブーツを履くつもりらしく、開いた扉の向こうにブーツを立てておき、一瞬、ユーグの様子を見守るように振り返った。
「『良い夢を』」
かつて教わったその挨拶を、平板な声で、低く告げる。
そして軋むドアを、奇跡的に静かに――閉めた。
扉が閉まり、しばらくして重い足音が規則正しく遠ざかるその音を聞きながら、ユーグはゆっくりと瞳を開いた。
視線を横に振り、扉を見つめ、ふと己の枕元――置かれたままの、リボンをかけられた小さな宝石箱に気づく。
片手でリボンを解き、壊れ物を扱うようにそっと開くと、中に入っていたのは、折りたたまれたメモと、そこに書かれた簡素な一文だけだった。
――良いクリスマスだったかね?――
「――とても」
横たわったまま、右手でそっと、メモをつまんで取り上げる。
あの唇と同じ者に整えられた、その作り物の右手を眼の前に掲げ、やがて神に祈るように、己の唇へと押し当てた。
「とても、師匠、とても……」
優しい二つのキスと、それをこの部屋に送り届けてくれた人。
二人のサンタクロースにユーグは、再び眠りに落ちる一瞬まで、そのままの姿勢で敬虔に感謝し続けた。