宝玉の日常――トレス
質素な、余剰な家具を何ひとつ置いていない部屋の中に一歩入った時点で、トレスはユーグに捕まった。文字通り、囚われた。背中から回された、彼と同じ者に整えられた偽物の腕が、トレスの両腕ごとしっかりと彼を抱きすくめていた。
「ヴァトー神父?」
部屋に向かって一歩踏み出した体勢のまま、振り返らずにトレスは問う。どこか眠たげな、おっとりとした声が頭上から降ってきた。雑音の少ない声だった。つまり――一般的に「美しい」と評価される声なのだろうと、トレスは客観的に判断した。
「酔ったみたいだ……本格的に」
ここで「君に酔った」などと言われて可愛げのある反応を返せるほど、トレスは「人間的」に造られてはいない。もちろん、トレスはユーグが泥酔したのだと判断している。それもユーグは理解しているだろう。
「ベッドまであと213センチメートルだ。卿の自立歩行が不可能なようなら、俺が運搬する」
宣言してから、トレスはユーグがしがみついてくるのを良いことに、軽々と彼を引きずって歩き出した。勝手に身体が運ばれていく現状が面白かったのだろうか。それとも何か別の理由があったのだろうか――まさかトレスは、ユーグが「可愛いなぁ」と思っているなどとは微塵も思わない――……トレスの背中で、ユーグはくつくつと笑っている。
酔っ払いのすることをいちいち分析していては、あまりの非論理性にハングってしまう。そう考えてトレスはユーグの機嫌のよさを推測はせず、ベッドサイドまで彼を引きずって歩いた。
窓際に置かれた粗末なベッドは、それでも、ユーグの体重と身長を鑑みて、頑丈かつ、それなりに長大だった。
ベッドサイドに佇んで、はたとトレスは問題に直面する。このままでは、振り落とすか、背負い投げでもしない限り、ユーグをベッドに放り込むことができない。何せ、ユーグはトレスの背中に張りついているのだ。
「ヴァトー神父、手を離せ。ベッドについた」
「師匠のパイプの匂いがする」
「……ヴァトー神父。」
髪の匂いをかいでいるユーグを、背負い投げにベッドに叩き込んだらどれだけの損害が発生するか、計算しながらトレスは心なしかゆっくりと、ユーグの名を呼んだ。
しぶしぶ、といった様子でユーグがトレスから手を放す。だが、「あ、」と眠たげな声をもらすと同時に、ユーグの長身はそのままぐらりとよろけた。
間髪いれずに振り返ったトレスが、手を伸ばしてユーグの腰を捕まえる。支えようと一歩踏み出した瞬間、ユーグの手が伸びてトレスの肩をトン、と押した。
よほどバランサーの空隙をうまく突いたのか、さほど力を入れたようにも見えないのに、トレスの身体はよろめいて後ずさる。その時には既に、ユーグはそのコードネームにふさわしい優雅さで、トレスの膝を脚で崩していた。
ダンス・マカブルの舞手に、さしもの「拳銃使い」と言えども体術でかなう筈もない。トレスはあっさりと倒れかかり、床にがたりと膝をついた。
「ヴァトー神父――……」
抗議の意をこめて呼びかけたその語尾が、かき消えた。
ユーグが、同じように床に膝を突いて、トレスの顔を覗き込んでいる。
酔いのない、透徹な瞳だった。何をするでもない。ただ、網膜に焼きつけるようにトレスの顔を見つめている。
やがてその白い手が、ふわりとトレスに向けて伸びた。
武器など何一つ持ってはいなかった。ユーグの素手が、トレスの義体を破壊することは限りなく不可能に近い。近づく手を、トレスは恐れる必要などないはずだった。
だが、トレスの義体と戦術思考と生体部品の、そのどれかは――トレス「本体」が意識する前に、後ずさるようにして、ユーグの手から逃げていた。
腰のホルスターが、ベッドに当たる。鋼鉄の猟犬にはありえぬような……座り込んだ形になった。
トレスの反応が、あまりに意外だったのだろうか。触れようとしてかなわなかった手はぱたりと床に落ち、翠の瞳は見開かれる。その、見開かれた眼の奥には、まるで少年のような、どこか傷ついたような光があった。だが、それにトレスが気づいているのかどうかは……人間的情動を封じ込められるトレス自身にも理解できないことだった。
自分自身に理解できぬ行動は、トレスの演算を狂わせ、混乱させる。うろたえたように明滅する、トレスの瞳の発光に気づいたらしく、ユーグは困ったように眉をすがめた。
「……何を怖がることがある、ガンスリンガー……?」
あやすような声で、ユーグは囁く。
「俺が君を害すると? ……機能のない君に無理矢理セックスを強いるとでも、思ったのか……?」
「確認する、ソードダンサー」
否定とも肯定とも答えず、トレスは一方的に問うた。
「何だ?」
「卿は――本当に酔っているのか?」
困ったような顔のまま、少しだけ目元で笑ったユーグは、「さぁ、どうだろう」とつぶやいてふと、がくりと身体を折った。
これ以上の逃げ場はなく、なすすべなく見守るトレスの、その膝を両手で抱え込むようにして引っ張る。まさしく人形の如く、開いて投げ出されたその脚に、ユーグは……まるで子供が甘えるように、ごろん、と乗り上げて頭を乗せた。
頭だけではない。頭は太ももに、肩から胸は膝から脛に……ほとんど上半身全体で、ユーグはトレスの脚を占領する。
「ヴァトー神父?」
もう何を言うべきかわからないらしいトレスが、それでも何かの回答を求め、いっそどこかすがるように名を呼べば、
「寝る」
と傍若無人な答えが返ってきた。
「ベッドで寝ろ」
至極もっともな叱咤にも、「嫌だ」と傍若無人ぶりは収まらない。
かわいげのない大型犬に、脚を占領されたトレスは、とりあえずの解決策として、ベッドに手を伸ばすと毛布を引きずり落とした。何をしたら良いかわからない状態よりは、ばかばかしくとも、何かすることが見つかっている方がありがたい。
投網のようにそれを広げて、ユーグの身体の上にかけてやる。ユーグを蹴り飛ばしてベッドに叩き込むことは、さすがにためらわれたのだろう。
すでに寝息までたてているユーグの、顔が毛布で半ば隠れる。ふとトレスは、その顔に目をとめた。
トレスの脚とユーグの身体の間で、あの優雅な金髪がぐしゃぐしゃににじられ、折れている。
このままユーグが眠ったら、ユーグの顔には髪の毛の跡がびっしり刻まれることになるだろう。トレスは手を伸ばし、だが、具体的に何をするべきか判断しかねてその手を止めた。
そもそも、そんなことまで気を遣ってやる義理はない。むしろ一刻も早く「剣の館」に戻り、夜間哨戒を行うべきなのだ。
「…………」
しばらく、トレスの手は宙を泳ぐ。それは、HCシリーズの機械化歩兵にしては永劫に思えるほどの――数秒の沈思だった。
死を生む機械の手が、無防備な剣士の、その白い額の上に降りる。
そして手袋をはめたまま、片手が慎重に頬の下に差し込まれ、もう片手が静かに、下敷きにされた髪を梳いた。
刹那、ユーグの身体が、電流を通されたように震えて身を丸める。
明らかに、眠っていたとは思えない機敏さで開かれたその、翠の瞳をトレスは黙って見下ろした。
それでも、ユーグの震えを怯えや緊張と受け取ったのか、一筋、さら、と髪をどけて、すぐに手は離れようとする。
だが、
「――そのまま」
離れかけた手が、痛いほどの力で握りしめられていた。
「そのまま――…・・・」
それ以上の望みを言えなかったのか、言葉が途切れる。わずかに熱っぽくかすれた声を、その余韻をトレスは黙って聞いていた。
手袋に包まれた片手が、再び、白い額からもつれる金髪をかきあげて、そして、ゆっくりと手で梳いていく。
ばらばらに散らばる髪を、ゆるく留めた組紐が、もう片方の手で引かれ、ほどけた。
機械の手が、まとわりつく金の髪を梳き、丸められた背の上でひとつにまとめていく。
傷の手当てを人間に許した、野の獣のように、どこか身をこわばらせ、ユーグは固く瞳を閉じて動かない。
それは――押し殺した苦悶の表情に似て、奇妙に官能的だった。
いつしかユーグがまどろみに落ち、窓の外がしらじらとほの明るさを増してなお、眠らぬ機械化歩兵はただ、そこに座して動かなかった。
本当にただの機械のような、人形のような――ぎこちない手つきで、膝の上で眠る獣の、たてがみと背を、命ぜられた通り「そのまま」、そっと撫でつづけて。