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器具の並べられた訓練室の片隅、黙々と汗を流しているのは、きつい眼差しから翳りの拭えぬ“ソードダンサー”だ。先ほどから、数を忘れ果ててなお、己の身体を虐めるように、機械的にユーグは腹筋を繰り返している。裸の上半身を汗が伝い、板張りの床で脚が滑ったが、苛立ったように舌打ちを一つしただけで、彼は身を拭いもせず、今度は倒立腕立てをはじめようと、身を起こした。 だが立ち上がる前に、その昏い眼差しは扉へと向けられる。 彼の眼差しを引きつけたのは、通常人用の訓練室では滅多に見かけない、小柄な派遣執行官の姿だった。 その重量から、訓練器具を破壊しかねない機械化歩兵――“ガンスリンガー”トレス・イクスが、戸口に佇んだまま、無機的な眼差しをユーグに向けている。 しばし、室内をただ、低い空調の音だけが満たした。 「――何の用だ? “ガンスリンガー”」 「訓練プログラムの遂行中であれば、それを優先することを推奨する、“ソードダンサー”」 「……別にいいさ」 なぜか立ち上がる気になれず、ユーグはぐったりと、座り込んだその膝に顔を埋める。その背にタオルを投げ、トレスはじっと、ユーグを眺めていた。 「“ガンスリンガー”。……『用件の入力を』、とでも言われないとわからないか?」 背からタオルをとり、それでも身体を拭いながら、苛立ったようにユーグは顔を上げる。 「否定。卿の主張は理解しているつもりだ」 「ならさっさと言いたいことを言うんだ。どうせその左腕の話だろう。俺を責めたいなら責めればいいさ。大体起きていて平気なのか」 トレスの僧衣の左袖は、まだ、実体を持ってはいない。邪魔にならぬよう、結んで留めてあるその袖を顎で指して、ユーグは立て続けに言葉を投げつけトレスを睨む。 「問題ない。卿がその件で何らかの懸念あるいは謝罪の意志を抱いているのであれば、」 「抱いていない。人形に心情を推測されるのは不愉快だ!」 叩きつけるように相手の言葉を打ち消し、直後、ユーグは己の発言に息を呑んだ。 トレスの眼差しは変わらない。ユーグをかばったときと同じように、冷ややかに彼を見下ろしている。だが、その瞳の奥で何らかの、忸怩たる想いが渦巻いていないという保証はどこにもなかった。 「――了解した」 「違う、イクス神父、」 「やはり俺は卿との共同作戦に向かないようだ。ミラノ公に報告しておく」 「違うんだ“ガンスリンガー”――」 音もなく跳ね起きて、ユーグはトレスの腕を掴み、だが、弾かれたようにその手を放した。 背筋を何かに這い登られるような悪寒に襲われ、きつく瞳を閉じる。 「“ソードダンサー”?」 「――畜生……ッ」 端麗な美貌には似合わぬ罵声を吐いて、痙攣する両手を何とか押さえ込もうと、ユーグはとっさに身体を折った。 この両手さえ無事に動けば――いや、悪いのは両手ではない。同じように「教授」が作ったハヴェルの義体も、トレスの義体も、正常に稼動して何の不安もない。ただひとり、ユーグだけがこうして義手を受け入れられず、しつこく拒絶反応を起こしつづけているのだ。 「――くそっ……静まれ!」 苛立ちに、傍らのバーベルに腕を叩きつけようと手を振り上げる。だが、その肘を、即座に伸びたトレスの右腕がしっかりと押さえつけていた。 「何をッ――」 驚いてユーグが身を退くも、暴れる片手を押さえたまま、トレスはユーグのすぐ目前に立つ。ユーグの視線の先、息を吹きかければ、相手の睫毛が揺れるのではないかと思えるほど近く……眼前に端正な顔はあって、眼を伏せ、じっとユーグの左腕を見つめていた。 「……神父トレス」 「義体が拒絶反応を起こした際に、強い衝撃を与えるのは逆効果だ。今は戦闘中ではない。このまま安静にすることを推奨する。――右腕も」 左腕を持たぬトレスには、ユーグの右腕を掴むことができない。だらりと下げられて痙攣しているユーグの右腕に、トレスは視線を投げかけたようだった。 それきりトレスは黙り込み、ユーグもかける言葉を失い、訓練室に沈黙が満ちる。 どんな言葉をかければ良いというのだろう。何を言ったとて、最後にその言葉に突き刺されてのた打ち回るのは自分なのに。 誰を後ろに庇っていたとて、当たり前のように己をモノ扱いし、当たり前のように己の身を投げ出し、そして当たり前のように壊れて転がるあの人形。目が合ったあの瞬間、自分でも理解できぬ怒りが奔騰し、ユーグを支配した。 だが、庇われて腹を立てるぐらいなら、ユーグが強くなれば良いだけの話だ。庇われずともすむように。たとえば“ノーフェイス”が、そう在るように…… 痙攣は治まりつつある。だがトレスは黙ったまま、完全に痙攣が止むまで、掴んだ肘を放そうとはしない。あまりにも静かな空気に胸が痛んで、ユーグは唇を噛み、眼を伏せた。 眼を伏せても、身長差のあるトレスの目線は、ユーグの顔をしっかりと目撃してしまう。 「――義手が痛むのか?」 感情のこもらぬままの声で、それでも問われ、ユーグは何かを言いかけて言葉にならず、声を呑んだ。 「ヴァトー神父? “プロフェッサー”に連絡を――」 「――このままでいい」 己への嫌悪感に打ちのめされながら、片腕を人形の手にゆだねたまま、トレスの左肩に額を押しつける。己が斬った、腕の付け根から先が喪われてしまったその左肩に。 たとえばアベルがそうするように、己を機械と必死に規定するこの幼い人形を、そのままいかにも機械扱いしてやって、その実、優しく慈しみ甘やかしてやれたなら。たとえば教授がするように、人形が気づかぬうちにそっと思考回路を捻じ曲げて、自然と彼に翻意させることができたなら。 だがユーグはアベルではなく、ヴァーツラフでもなく、そして彼の剣の師匠でもない。何度こうして嫌悪し反省しても、結局はこの人形に己の理不尽な怒りと憤りをぶつけ、また、その機体を損なわせる日が来るに決まっているのだ。 ――強くなるしかない。 痙攣が止まった手から、トレスの手が静かに離れ、その代わり、倒れられることを懸念するように背に手が回される。それを感じ取りながら、ユーグは心中に呻いた。 ――強く……あの人たちのように、強くなるしかないんだ。 「強さ」とは何なのか、それも語れぬままにその一語だけを呪文のように、心に繰り返す。 トレスもユーグも、きっと、変わることなどできはしない。トレスはプログラムされた通りに、ユーグを庇いつづけるだろう。そしてユーグはその度、説明できない憤りに身を狂わせるだろう。 ユーグには、トレスが庇う隙もないほどに強くなるしか、策が残されていないのだ。 「ヴァトー神父」 言葉にし難い煩悶を、ユーグが抱いていると、理解はできずとも推測はできたのだろう。トレスはユーグを抱きとめ、前方をうつろに眺めたままでその名を呼ぶ。 「ヴァトー神父。……俺は卿との共同作戦に適していないか? ミラノ公に進言した方が良いのか?」 無粋な別れ話を、無機的に切り出されてユーグは瞳を閉じ、苦笑した。トレスが進言せずとも現状のままでは、ミラノ公が可愛い人形を、危害を加えかねない味方にくっつけて送り出すはずもない。そして、それが――互いに別々の道を歩み続けることが、一番いい方法であることも確かなのだ。 だが、 「……どうせ俺は、誰と組んだって似たようなことをしでかすさ」 トレスの方に顔を押しつけることで表情を隠したまま、ユーグは感情を抑えた声でさらりと嘘をついた。 「だったら、……壊れても修復可能な君と組む方が、まだ被害が少なくてすむだろう?」 ユーグ自身にも理解できない、ほの昏い感情が彼に嘘をつかせつづける。 たとえ最善の策がどうであろうと……たとえこの人形に一方的な鬱屈を抱えつづけることになろうとも。 なぜか、トレス・イクスと二度と組めなくなるのは、……それだけは、絶対に嫌だった。 執務室を出て歩く“ソードダンサー”の足音は、まるで猫の如く、しなやかな無音を保っている。その傍ら、並ぶ“ガンスリンガー”の足音は、対照的に、ひどく重々しく廊下に響いた。 不意に無音の歩みを生むその脚が、ぴたりとその場に立ち止まる。 「“ソードダンサー”?」 一歩先で同じく、重い足音が消え、機械の眼差しが振り向き様に同僚を見上げる。 うち沈んだ翠の瞳に見返され、瞬かぬ瞳はひたと相手に据えられたまま、再び名を呼んで促した。 「ヴァトー神父。出立まで600秒を切っている。可及的速やかな移動を推奨する」 「わかってる」 低い声で答え、剣士は殺戮生むその右手を伸ばして、同僚たる人形の左手をとった。 「ヴァトー神父、“アイアンメイデン”を待たせている。搭乗を――」 一ヶ月前には存在しなかった、その左手を無関心に預けたまま、遅滞を責める人形の言葉が、ふと、途切れた。 捕らわれた手が持ち上げられ、金の滝に縁取られた蒼白い頬に、静かに押し当てられている。 「……ヴァトー神父」 薄い金の睫毛が伏せられ震えている様を視覚で、ほっそりと尖った顎や頬の熱を触覚で、感じ取りながら“ガンスリンガー”はもう一度だけ、名を呼んだ。 なんでもない、と呟いた唇が、銃把握る為に作られた手へと――手袋にも僧衣にも隠れずわずかに覗くその手首へと、押し当てられる。 唇から漏れる息と、ちらり、と這った舌が、作り物の皮膚をかすかに湿らせた。 「そう、何でもないんだ。ただ……」 「ただ、今日は斬らずにすむようにと、主に祈っただけだよ、“ガンスリンガー”」 トレスの視線が、眼前の僧衣の胸、剣をかたどったその十字架に落ちかかる。 その視線を戻して再び見上げた時、既にユーグは手を離し、背を向けて歩き始めていた。 |