熱を偽りて
かすかな物音に、ユーグの意識は覚醒した。視線をやれば、ひびの入ったガラス戸を、意外なほどの静けさでトレスが閉めたところだった。
カーテンなどないその窓の、掛け金をかちり、と丁寧に掛けるトレスに、ユーグは横たわったまま声をかけた。
「なぜ窓を閉める?」
ユーグが目覚めているとは思わなかっただろう。だが、感情を知らぬ機械の同僚は、驚きを顔に出しはしなかった。窓枠に片手を置いて、それは振り返る。通りの街灯に、ガラス越しに半ば照らされたその顔は、必要以上に端正で、そして必要以上に無表情だった。
「卿の部屋には――」
機械的な声が紡がれた。
「窓を開け、半裸で就寝するのに充分な暖房器具がない」
「開けてくれないか。……息が詰まるんだ」
弛緩したようにベッドに沈んだまま、ユーグはトレスを見上げる。片手を窓枠に置いたまま、トレスはガラスのようなその眼でユーグをしばらく眺めていたが、やがて、黙って窓に向き直ると、掛け金を外した。
早春の風が、鳥肌を立てるほどの寒さでユーグの肌を撫でていく。だが、鍛え上げられ、「気」を張り詰めさせたユーグの身体が、寒さを感じている様子はない。
ズボンは穿いているものの、裸の上半身の上には、シャツ一枚を無造作に羽織っただけだ。
日が落ちてもなお、三本ほど離れた表通りの喧燥は、この質素で淋しい部屋の中さえをも、かすかに騒がせる。うらぶれた部屋、遠くの喧燥、その中で、胸騒ぎさえ起こすような美丈夫が、だらしない格好で寝台の上に横たわっている……それだけで、室内は息を飲むような退廃さえ感じさせるのだった。
その傍らに、冷気と僧衣で己を隙なくよろった神父が、佇んでいてなお。……いや、佇んでいるその神父に、ユーグの向ける眼差しの暗さと――甘さこそが、室内に漂う、息苦しい空気を作り出しているのかもしれない。
途切れ途切れに聞こえる酔客の放歌に、耳を傾けていたユーグがふと、仰向けに転がったまま目元を歪めた。
笑ったのかもしれない。
「あれは知っている歌だ。もう、滅んだ国のフォルクローレだと聞いている」
寡黙な殺人人形は黙ったまま、だが、律義に歌に耳を傾けている。
だが、その瞳の奥、あるはずのない感情が――意外げな色が浮かび、彼はユーグを見つめた。
「『泣き去りしその人その愛に』……『手伸ばせど掴むは影ばかり』……」
低くかすれた声で、ユーグが歌っている。
物悲しく物淋しいその歌は、陰惨な情熱を秘めたその声によく似合っていた。
「『思い出に成り果つとも、なお忘れ得ぬ――』……」
不意に、歌がぴたりと止む。
続きを促すかのように、トレスがその感情なき瞳を向けても、ユーグはぼんやりと天井を見上げたまま、歌を紡ごうとはしなかった。
『思い出に成り果つとも、なお忘れ得ぬあなたよ』
その歌詞がユーグの過去を苦く掘り起こしたのだと、トレスが知るはずもない。かつて、ユーグには婚約者がいた。風の噂に、はや人妻となったと聞いた――
だがユーグは、己がまさしく「泣き去りしその人その愛」に直面し、更なる絶望を受けるであろう未来については、まだなにひとつ知ることはなかった。
自堕落に弛緩しながら、その実、灼けるような痛みを抱えて絶句しているユーグに、トレスは真にかけるべき言葉を持たない。彼が、自我の外殻に張り巡らせた機械の檻を超えてなお、口に出すことを許されるのは、散文的な報告だけだった。
「現在、室内の気温は摂氏12度。卿の現在の服装では、体調を悪化させる恐れがある」
「わかりやすく言ってくれ」
どこか甘くも聞こえる、だが、拭い切れない暗さをにじませる声に対して、トレスは簡潔に――とても気遣っているとは思えない声で、端的に告げた。
「もう一枚着ろ」
ふ、と口元でけだるく笑うだけで、ユーグは答えない。トレスは、室内を無言でスキャンした。上着らしきものを見つけたのだろう。ベッドサイドから離れ、部屋の隅、椅子の上にきちんと畳まれた衣服に向けて、歩き出す。
「上着なら――」
ぎしり、とトレスの歩みが止まる。彼は振り返り、己の僧衣の裾を握りしめた手の存在を、認めた。
「――ここにあるだろう」
トレスの外衣は、レオンやハヴェルと違ってウェストの部分で切りつめてある。その為、小柄な身体にはあまりに大きなホルスターとガンベルトが、威圧するようにはっきりと覗いていた。
ユーグが引いたのは、その下、しっかりと襟を詰めた長衣だ。
トレスはユーグの腕を見、そして、部屋の隅の上着を見た。戦術思考が分析せずとも、ここで裾を掴まれたまま、あの上着を取りに行く手段は存在しない。
人間だったら溜息をついていただろう。だが、トレスは無言で、恋人に戯れかかるような真似をしている男に向き直った。やや屈みこみ、ユーグの胸元に手を伸ばす。几帳面な仕草で手早く、そのボタンをひとつひとつ留めはじめた。
機械化歩兵のまめまめしい仕草に、ユーグの喉の奥から笑いが漏れる。ユーグは、トレスがこうもユーグの世話を焼く理由を知っていた。
「休日を潰してまで、問題児の世話とは大変だな、ガンスリンガー……こんな仕事のために造られたわけでもないのに」
「否定。俺には他の職員と同じ休暇は必要ない」
睡眠も、食事も、休息も、通常の人間より遥かに微量しか必要としない殺戮人形。ユーグと同じく、壊れかけたぼろぼろの状態で、「教授」に――トレスの場合、正確には「ミラノ公の命令を受けた教授」に――拾われてきた彼。
「――ヴァトー神父?」
三つめのボタンを留めたところで、人形は冷たくユーグの名を呼んだ。ユーグの両手は、自分に向けて屈みこむトレスの外衣を、その肩から滑らせて払い落としていた。
「確かに、寒くなってきた。君の上着を貸してくれ」
それ見たことか、などとは勿論言わぬ人形が、黙って窓を閉めに向かおうとする。だが、ユーグはそれを許さない。
「なぁ、イクス神父……君は師匠に言われて俺の様子を見に来たと言っていたが……」
「手を放せ、ヴァトー」
抑揚に乏しいトレスの声に、不快感が滲む。ユーグの両手が、トレスの長衣の襟の留め金を外し、ケーブルの伸びる首筋にじわじわと指を這わせていたのだ。
万力のような機械の腕が、ユーグの服のボタンから離れて、同じ者にメンテナンスされているユーグの両の義腕を掴む。
「どうして師匠が、君を俺のもとに寄越したか……君にわかるか、ガンスリンガー?」
腕は掴まれても、指先が動かせないわけではない。ユーグは指先の襟をくつろげ、耳の後ろから首筋をゆっくりと、撫で下ろした。トレスが離れようとする一瞬前に、頚部に露出したケーブルの一本へと、慣れた手つきで指をひっかける。トレスが顔を退けば、ケーブルが引かれて抜けかねない。トレスの動きはぎくりと止まった。
「師匠は、俺のことをよく知っている……あの人はすごい人だ。俺の醜さも、無様さも、皆お見通しなのさ」
頬、唇、喉――ユーグの指先がトレスの装甲皮膚を侵蝕する。誰よりも敬愛する師匠のことを語る時、ユーグの瞳の奥に、わずか、誇らしげな、どこか陶然とした光がよぎった。
「そう、知っているんだ……俺の醜さも、……それでも、俺がその醜さを師匠には見られたくない、そう思っていることも」
寡黙な機械化歩兵は答えない。だが、掴んだ両手を無理矢理引き剥がすこともしなかった。ただユーグを見つめている。その奥でどんな思考が弾けているのか、ユーグは知らず、知ろうとも思わなかった。
「なぜだろうな? ガンスリンガー」
ユーグは指先に力を込めた。ケーブルを引かれ、トレスの顔はユーグに近づく。
「君が人形だからだろうか? アベルにも、ガルシア神父にも、シスター・ケイトにも、プライドにかけて到底見せられないようなものを、君を見ているとつい、見せたくなってくる……」
ヒューマンファクターを排除する機械には、意味不明の戯言としかとれない言葉だろう。「だから」なのか、「だが」なのか、とにかく、トレスは聞き返そうとはしなかった。
――君は、イクス神父には甘えるんだねぇ、ユーグ。
そう言って、パイプを軽く噛むようにして苦笑した、誰よりも敬愛する人の姿をユーグは思い出す。はじめて出会った時、トレスはユーグと同年代の外見を持っていた。今、彼らが並んで立てば、間違いなくユーグが年上と見なされるだろう。……全身義体の機械化歩兵は、当然、年を取らないのだ。
「――卿の発言は理解できない」
端正な唇が開いてそう告げても、別にユーグは失望しなかった。
「そうだろうな……」
「だが、卿が俺に何らかの行為を行った結果、卿自身の精神の不安定性を修復させ得るなら……」
翠の瞳を見開くユーグの、両手を締めつけていた力が退いていく。何事もなかったかのように、トレスは横たわるユーグの両脇に両手を突いて、体を支えた。
「……ボディが破壊されぬ限り、俺に不利益はない。それは支援義務の一環と判断される。
卿の好きにしろ」
従順の意を示したか、濡れぬ瞳が、ひとつ、ゆっくりと――またたいた。
軋るような笑声が、ユーグの薄い唇をこぼれた。
本当は笑いたいのではなく、泣きたかったのかもしれない。だが、ここまで惨めな己を晒しておきながら、なぜかそれだけは、許すことができなかった。
「馬鹿な……馬鹿な人形だ、君は……」
ぞっとするほど優しい手つきで、ユーグの義手は、トレスの首からすべての装身具を――十字架さえをも取り除く。
複数のジャックが黒く穿たれた白い首。まるで、いつ縊ってやろうかと渇望するかのように、執拗にその首を左手で撫で回しながら、ユーグはトレスのガンベルトに右手を伸ばした。
トレスの片手が、ユーグのその手を押しとどめる。抗弁を封じるかのように、開きかけたトレスの唇を、ユーグは己の唇でふさいだ。
一瞬の狼狽が、演算の明滅するトレスの瞳の奥によぎる。だがそれが消え去ったのも、まさしく一瞬だった。
焦点が合わぬようにも見えるその瞳に、女性を騒がせてやまぬユーグの美貌を無機的に映したまま、トレスはユーグの手をゆっくりと払い、自らガンベルトを取り除く。こちらも何ひとつ昂ぶることはなく、ただ、舌触りの良い料理を味わうように、トレスの口内を舌で撫でていたユーグが、ごとり、という音に眉を寄せた。
トレスの、寝台についていないほうの片手に、携えられた“ディエス・イレ”。床に落とした銃は、一丁だけだったようだ。
それを寝台の上、すぐ手を伸ばせる場所に横たえて、トレスはやはり片手で、すでに半ば脱げていた己の僧衣を完全に肩から落とした。
長衣の下には、ジャックポッドや型番が、趣味の悪い刺青のように全身に刻まれている。今はカモフラージュを施していないのだろう。時折、この人形は「まるで人間のような」美しい体をしていることがある。
「――せっかくこういう穴があるのに、」
唇をようやく解放してユーグは囁いた。
「ケーブルで君をジャックできないのが、残念だな」
「俺の自我(OS)には防壁が構築されている。卿にハッキングの機能が付加されても、俺を内部から破壊することは難しい」
「外部からだって、破壊なんてするものか。あんなに師匠が大事にしているのに……」
ふ、とトレスの身体が一度離れる。彼は脱ぎ落とした長衣を手に抱えると、それでユーグの身体をくるんだ。
「もう上着はいい。――君の熱にあたためてもらう」
それでも、硝煙の香りの染みついたその上着に頬を押し当てながら、ユーグはトレスの身体を、仰向けに横たわったまま引き寄せる。ユーグを潰すまいと、手をついて体重を殺すトレスの背中……肋骨に偽装した、追加兵装用のソケットを撫で下ろしながら、ユーグはまるで、生身の部分で彼を愛撫することに固執しているかのように、首筋にも、肩口にも、所構わず己の唇を押し当てた。
「体温調節できるだろう? そんなに高温じゃなくて良い。俺よりあたたかければ、それでいい……38度ぐらいで構わない……」
「――了解した」
人間の男と女なら――せめて同性であっても人間同士なら、互いに熱をかきたてることもできただろうに。あまりの滑稽さに、ユーグの咽喉は、また笑いの発作に引き攣りはじめる。
その滑稽さを、眼前の人形は感じているのだろうか。どこか、眼の奥で揺れているものがあるような気がした。だが、ユーグはそれ以上、硝子色のその眼を覗き込むことから逃げた。
汗もかかずに、熱だけを持ち始めた、整いすぎたその身体に額を押し当てる。
先ほどの声とはまた違う……だが、同じ歌が切れ切れに、窓の外から迷い込んできた。
「『手伸ばせど掴むは影ばかり』、か……」
――ああ本当に。この手に掴むものはせいぜいが闇色の影ばかりか。
どこまでも従順に己を与える機械人形の、その思惑を理解することができず、ただ、ユーグはかきむしるようにその背を荒々しく抱き寄せた。
「――ここで何をしている、ヴァトー神父?」
そう背後から声をかけられた時、ユーグはただ、あのものがなしい歌の続きを思い出していた。雨に打たれ、魂の芯まで凍えながら、人形の空々しい体温の高さを、皮膚一枚の先にぼんやりと思い起こしていた。
あの歌の続き――最後の一節は、なんと言ったか。
――『愛去りて涙と思い出す』……
かすれた声が、咽喉の奥だけで、その歌の終わりを口ずさむ。
「『我捨ててあなたの去りし日を』……」
捨てた「我」は、去りし「あなた」は、いったい誰のことなのか。
――もう誰でも構いはしない。……ただ俺が独りなのだということだけ、知っていればいい……
疲れ果てて鈍くなった心は、撃鉄を起こす音にすら摩滅して、感応しようとはなかった。むしろ大儀そうに身体を動かし、ユーグは伏し目がちにかすか、笑った。
たったひとつ、それだけは最後まで傍らに在る――刃という名の冷たく昏い相棒に向けて。
壁紙は「壁紙職人」様よりお借りいたしました。
質量ともに感動的な壁紙サイトです。