偽の手の癒し



ユーグの意識を眠りの園から引き上げたのは、廊下を渡る重々しい足音だった。メトロノーム以上の正確さで一定のリズムを刻む、その音に、ユーグはうとうとと聞き入った。
足音が、病室の扉の前で止まる。
「……神父トレス……か?」
「肯定」
ドアが開く音と、返答は同時だった。完全には覚醒せぬ視界の先に、いかな生命の危機に遭っても変わることのない端正な容貌はあって、ユーグを観察するように見つめていた。
「――怪我はしていないようだな?」
それは、ユーグがトレスに言う言葉ではなく、トレスがユーグに言うべき言葉なのかもしれない。だが、派遣執行官たちは皆、この小柄な殺人人形にそう挨拶するのだった。「で、怪我はどこだね、神父トレス?」「またぶっ壊れたそうじゃねえか、拳銃屋」――常に壊れるまで戦う人形であるがゆえに、同僚たちは、そんな哀しい習慣に染まってしまったのだ。
「肯定。俺は卿とは違う。部品されあれば修復は比較的たやすい」
そう返すトレスの、かっちりと襟まで詰められた僧衣の下、驚異的な破壊力を秘めたその身体。そのうち何割が、ユーグが最後に逢った時のボディのまま残っているのだろうか。
「卿の術後経過については、すでに医師より報告を受領済みだ。何か不自由があるなら報告を」
「……それを聞きに来たのか? わざわざ、君が……?」
身体を起こすことができない己をもどかしく思いながら、ユーグは寝返りを打って、傍らに佇むトレスを見上げようとした。だが、機械化歩兵の力強い腕が伸び、動こうとするユーグをやんわり押さえる。
「卿は絶対安静を命じられている。今は傷を治すのが卿の任務だ」
そう釘を刺してから、感情の浮かばない作り物の瞳が、ユーグをやや覗き込むようにして眺めやった。
「卿の様子を直接に確認するよう、ワーズワース博士から要請を受けた。これはミラノ公の命令でもある」
「師匠が……?」
「ワーズワース博士は、卿の健康を懸念していた」
感情のすべてを、パイプの煙の向こうに韜晦してしまう、彼の剣の師匠――その姿をユーグは思い浮かべた。途端、刻まれた胸の痛みは、怪我によるものだけではなかっただろう。嘆息し、ユーグは低い声で答えた。
「――すまない。ご心配には及ばない、とお伝えしてくれ」
「了解」
感傷を持たぬ機械化歩兵は、無機的にそう頷いてから、「何か不自由は」と再び繰り返した。
だが、ユーグはその言葉を聞いていなかった。彼は、師匠の心痛の原因にもうひとつ、心当たりがあった。役に立たぬ弟子がベッドに転がっている間に、起こってしまったひとつの死――
――これ以上、同僚が死ぬのはご免だよ、ユーグ。
パイプに火を入れる仕草で表情を隠し、そうそっけなく言う師匠の姿が、思い浮かぶかのようだった。
「ヴァトー神父?」
名を呼ばれて我に返る。ターゲットを捕捉するためだけに存在する眼が、ユーグをじっと見返していた。
「――……ああ、すまない」
この、愚かなほどに自愛せぬ人形もまた、教授の心を痛める一因ではあるのだろう。
だが、彼がそれに気づくことは、生涯ありえない。
「繰り返す。不自由があるなら、報告を」
「不自由っていうほどのことじゃないんだが……」
ユーグは苦笑しながら答えた。こんなことを言っても、この機械人形には理解してもらえないだろう、ささやかな不遇――逆に、その程度の小さな不満を言っておけば、教授は安心するかもしれない。
「身体を――特に髪を洗えないのが、少し困るな。本気で、ばっさり切ろうかと考えているんだ」
レオンが聞けば「我慢しろや」の一言ですませるような不満だが、トレスは黙って、ユーグの首の後ろに手を差し込んだ。軽く重さと手触りを確かめてから、彼にしては長い時間――3秒ほど考え込む。
「ボディの衛生状態が気になる、ということだな?」
「まぁ……機械的に言えば、そうなんだろうな」
曖昧に頷くユーグの毛布を、突如無遠慮に剥いで、トレスは同僚の全身を走査した。
「おい、神父トレス――」
無様な寝間着姿を見られるのは、自業自得だと諦めるとしても、そうじろじろと眺められると居心地が悪い。横たわったままのユーグが抗議の声を上げても、それに押し被せるように、トレスは冷たく言葉を継ぐ。
「当該施設の看護状況を確認してはおくが、看護側の人的物量に限りがある。卿の希望は全面的に受諾されるわけではないことを勧告しておく」
「いや、勿論それは承知の上だ」
まさかレオンではあるまいし、「毎日美人の看護婦に身体を拭いてもらいたい」などという要望があるはずもない。むしろ、なぜかやたら自分の世話を焼きたがる看護婦が多くて、迷惑しているほどなのだ。
謙虚なユーグの申し出に、了解の意を示してひとつ頷いたトレスが、謹直に話を続ける。
「だが本日に限って言えば、卿の要求を叶えることは可能だ」
「……なに?」
「俺がこの病院を出立するまで、12700秒の猶予がある。卿の全身を洗浄する程度のロスは問題ない」
「洗浄?」
おかしな単語を聞いたような気がしてユーグは聞き返し、しばらく眉をひそめて考え込んだのち、やや警戒するような眼差しを相手に向ける。
「……まさか君が、俺の髪を洗うつもりか?」
「不都合があるなら、理由の入力を」
「不都合も何も――君に洗えるのか?」
洗浄ポッドで丸洗いの機械化歩兵に、ウェーブがかかった長髪など扱えるものだろうか。大惨事を想像したユーグに、気を悪くした様子もなく――悪くする「気」自体が存在しないのかもしれないが――、トレスは返す。
「一般的な看護方法は習得している。後は卿自身が、俺に指示すれば良いだろう」
「……俺の髪を破壊するなよ?」
そう言ってユーグは眉をひそめたまま、トレスを見つめ――髪を括った紐を、不自由な指先でするりと解いた。


「ああ……生き返るようだ」
「肯定。一週間前まで、卿は生死の境をさまよっていた」
「そういう意味じゃないんだが……まぁいい」
うっとりと小さな欠伸をして、ユーグはそのまま瞳を閉じた。
先ほどから、廊下を通る人間が、やけに部屋を間違った振りをして病室を覗き込んでくる。
無理もない。トレスは借りてきたバケツ四つにしっかり湯を張って、まるで買い物篭のように軽々とそれを両腕にかけ、そのまま病室に持ち込んだのである。
小柄な神父にはありえない荒業に、見物人ぐらい出ても不思議はない。しかも、小脇に洗面器とスタンドまで抱えているとあっては。
最初のうちこそ、衆目に晒されて気恥ずかしさを覚えていたものの、今やユーグはすっかり開き直って状況を楽しんでいた。最強の機械化歩兵たるHCシリーズに、髪を洗ってもらったなど、世界広しと言えどもおそらく彼ひとりだろう。開き直ったついでに、既に髭まであたってもらっている。
天板を取り外し、洗面器に向かってだらりと預けられたユーグの頭から、肩にかけて片手でしっかり支えたまま、トレスは片手でユーグの髪に手を差し入れる。くすぐったさに喉の奥で笑って、ユーグはこの奇跡のような僥倖をふんだんに味わった。
あの髭を剃って差し上げたい、とか、あの髪を結って差し上げたい、などと密かに熱望していた看護婦が掃いて捨てるほどいることなど、ユーグは知らない。たとえ、知っていたとしても許さなかっただろう。特に、心許さぬ相手に刃物を持って近づかれるなど、恐怖以外の何者でもない。
赤子のように身を任せたまま、ユーグは髪をくすぐられていたが、やがて低く囁いた。
「ハヴェル神父のことを聞いた……」
トレスの手は、汚れた湯を替える作業を止めはしなかった。
「彼を殺したのは君か?」
あまりに直接的な問いに、だが、頭を支える手は揺るがない。普段と変わることのない機械音声が、二言だけの答えを返した。
「否定。異端審問官だ」
「そうか」
ふ、と吐息をついて、瞳を閉じたままかすかに、ユーグはつぶやいた。
「良かった。……それだけでも、救われる」
「発言の意図が不明だ、ヴァトー神父。俺はヴァーツラフ・ハヴェルを抹消するよう命じられていた。オーダーの不達成は、『良かった』とは表現できない」
よどみない問いに、ユーグはゆるゆると瞳を開く。眠気を誘うような水音と、頭を包む熱と、降ってくる機械音声。
「俺の時も、アベルの時も、そうだったが……」
少し焦点のぼやけはじめた、その宝玉のような緑の瞳でユーグはトレスを見上げた。
「……俺達がミラノ公の命令に背いた時、差し向けられるのはいつも君だ。君はもっともためらわず――そして決して、ミラノ公に背かないからだ」
「肯定。俺は機械だ。その特性を考慮すれば、裏切者の抹消命令が俺に下るのは正しい」
ユーグの頭を慎重に扱いながら、トレスはにべなくそう断言する。それを聞いたユーグの口元に、かすかに、ものさびしい微笑が湧いた。
「そうかもな……だが、俺は……良かったと思う。ハヴェル神父を殺したのが君ではないということも、君がこうして、俺の髪を洗える程度には無事だったということも、だ……俺個人がそう考えることに、君も異論はないだろう」
「――……肯定」
トレスが答えるまでには、かすかな沈黙があった。
アベルもユーグも、任務のたびに己の望みや感情に振り回され、独断専行を繰り返し……そうしてその度に、ひとりミラノ公に忠実に従い続けるトレスへと、重い荷物をのしかける。特にユーグは、トレスがそうしてくれることを、期待しているような一面さえ抱いている。つくづく馬鹿で勝手な男だ、と自分自身を哂いながら、ユーグは地肌を撫でていくトレスの指先に、こめかみを摺り寄せ、彼を斜めに見上げた。
比較的に自由に動く左手を伸ばし……逆さまに自分を覗き込むトレスの、その頬をそっと撫でる。
トレスの手が止まった。
「あの日」――ユーグが一度死に、そして生まれ変わったあの日。薄れゆく視界の中で、それでも見えた、彼を支えるこの人形の手を、覗き込む顔を、見つめる眼の奥を、ユーグは生涯忘れることはないだろう。
かつては豊かな情感を持っていたのであろう――今は、それをすべて機械の力で抑え込んでいるのであろう、この、破壊のために作られた人形。
ソードダンサーに、クルースニクに、そして――ノー・フェイスに。銃を向けた時に、この人形の制御機構をぎしぎし突き上げて出口を求め、悲鳴を上げていたはずの、生まれる前に潰される感情の奔流を……この人形は、覚えていることすら許されないのだ。
「ヴァトー神父?」
その声に焦燥とも、不安ともつかぬ薄い靄が漂ったように聞こえたのは……ユーグの思い過ごしだっただろうか。
それを確かめたくて、もっと近くで顔を見よう――と、左手に力を込め、相手の頭を引き寄せかけて激痛が走る。
「く――」
「動くな、ソードダンサー」
厳しい声で戒めた時のトレスは、既に揺るぎないガンスリンガーだった。
「平気だ……この程度……」
所詮、体の痛みが精神の傷みに勝ることはない。
子供が母の服の裾を掴むように、トレスの僧服の肩を掴んでいたユーグは、甘えるように、その手をトレスの胸から腹へとすべらせた。ほんのかすか、人形の無表情な眼が見開かれたのは、今度こそ気のせいではない。
「君に言いたいことが……たくさんある」
トレスの腰の辺りを掴んで身体を支え、わずか、ユーグは身を伸び上がらせた。
「動くな。髪を洗いにくい」
「返したい恩も……増えるばかりだ」
「ヴァトー神父。安静に――」
「俺の傷が完治するまで、死なないでくれ。
 こんな無様な姿のままじゃ、君を助けにすら行けない……」


真っ向勝負の――愚か者しか口に出せない、正面突破の言葉が迫る。
機械に死はない、ただ壊れるだけだ――と、常の通り、冷たい声でトレスは言うべきだった。
だが彼はなぜか、しばし無言でユーグを見返し……


「――確答は不可能だ、ヴァトー神父」
そう言って、ふさがって泡まみれの両手ではなく、肘を使ってゆっくりと、腰を掴むユーグの手を外させた。
「俺はミラノ公の銃だ。壊れるべき時には――壊れる」
ユーグは大人しく手を外し、そのまま瞳を閉じてベッドに沈み込んだ。重い疲労感が、全身を襲う。それでも、トレスが彼に与えた答えは、彼が予想していた答えよりもはるかに、……はるかに、優しいものであった。
「眼を閉じていろ。洗剤を流す」
何事もなかったかのような、乾いた声がそう告げる。
感情が存在しないなど、信じられないような繊細な手が、ユーグの髪を梳き、湯に浸した。
「この際、身体も拭いてもらおうか」
言われるがままに瞳を閉じたのちの、沈黙がつらくて、小さく笑いに紛れさせた声をユーグは出す。
「要請を受けた時から、そのつもりだ」
動じぬ機械化歩兵はあっさりと答え、静かに、ユーグの頬に跳ねた泡を指先で拭った。


服を脱がせ、丁寧に患者の身体を撫でていくトレスの、その髪から肩にかけてを手慰みに撫でたまま、ユーグは何を言われても、その左手を離そうとはしなかった。数度の警告ののち、相手が病人であることを鑑みたのか、トレスもそれきり何も言わず、白い義手が彼の身体を慈しむままに、放置した。
少しずつ、小柄な僧衣のラインをたどる手つきが、弱く、頼りないものに変わっていく。
「……ヴァトー神父?」
ぱたりと落ちたその手をとっさに受け止め、寝台の上に乗せてやりながら、トレスは低くその名を呼ぶ。
まどろむユーグは、一瞬、野の獣がするようにぴくりと身を震わせた。
もう一度……起こしてしまうと知りながら、トレスの唇が開き、その名を呼ぼうとする。
だが、その声は形となる前に、彼自身の束縛によって阻まれ……トレスは再び、機械的な正確さでユーグの身体を清めはじめた。


教授がトレスをユーグの元に派遣した、最後のひとつの理由を、二人は知らない。
ただ、ガンスリンガーは珍しく、期限ぎりぎりの時刻にローマへと帰還し――……
ノーフェイスとの戦いに傷ついた義体の、メンテナンスを教授に申請したのだった。







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