AVALON
振り絞るような、哀切なソプラノが王の死を歌う。北はるかクラクフより、ミラノ公が招いたというその歌声は、廊下にまで漏れ聞こえていた。
「いい歌い手だな――ゆっくり聴いてみたかった」
細く漂い来るその女声に聴き入るユーグが、小さくつぶやく。
「剣の館」あるいはスフォルツァ城では、賓客を迎えた際にパーティが開かれることが多い。その際にはいつも、ミラノ公の趣味の良さと――何より、コネクションをさりげなく誇示するような音楽団が招聘される。彼女の元に仕えて数年たつが、ユーグはひそかに、その演奏を楽しみにしていた。
傍らを、ぎしり、ぎしり、と重い音を立てて規則的に歩いていた――まさしく「歩行していた」「移動していた」という堅苦しい表現が似合う――同僚が、ユーグにちらりと視線を向けた。
「もっとも、今の俺には、ミラノ公のお供をした時にこうして漏れ聞くのが精一杯だ……
もう少し、『あの頃』に真面目に聴いておくべきだったのかもしれん」
歩みは止めぬままに、ユーグは口元にかすかな自嘲の笑みを刻む。前を向いたままのその翠の瞳は、はっとするほど昏かった。だが、隣を歩く機械化歩兵が、その感情なき心から何か感想を述べるはずもない。
ユーグは、トレスといると独り言が多くなる。おそらくそれは、ユーグだけの特徴ではない。まさしく人形に話しかけるように、まさしく飼い犬に話しかけるように、人はこの殺戮人形の前で、ぽろりと本音をこぼすのだ。
何の感慨も、何の感情も抱かずに黙って話を聞いてくれる、彼はそんな機械なのだから。
上流階級の人間と出くわした時に、とっさにそつのない受け答えができるのはユーグだ。トレスには、その辺りの気遣いがインプットされていない。
そのためトレスはユーグと別れ、ホールには向かわずに裏手からミラノ公のもとへ向かった。
まとわりつくように、ソプラノの哀悼がトレスの聴覚センサーに残り続ける。それを、索敵の邪魔以外の何者にも捕らえることなく、無機的に進むトレスの足が止まった。
壁の一枚や二枚なら見通してしまう彼の視覚センサーが、円柱の向こうに佇む人影を発見する。
その手に、鋭利な形の何かが握られているということも。
「警告する」
トレスの手が腰のホルスターに回り……だが、彼の手は、警告を発しながらも止まった。
円柱の向こうで、人影の握る「何か」が、ゆっくりと持ち上がる。
トレスの手は、無限の破壊と死と――そして轟音を生み出す“ディエス・イレ”の銃把を握りしめ、そして……離れた。
トレスとは逆方向から、中庭の見える廊下を静かに歩いていたユーグが、ふと整った眉を曇らせて顔を上げた。
悲しみに悶えるアリアに混じって、何か――不吉な物音を聞いたような気がしたのだ。
「イクス神父……?」
半ば無意識のうちに、その名を呼ぶ。
呼んでから、あり得ない、と首を振った。
たとえどんな敵と相対しようと、“ガンスリンガー”が一発の銃弾も撃たずに倒れることはない。必ず、何らかの警告音が自分の下にまで聞こえてくるはずだ。この、切々と絡みつくソプラノなど聴いていられないような、平穏切り裂く音が。
そして彼が、それをためらう理由などは何ひとつ存在するはずもなかった。
(考えすぎか)
小さく苦笑して、気配を感じたようにも思った方角に背を向ける。
刹那、はたりとオーケストラが死に絶えた。
「!?」
はっと顔を上げたユーグの耳に、無伴奏で細々と歌う哀歌が忍び込む。
大災厄以前にクラクフで作曲されたというその歌を、ユーグは聴いたことがあった。遠い過去にすら思える昔……ぐずりもせずに行儀良く耳を傾ける妹の、隣の席に腰かけて、だが、活気に満ちた少年には苦痛にしか思えなかった演奏会――……
「――ああ」
震える吐息が、天井を仰ぐユーグの唇から漏れた。
「やっぱり、もっと真面目に聴いておくべきだった……」
音のよしあしがわかる年齢になった時には既に――すべては異形の彼方に奪い去られ、ホールの外の番犬に落ちぶれた身は、胸を締めつけるあの歌声を漏れ聞くことしか許されない。
それでも、……それでも、ユーグは今宵のささやかな僥倖に感謝した。
15年ぶりに聴いたその楽曲に、心の闇を包み込まれながら。
手袋や袖から滴り落ちていた雫は、いつしか細い流れに変じていた。
最後の力を振り絞って突き立てられた毒針を、トレスは無傷の左手でぐしゃりと相手の拳ごと握りつぶした。大きく開いた刺客の口が、絶叫のための空気を求める。だが、その時にはすでに、拳を放り出したトレスの左手が、刺客の咽喉を締め上げていた。
『バケモノ――!』
声にならず、息すら吐けず、口の形だけで、恐怖に顔を歪ませた刺客は吐き捨てる。
それに肯定・否定のどちらの答えを返すべきか、思考する手間さえ惜しんだのか――あるいは、自分がどちらの答えを返すべきかを知らなかったのか。とにかく、トレスは返答せぬままに、失神した刺客を床に放り出した。
ビシャ、と水溜りに物を落とした時のような音がする。跳ねた水は、高い天井から落ちる薄暗い灯りの下でもはっきりとわかる、赤い色をしていた。
だが、打撲や圧迫によるダメージを受けた刺客に、出血するような外傷はない。
トレスは己の右手を眼の前に掲げた。赤黒く染まりきっている。すでに、その手の甲に染め抜かれたローマン・クルスを判別することすら、難しかった。
僧衣の肩口が裂け、そこから止まることなく皮下循環剤が溢れ出ていることを、何の感慨も浮かべぬトレスの義眼が確認する。HCシリーズは無音戦闘術に長けていない。多少の損害は、むしろ当然といえる。
彼は左手を破損箇所に伸ばし、無造作に指先を突っ込んだ。循環剤の流出を止めるために、何本かの主要なチューブを潰そうとして、手が止まる。
先ほど最高潮を迎えたはずの音楽が、ぱたりと消えていた。
いや、消えたのではなく、女声一種を残して無伴奏となったのだ。
トレスの聴覚センサーは、漏れ聞こえるその歌声の、息継ぎの音すら鮮明に聴き起こしていた。
ひとつ、またひとつと声が増え、縒り合わされた歌が哀切に震える。
やがてハープの音を伴奏として、細く、細く、歌声は遠ざかるように消えていった。
繊細に消えていくその歌声を、邪魔するものは何ひとつなく。
ただ、トレスの左手が、ぐしゃりと己の「血管」を潰す。
切り裂かれた肩から、流れ出た偽物の血は、最後まで抜かれることのなかった“ディエス・イレ”をも穢していた。
作り物の顔が、うつむいたのは、刺客の状態を確認するためだけだっただろうか。
それとも、
……それとも、その硝子のような瞳の奥に、何か……悲しみのような幽かな彩が、ふとよぎりはしなかっただろうか……
回廊はどこまでも静かなまま。
刺客を捕獲したガンスリンガーの報告は、常より数秒遅れてアイアンメイデンへと伝えられた。
壁紙は「壁紙職人」様よりお借りいたしました。
質量ともに感動的な壁紙サイトです。