宝玉の日常――ユーグ



熱気溢れる酒場で談笑していた身には、外の夜気が心地良かった。「ふにゃー」などととろけた声で笑っているアベルに肩を貸してやりながら、ユーグは肺の奥底から、煙草の煙を追い出した。
「いーい夜だ」
アベルを挟んで向こう側、腹のくちた獣のように、大きな身体をさらに大きく伸ばして欠伸をしたのはレオンだった。上機嫌さを――満足感をさりげなくアピールする辺りが大人の振舞だ、とユーグはひそかにレオンに感心することがある。
「ごっそさん、サムライ」
「いや…」
どこかぶっきらぼうにも見える様子で、片手を挙げてみせるレオンに、ユーグは目の端だけで笑い返す。明日刑務所に戻るというこの大男に、ささやかながら心尽くしの宴でも――と、言い出したのはアベルだった。だが、ユーグがその集いに参加することは珍しい。
己の過去を取り巻いていたすべてに対する復讐、それを遂げてのち、ユーグにはいくばくかの心境の変化が訪れている。今回の件もまた、小さな変化ではあった。だが、それはレオンやアベルにも伝わっているはずだ。
それが嬉しくて、アベルもつい酒が過ぎたのだろう。幸福――と、言っても良い一瞬だった。明日は誰かが死んでいるかもしれない。だが、この瞬間は、たしかに幸福な瞬間だった。
ユーグにも、先ほどから微酔がかすかに胸を騒がせている。
「酔ってるな、お前」
「そうでもないさ」
言ってはみたが、ユーグは己の酔いを自覚していた。「酔ってなんかいませんよーおーぅ」とふわふわ笑っているのはアベルだ。「てめーにゃ言ってねえ」とレオンがその頭をかなり容赦なくはたき、だが、まるでそのついででもあるかのように、ユーグの肩からアベルを引き取った。
「……ガルシア神父?」
「酔っ払い二人を帰しちゃ、なにが起こるか知れたもんじゃねえからな。コイツは俺がぶちこんどく」
「しかし、君は……」
「どうせ『剣の館』に寄る帰りだ。気にすんな」
言ってからレオンは、どこか意地悪くも見える笑みをユーグに向けた。
「お前も酔っ払いってことでな、サムライ……迎えを手配してやったぜ」
「迎え……?」
迎えが必要なほど酔ってなどはいない。さすがにムッとして、ユーグが眉を寄せた時。
「――ヴァトー神父は歩行が困難なようには見受けられない、ガルシア神父」
滑らかな機械音声が、ユーグの体を硬直させた。
酒場の出口で待機していたのだろうか。電灯の下、その照明器具の一部と化したかのように無機的な、小柄な神父がひとり佇んでいる。
「足に出ねえだけだよ……さっきコイツ、看板口説いてやがったからな。かなりイカレちまってると見て間違いはねえ」
「いや、その……」
なぁ? とチェシャ猫のように笑ったまま視線を流されて、ユーグは口篭もった。頬が熱いのは、酔いのせいではないだろう。
看板を口説いていたのはユーグではなくアベルだ。だが、ユーグはその間違いをただせなかった。幸い――なのかどうかは微妙なところだが――ユーグの顔の赤さと、その態度をトレスは酔いによるものだと判断したらしい。かといって馬鹿にした様子もなく、「確かに、卿は酔っているようだ」と一つ頷いた。
「ああ、うん……酔っているんだ。すまない」
心なしか足取りまでよろけながら、ユーグはトレスに歩み寄る。とてもレオンを振り返ることができない。彼が何か、ひどくとんでもない方向に、ユーグとトレスの仲を勘違いしていることは、知っていた。だが、奇妙なことに――ユーグはその勘違いを振り払うことができないでいる。それどころか、こうしてそれに便乗までしてしまっているのだった。
この機械人形に、自分が思い入れを抱いているのは確かだ。愛しているのか、と聞かれれば当たり前のように「愛している」と答えるだろう。だが、恋慕の情かと聞かれれば、ユーグは言葉に詰まってしまう。
ただ、傍にいると心地良く、己を大事にしないのがつらく、時折無性に、声を掛け、機体に触れ、そうして抱いていたくなる――
――恋……なのだろうか。
極限まで戦闘能力のみを追求し、感情まで排除した機械化歩兵を眼前にして、そんな夢見がちなことを大真面目に自問しているから、モニカやレオンあたりに馬鹿にされるのだが、勿論、ユーグに自覚はない。
「――ヴァトー神父?」
「あ……すまない」
無意識のうちに伸ばしていた手を引っ込め、ユーグはトレスの傍らに並んだ。
「介助が必要なら申告を」
先ほどの手を、肩に掴まろうとしたのだと、トレスは認識したのだろう。ユーグより20センチほどは低い位置にあるその硝子のような眼差しが、無表情に彼を見上げている。
ここで「ちょっとしんどいな」とでも言えば、トレスはユーグに肩を貸すつもりらしい。心の底から度し難いことに、レオンとアベルの眼前にもかかわらず本気で迷った挙句、ユーグは「いや、大丈夫だ」とゆっくり一歩を踏み出した。
観察するようにそれを眺めながら、後を追ってトレスも歩き出す。
「では、失礼する」
「とっとと行っちまえ」
見せつけているという自覚のないユーグが、振り返りざまに謹直に片手を挙げれば、銀髪神父を引きずりながら歩き出したレオンも、しょうがないヤツめ、と言いたげに笑い返した。


規則正しいトレスの足音が、ユーグにあわせてか、今夜はいつもより少し遅い。それにかすかな気恥ずかしさを感じつつも、ユーグは帰路を引き伸ばそうとしているかのように、石畳の上を大切に歩いた。
冬の夜気は肌を刺すが、鍛え上げた身には堪えるはずもない。人影はまばらだ。夜目にも、一つ目の月に照らされてしらじらと輝いているユーグの金髪と美貌は、随分目立つ。それでも、連れ立って静かに歩いているだけの神父二人に、因縁をつける者はいなかった。
「いい夜だな」
感慨というものを持たぬ人形に、そんな言葉をかけてみる。案の定、返って来た言葉は散文的なものだった。
「気温摂氏4.5度、湿度13%。人間が快適だと体感するには気温が低い」
「俺もある意味、人間じゃないんでね」
人間を殺した時、人間は「人でなし」になる。ならば人間を殺すことに特化された、この斬人の業も、身も、そして心も、もはや人間ではあるまい。
「……卿は人間だ。俺とは違う」
無機的に断言する人形の、前を向いたままの揺るがぬ眼差しを、ユーグは傍らから見下ろした。
――恋ではないんだろうな、きっと……
恋を知らないわけではない。ユーグには婚約者がいた。少年の頃に生き別れたが、それでも、愛していた――と、思う。もともと、激情型の人間だ。それから10年、恋をしなかったわけでもなかった。それなりにそれなりのものをこなしてきた、と自分では思っている。
だがこの人形に、自分が抱く想いは――
「何を考えている、ヴァトー神父? 俺の外見に何か問題が?」
ふとそう言って、目の前の端正な顔がこちらに向けられる。
立ち止まった人形に合わせて己も立ち止まり、ユーグは小さく首を振った。
「愚にもつかぬことさ。単純な――」
言いかけて、ユーグはそれが、本当に単純な一事であることに思い至る。
「ヴァトー神父?」
何も知らぬ人形が、彼の名を繰り返し呼んでくれるのを聞きながら、ユーグは小さく笑って、手を伸ばした。
最近よくするように、すべらかなその作り物の頬を撫でて囁く。
「本当に、単純なことなんだ。俺は君が好きなんだな、と再確認していただけだよ……神父トレス」


反応を選べなかったのだろう。戸惑いのようなものを浮かべて、ただ自分を見上げている人形が、不意にひどくかなしく思えてユーグは苦笑し、手を離す。
「行こうか」
石畳を踏みしめて歩き出すと、それに律義に付き従いながら、トレスはどこまでも無機的な声で答える。
「――卿は酔っている」
「そうだな」
「俺は、卿には悪感情を持たれていると認識していた」
「そう、……っ!?」
思わず勢い良く振り返る。同時に、力強い手がユーグの腕を掴んだ。
「急激な姿勢変化は酔いを促進する。注意しろ」
酔った――とトレスは思っている――ユーグがよろけることを危惧したのだろう。しっかりと腕を掴んだまま、トレスは支えるようにして歩き出す。
大人しく連れられながら、ユーグは本物の酔っ払いのように、その肩にもたれかかった。
「君を嫌ったことなんて、一度もないぞ」
「卿は酔っている。会話は酔いが覚めてからに行うことを推奨する」
「酔っているから言えるんじゃないか。本当だ、君のことはずっと好きだった」
臆面もなく言いつのりながら、ユーグは喉の奥で笑った。
「言ってみると、簡単だな……君だけが好きとは言えないが、君がとても……好きなんだ」


「――繰り返す必要はない。理解した」
どこか辟易したように言うトレスの様子がおかしくて、ユーグは笑いながらもう一度、「いい夜だな」と天を見上げた。
愛の種類を思い悩まぬ機械人形にだからこそ、言えることもあるのだろう。
「本当に理解しているか、神父トレス? いいか、俺は――」
「理解している。繰り返すな」
単純な、あまりにも単純なその感情。
はじめて言葉を覚えた子供であるかのように、その感情を伝えながら、ユーグは人形と共に、夜の街を家路に就いた。