「孤独」とは何者の名か
「少し話でもしよう」
そう言って、自室に来るよう誘ったくせに、哨戒を終えたトレスが尋ねて行った時、ユーグは既に眠っていた。壁を見通すトレスの特殊視野は、彼らしき個体がベッドに横たわっていることを確認した。
入室したのは、就寝中であることを確認するためである。ノックをしなかったのは、就寝中なら起こす必要はないだろうと判断したからだった。……しなやかな野の獣のように鋭いあの男は、いかにドアを静かに開けたとて、風のそよぎだけで目を覚ましてしまうのだろうが。
脚部バランサーへと、常より格段に多く容量を割いて歩きながら、トレスは室内の、尋常ならざる様子に気づいた。
……正確には、室内「のベッドに横たわる、僧衣のままのユーグ」の、尋常ならざる様子に。
「……う……」
苦痛を示す、きつく寄せられた眉。掠れた声でうめいて、横たわったままの身体がよじられる。
トレスの義眼に、危惧するような、きついオレンジの光が浮かび上がり、ユーグの身体を走査した。
懸念したような外傷は何一つない。内臓の異常――のようでもない。吐く息に異臭や異音はなく、発熱も見られない。
いくつもの、本来なら戦闘のために使用する視野を駆使してユーグを診立てながら、トレスはベッドの傍らにかがみこんだ。
破損の恐れがあるほどに、ぎしぎしと、ユーグの両手はシーツを掴み、握りしめている。力を抜かせようと、その手を掴んだ瞬間、まるで忌むべき敵の手でも触れたかのように、ユーグは渾身の力でそれを振り払っていた。
「――――アアアアァッ!」
敵を切り裂く時に放つ、あの裂帛の気合。
「ヴァトー神父!」
悪夢を見ているのだ、と、ようやく気づいたトレスが、ユーグの両肩を掴み、強く揺さぶる。
狂気をたたえて見開かれた翠の眼が、ぎらぎらと夜闇に光り、次の敵を探し――トレスの強い眼差しとかち合う。
「ヴァトー!」
「ア、……」
ふ、と正気を取り戻した瞳に、よぎったのは……怯えだった。
「……ア……あぁ……」
吐息のように――だが息を詰めたまま、小さく喘いで、ユーグの両手が、軋みながらシーツから離れる。
震える両手が、最初は緩慢に、だが、徐々に忙しなく、何かを確かめるように、トレスの肩を、腕を、そして頬を這った。
「ヴァトー神父。……何も問題はない。この部屋は安全だ。速やかに就寝を」
声をかけて落ち着かせなければいけない、という程度の知識はトレスにもある。ゆっくりと呼びかけても、ユーグには聞こえないのか、ただ、トレスの両頬を両手で包み込み、怯えたように、……今にも泣き出すかのように、懸命に見つめてくるだけだった。
やがてその手がトレスを引き寄せ、しがみつくようにその身を抱く。
小刻みに震えている、汗まみれの身体を、黙ってトレスは抱き返した。
ラボからの呼び出しです、とケイトに取り次がれ、ユーグは教授の実験室へと赴いた。敬愛する師匠からの呼び出しは、大抵、あまりありがたくない結果を生み出すものであったが、今日に限って、ユーグにはそれがありがたかった。談話室だの、控え室だのにいればもしかしたら、トレスと顔を合わせてしまうかもしれない。昨夜の醜態はあまりに恥ずかしく、ユーグは歩きながら、ひとり、しょんぼりとした溜息をついた。
結局、ユーグは明け方までトレスを抱きしめたまま離そうとせず、内心実に困惑していただろうトレスもまた、ユーグを振りほどかずに、黙って中腰のまま、抱きしめられてくれていたのだ。なのにユーグは、あまりの恥ずかしさに、一度礼を言ったきりそそくさと起き出してしまい……以来18時間に渡って今夜まで、彼と極力、顔を合わせないようにしてきたのだった。
復讐のすべてを終えてなお、悪夢は彼を苛みつづけていた。彼はそれに苦しみこそすれ、決して悩んではいなかった。己の心が、10年分の血と膿を吐き出してようやく、立ち直ろうとしていることを、彼は理解していた。悪夢はその証だった。乗り越えなければならない――だが、乗り越えられないものではないと、彼は信じていた。信じさせてくれる人たちが、今の彼には存在した。
コンコン、と扉を遠慮がちにノックする。
「ン……入りたまえ、ユーグ」
「失礼します」
眠たげな師匠の声にこたえ、流れるような動作で扉を開け――開けて一歩踏み込んだ格好のまま固まる。
「……どうしたのかね、美形台無しの間抜け顔をして」
パイプとあくびを同時に噛んで、面倒くさげに問うたのは彼の師匠だった。
「い、……いえ」
動揺を完全には隠せず、それでも、優雅な手つきで扉を後ろ手に閉める。
閉めてから、賢明なことにこっそり、鍵までしっかりとかけ、ユーグは師匠の隣に立つ人物を見やる。
「あの、……マ、マスター、その……」
「ああ……彼かね。これは、うん……話せば長くなるんだがね」
既に面倒くさそうにそう言う教授の傍らには、黙然とトレスが佇んでいる。無表情なりに、彼も実に納得がいっていないのだということが、なぜかひしひしと伝わってきた。
それは、彼が着せられたその衣装のゆえかもしれない。
「……“ガンスリンガー”」
心なしか恐る恐るかけてしまった声に、「肯定」と答えを返され、ほっとしたような、やっぱり彼なのか、という一種絶望に似た想いが胸をよぎる。
別に女装などしていたわけではない。
ただ彼は、……実に肌触りのよさそうな、絹の、……なぜか青い水玉のパジャマを着た上に、同色の、「とんがり帽子」のナイトキャップを被っていただけなのである。
「うん、まぁ話は長くなるんだがね」
もう一度そう繰り返して、そのけだるげなポーカーフェイスを崩さぬままに、教授が引っ張り出したものを眺め、ユーグは後ずさり、固く無慈悲な扉の感触を背中に覚えた。
あの、無駄に上質な絹で作られたのがありありと見て取れる、ピンクの水玉の生地。
「……師匠……それは……………ご自分が着られるものですね?」
心を冷やす不吉な予感を振り払うようにそう問うてみれば、
「そんなはずがないだろう、これは君のパジャマだよユーグ」
パイプをひねりながら、敬愛する師は眠たげなままの声で即答した。
ああやっぱり、と、ずるずる扉に寄りかかったまま崩れ落ちるユーグを見下ろし、トレスは無慈悲に宣告した。
「ヴァトー神父。今夜の就寝はここで行え」
すでに「要請する」どころか、「要求する」ですらない命令形での通告に、しゃがみこんだユーグはのろのろと顔を上げる。
「……は?」
「神父トレス。それじゃあユーグは納得しないよ。せめて『俺と一緒に寝てくれ』ぐらいのことは言えないものかね」
「はあぁ!?」
思わず、跳び上がらんばかりに立ち上がったユーグが再び、扉にべったりと背中をつければ、無表情な仏頂面の機械化歩兵(パジャマ姿)は、ナイトキャップの飾り房を振って、顔を教授の方へ向けた。
「その説明は正確ではない、ワーズワース博士。俺は、卿とヴァトー神父が共に就寝することを推奨した」
「だから説明しただろう……彼は君でないと意味がないのだよ」
「否定。俺は機械だ。人ではない。『添い寝』の対象としては不適格だ」
「マ……マスター……」
もう、今すぐ鍵を開けノブを回してこの場を全速ダッシュで逃げ出したい――……そう切実に願いながら、だが、彼がもっとも愛しく想う二人の人間がもめているとなれば、どうにも立ち去るわけにも行かず、ユーグは力なく、二人の間に割って入った。
「どうしたのかねユーグ?」
「どうしたのかね、って……師匠、俺にはまったく話が見えません。どうかお願いですから説明を……」
「だから、話せば長くなるんだがね」
「…………“ガンスリンガー”」
師匠は話す気がないらしい、と知って、ユーグは彼の愛する機械人形に、すがるような眼差しを向けた。
感情の乏しい眼差しを、ユーグに向けてトレスは端的に説明する。
「安眠対策だ」
「……すまない……全然意味がわからないんだが」
これははたして俺が謝るべきことだろうか、と悩みながらも、一片とて悪びれないトレスに対してとりあえず、ユーグは下手に出てやった。
辛抱強く、トレスは説明を補足する。
「昨夜、就寝中の卿の精神が、危機的状況にあると判断した。ワーズワース博士に相談したところ、『信頼できる誰かが添い寝してあげるのが一番だよ』との返答を得たため、卿とワーズワース博士が同衾すべきだと判断した」
「…………で……?」
指摘すべきことが多すぎて、何から言い出せばいいのやらわからず、とにかく、ユーグが力なく先を促せば、トレスはそれに気づいた様子もなく、やはり、堂々とパジャマ姿で言葉を継いだ。
「ワーズワース博士は、『君が同衾するのが一番だ』と俺に告げたが、交渉の結果、俺がこの衣装を着用した上で、3人で就寝するという条件で、『添い寝』を行うことに同意した」
「だからね、神父トレス」
眠たげなままの、師匠のポーカーフェイス……だがつきあいの長いユーグはその中に、ほんのひとかけら、隠し損ねた面映さが漂っていることに気づいた。
「どうして君はそうまでして、僕を彼に添い寝させたがるのか、その理由を教えてもらえないかね」
「……」
トレスは即答せず、不意にその冷たい眼差しを、教授からユーグへとはっきり流した。
「え、」
なぜそこで自分を見られるのかがわからず、ユーグはトレスと教授を見比べる。
そして奇跡的に――トレスの意図を察した。
おっとりした、飄々たる態度を崩さぬ、師の眼の下の……色濃い翳り。
「――神父トレス?」
「あの、師匠、」
トレスが口を開く前に、ユーグは急いで言葉を挟む。
「何だねユーグ」
「俺は別に……、構いません」
「うん?」
「ですからその……添い寝です」
何を言っているのかよくわからなくなりつつも、ユーグは懸命に、師匠を翻意させようとした。
「滅多にない機会ですし……どうせなら3人で寝ませんか」
「……このパジャマを着るのかね?」
おかしげな含み笑いを上品に呑み込み、教授はパイプを卓上に置いた。
ああしまった、と視線をそらしつつも、トレスの無言の圧力に負けて、「はい」とユーグはぼんやり頷く。
「ならいいだろう。君たちに添い寝してあげるとも」
きらり、と眼を光らせた教授がその手に乗せた、一機のカメラを認めた瞬間……ユーグは深刻に、己の選択を後悔したのだった。
実験室の奥には、教授の半私室と化した仮眠室がある。ある意味全裸より屈辱的な服装に着替え、トレスにしげしげと観察された上に、おそらくは画像保存までされ、ユーグは部屋中の鏡を叩き割りたい気分になりつつも、「これでよろしいでしょうか」とトレスと並んで教授の前に立ってみせた。
「うん、……実に似合うよ」
微妙な間は、必死に笑いをこらえた心の葛藤の結果に違いない。確信しつつも、「では師匠もどうぞお着替えを」と、ユーグは真剣に師を追いつめる。
「ああ、僕はもう少し調べ物があるんでねぇ」
師匠は弟子の追及などものともせず、あっさりと言うとデスクに向かって歩き出した。
「マスター!」
「では着席して準備を待つ」
頭に血を上らせたユーグよりも、機械人形はずっと冷静だった。
ユーグの腕を引きずって、トレスは仮眠室を出ると、実験室の客用ソファへとどっかり腰を下ろしてしまう。
「……その格好が視界に入ると、実に気が散ってしょうがないんだが」
もう見ただけで笑えてくるのか、視界に入らないようにしている教授を冷たく一瞥し、
「では早々に終わらせることを推奨する、“教授”。俺とヴァトー神父は作業終了までここに待機する」
と、トレスはユーグも引きずりこんで座らせる。
トレスの手際のよさに呆然としているうちに、二人仲良くソファに着席してしまったユーグは、とってつけたように「そういうことですので」と、師匠に言うのがやっとだった。
スリッパまで揃いの水玉を履いた二人から、視線をそらしたまま、珍しく、攻めあぐねた様子で教授は考え込む。
だがややあって根負けしたように、
「わかったよ。……そこで待っておいで」
と優しく言うと、向かい合わせに、デスクへと着席して本を広げた。
「君はすごいな、神父トレス」
精一杯、声を低めてユーグはトレスに囁く。理解できない、と言いたげに――だが会話内容を秘匿するために言葉には出さずに――黙って見返したトレスの額に、ごく自然にくちづけて、ユーグはソファから立ち上がった。
「ヴァトー神父?」
「本でも取ってくる。煩くしたら師匠の迷惑になるだろう?」
「――了解した」
トレスの了承を得て、本棚に向かいながら、ユーグは愛する師のことを考える。
己の悪夢にうなされながらも、彼を案じ忘れたことはなかった。
旧い、深い――とても大切な友を、亡くしてしまった剣の師。
すやすやと眠れているはずもない。
トレスはその不調を、あのすべてを見通す眼差しで看破したのだろう。
そして、ユーグと教授、その二人ともの睡眠障害を一度に取り除く、もっとも良い手段に違いない――と彼なりに最上の策を見つけた気になって、「添い寝」を提案し、推し進めたのだ。
――優しい人形だ。
ふと、泣きたい想いになって、ユーグは本棚の枠を握りしめる。
滑稽な格好をさせられて、写真の一枚や二枚撮られても、あの優しい人形とお揃いの服を着て、師匠が笑い、それで眠れるなら、いくらでも道化になっていい――ユーグはいつのまにか、そんな気分になっていたのだった。
ペンの走る小気味良い音と、独特のパイプの香りに包まれ、ソファにぴしりと着席したまま、教授の作業終了を待って自己診断を続けるうち、トレスはふと、右肩にかかる重量を感知した。
肩はまったく動かさぬまま、そちらを眺めやろうとして、こつん、と側頭部に何かがぶつかり、そして――規則正しい寝息を聞き取る。
ペンの音が止まり、前を向いたままのトレスは、教授がこちらをじっと見て、そして、ほほえましげに眼を細めたことに気がついた。
どんな顔をして、ユーグは眠っているのだろう。膝に詩集を広げたまま、安心しきったように、トレスにもたれた彼は。
眠るのはいい。だが、このように傾いて眠るのは健康上良くないことだ。
だが、起こしてしまえば今夜はもう眠れない可能性もある。このチャンスを逃すわけにもいかない。小規模のジレンマに陥って、トレスが無言で、しかし懸命に打開策を探ろうとしていると、教授が手振りで、トレスに指示を送った。
「――?」
その手振りを解読する。そして、「了解した」と口の動きだけで伝えると、教授から視線を離さぬままに、そろそろと身体を後ろに引き――傾けながら、ユーグに向き直っていった。教授が、「そうそう」と頷いてみせる。
「……うン……?」
何で動いているんだろう、と言いたげに、ユーグの手がトレスの膝の辺りを頼りなく彷徨う。それを抱きかかえ、少しずつ、少しずつ身体を引き、トレスはユーグを正面から抱き直し、その肩に頭を載せさせた。
しかしこれからどうすれば。と、教授に視線で指示を請えば、その眼の中にやわらかい笑いをにじませて、教授は、立てた掌を、ことん、と床と水平に倒してみせる。
常人にはありえぬ足腰の強さで、トレスはユーグの体重を支えたまま、じりじりと反り、後ろにゆっくり倒れていった。
20秒ほどもかけて、ようやく、ソファへと身を横たえる。
小さくうめいたユーグは、薄く眼を開いて一瞬もがく様子を見せた。教授の掌が、何か宙を撫でるような仕草をする。その丸みで理解したトレスは、ぎこちなく、だが精一杯やんわりと、ユーグの淡い金の髪を撫でてやった。
「……ふぅ」
安心したような吐息をついて、ユーグはトレスの上で軽く身を折り、安眠の場所を見つけたと言いたげに、そのままぐっすりと眠りに落ちてしまう。
これでよかったのだろうか、と、ユーグの頭を撫でながら、機械なりに困惑を覚え、助けを求めて教授を見つめ――……だが結局、トレスは口を開かなかった。
彼ら二人を見る、「父」の眼差し。
それは、今そこに在る、あまりに愛しくあまりに大切なものを見つめる眼差しであると同時に。永遠に喪われた、あまりに愛しくあまりに大切――であったはずのものを、見つめる眼差しでもあった。
深い喜びと、深い悲しみがそこにはあった。それでも、その瞳はひどく安らかであった。見守られている――と、人形の身が理解できるはずもない。だが、それでもトレス・イクスは、彼の語彙では表現しがたい「何か」――……に、容量のほぼすべてを奪われるような、……「満たされる」ような、感覚を覚えてその思考をフリーズさせた。
トレスの動揺に気づいたのか。音もなく、気配すらなく、ふわり、と教授は立ち上がり、口の動きだけで囁く。
『僕も少し休憩しよう』
トレスがそれに答える前に、するすると近づいた紳士はいとも気軽に、ひょい、とユーグの脚を抱え、それをソファに載せてしまう。
そして、トレスがソファから落としたクッションをふたつほど、床にかき集めて即席の座椅子にしつらえ、ソファからややはみ出しがちな、ユーグとトレスの重なった腹に、ことんと頭を預けて座り込んだ。
獣のようにゆるく穏やかな、ユーグの呼吸を感じながら、心地よさげに、その瞳がふと閉じられる。
そしてそれから数秒もせぬ間に――……まるで気を失うように、張り詰めていたものがすべてゆるんだように、疲れ果てた男は一気に眠りの淵を転がり落ちた。
がくん、と、まるで命を絶たれたように傾いた頭を、とっさにトレスは左手で支える。
すでに深く寝入って目覚めない、その表情に濃い疲労を確認し、ユーグの身体の下から差し伸べた手で、何とか、ユーグのわき腹にその頭をもたせかけた。
10メートルも歩けば、仮眠室があるというのに。こんなところで眠り込んでしまうとは、よほど疲れていたのだろう、とトレスは判断する。
眠らぬ番犬が、空気を微塵も騒がせぬままに護る傍ら……背中を預けてためらいのない、師弟の気配と共に眠る。
それがどんなに、二人の非凡なる剣士を安心させるのか、トレスには欠片ほども自覚はない。
ただ彼は、「ひとりぼっち」になってしまった二人の同僚の精神状態を、「同僚として」――と割り切っていられていると彼は思っている――懸念しているだけなのだ。
――「ひとりぼっち」?
不意にトレスは、己の語彙とも思えぬ単語を見つけ、それをリピートする。
そしてその単語は、深沈たる声が人形に説いて聞かせた、一連の文章をほぼ強制的に再生させた。
『人は皆「孤独」――「ひとりぼっち」です、神父トレス』
理解できずに黙然と聞き入る、あの頃の人形に、なぜあんなことを懇々と、「彼」は説いて聞かせたのか。
『「ひとりぼっち」なのです。……ですが、だからこそ、人は寄り添うことを求め、「家族」を作ろうとする』
状況をトレスは思い出す。
あれはブリュージュ、御子昇天祭の日。
作戦に入ろうとするトレスをわざわざ、呼び止めて「彼」は説いたのだ。神の足元に座すにもっともふさわしい、あの敬虔な緑の義眼、あの穏やかな深い声で。
『神父トレス、理解できずとも今は構いません。ただ、記憶しておいて欲しい……貴方は、ウィリアムの家族であり、アベルの家族であり、ケイトの家族であり、――私の家族でもあり、そして、ユーグの家族でもある。我らは皆「ひとりぼっち」なのです。……そして、「ひとりぼっち」のあの孤独なお方の元に、引き寄せられて集ったのです』
たったひとり、カテリーナの下に辿り着き、そして今、最愛の友を喪った“プロフェッサー”、
たったひとり、カテリーナの下に辿り着き、そして今、最愛の妹を喪った“ソードダンサー”、
「――!」
気配だけは微塵も騒がせぬまま、トレスは不意に眼を見開く。
思考の狭間に不意に、痛みのような原因不明の衝撃と共に差し込んだ映像。
それは、己がその弾丸で吹き飛ばした、たったひとりの、最後の「兄」――……
ドゥオ・イクスの転がる首の映像だった。
理解できないということが、更なるフリーズを呼び起こす。
もっとも信頼できる、「父」に等しい人を、だが、今は起こすわけにはいかない。
眼を見開いたまま、脳細胞を締め上げる痛みに、ひとり耐える。
だがその身体の硬さが伝わったのか、不意に、ユーグがぱちりと目を開いて顔を起こした。
自分の失態で、安眠を妨害してしまったトレスが、混乱にどうしようもなく凍りつけば、ユーグはどこかぼんやりした眼差しで、至近距離のトレスの顔を眺めやる。
やがて、ふ……とその眼を和らげ、教授の頭がもたれていない、左手を器用にまさぐると、トレスの右手を手探りに捕らえ、そして顔を伏せ直した。
その唇から、再びの寝息が漏れ始める。
ユーグが寝ぼけていたのだ、と、ようやく気づき、トレスが機体の緊張を抜くと、ユーグは意識の最後の残滓のように、その手をやわらかく握りしめた。
意識を締め上げるエラーが波の如く、ゆるやかに引いていく。
トレスは教授の首の下に差入れた左腕に、思考を集中させた。
鼓動を触覚センサーで感じ取る。
存在している。
どちらの鼓動も、無事存在している。
――問題ない。
はっきりとは己の思考を把握できぬまま、トレスは己につぶやいた。
――問題ない。
大丈夫。
……ちゃんとここに、二人ともいる。
その事実になぜ機体が、思考が安定するかは理解できず、だが、トレスの瞳は常態に戻り、ゆるやかな低い起動レベルへと移行したのだった。
誰が誰を護り、誰が誰を癒しているのか、判然とせず――判然とさせる必要もなく、二人と一体の「ひとりぼっち」は重なり合って眠り続ける。
誰が身じろいだせいだろうか、可愛らしい水玉模様をあしらった、とんがり帽子のナイトキャップが身体を転がり、ぱさり、と床にひとつ落ちた。
……まるで、「父」が幼い我が子に買ってやるような、そんな、可愛らしいナイトキャップが。