きな臭く埃っぽい硝煙の香り以外には何一つ、体臭と感じられるものを持たぬはずのトレスが、今は不吉な生臭さを身にまとって廊下を進む。漆黒の僧衣には目立たぬ染みが、銀の留め金の部分でははっきりと浮き上がっていた。赤黒くこびりついたそれは、皮下循環剤ではない――乾いたばかりの人血だ。
「拳銃使い」が返り血を浴びることは珍しい。ボロボロの僧衣と、硝煙の香りと、そして血臭に包まれて、まっすぐ前を向いたまま、重く規則正しい歩調でトレスは進む。そして、このよく躾られた猟犬の斜め前、彼を従えて歩く女主人――カテリーナもまた、歩み慣れた廊下を優美な早足で進んでいた。
トレスはつい200秒前に、この「アイアンメイデン」へと重体の負傷者をひとり運び込んだところだった。負傷者の名をユーグ・ド・ヴァトーと言い、この一ヶ月、トレスとは何度か殺し合った仲だった。
応急処置を終え、いともたやすく80キロの身体を抱え上げたトレスを――正確には、そのトレスが抱え上げたユーグのことを、涙目で追いかけた尼僧がいた。自身も深手を負い、まだ完全に癒えてはいないだろうに、少女のようにいとけない女は、「神父様!」と叫んでユーグにとりすがろうとした。そのような存在を扱い慣れてはいなかったから、トレスはそれを即座に“ノーフェイス”に押しつけ、そしてユーグを抱きかかえたまま、石畳を割る勢いで走り出したのだった。
生々しく迫る血臭が、トレスにつきまとう。それでもトレスは、多くの客と多くの囚人を載せているこの「アイアンメイデン」内において、ユーグを収容して以降は影のようにカテリーナに付き添ったまま、決して自室に下がろうとはしなかった。カテリーナもまた、トレスを手放そうとしない。“プロフェッサー”は事後処理のためにブリュージュに残り、“ノーフェイス”は既にプラークへ向かっている。“ジプシークィーン”は吸血鬼の護送だ。“アイアンメイデン”はこの船そのものである。
そして“クルースニク”はケルンに在り、“ダンディライオン”は檻から放たれず、……“ソードダンサー”は意識が戻らない。今、カテリーナの背中を護ることができる派遣執行官は、“ガンスリンガー”ただひとりだった。
相手が人間なればこそ、カテリーナは優しいねぎらいの言葉もかけるだろう。だが、“ガンスリンガー”は彼女自慢の猟犬であり、彼女の可愛い人形だった。うまく獲物を仕留めれば褒めはするが、決して気遣うことなどはない。それはカテリーナがトレスと交わした絶対的な契約だ。トレスにとっては、神と交わしたに等しい神聖なる契約だった。
「“アイアンメイデン”」
カテリーナの後ろで、トレスが不意に宙に声をかける。
<はい?>
カテリーナとトレスの通信機に、やわらかな声が滑り込んだ。
「俺の前方6メートルの位置に置かれている物体について、分析及び回答の入力を要請する」
<トレスさんから6メートル、と、……ああ、ユーグさんのお人形ですわね>
「“ソードダンサー”の……人形?」
カテリーナは眼を細めて廊下の隅を眺めやる。確かに何かが転がっているが、ケイトの発言では、それが「ユーグの形をした人形」なのか、「ユーグの所有している人形」なのかが判然としない。
「マリー・ファン・メーレンの所持していたものと同一の人形か?」
カテリーナが興味を抱いた、と判断したらしく、トレスは人形に向かって歩き出した。
<ええ、先ほどご両親にお知らせしましたから、取りにいらっしゃると思いますわ>
すでにスキャンが済んでいるのだろう。人形について語るケイトの声に、警戒はない。それでも、人形に手を伸ばしたトレスの人造の眼の奥に、チチッ、と光とかすかな、ほんのかすかな駆動音がまたたいた。爆発物の可能性を懸念したのかもしれない。
安全と踏んだらしく、手は伸びて人形を拾い上げる。
「マリー・ファン・メーレン……ヤン・ファン・メーレン警視総監の娘ですね?」
<ええ……そのお人形の名前も『ユーグ』とおっしゃるそうですわ>
ケイトの声が、常より僅かに低い。血と硝煙の臭いをまとった神父の手の中、金髪の神父の愛らしい人形を、カテリーナは認めて眉を寄せた。
「そしてそれをプレゼントしたのはお母様……というところかしら」
<そう窺いました>
「……そう」
女二人の声の不穏さに気づいたのだろうか。主君の傍らに戻り、人形を手渡しかけていたトレスがふと、動きを止める。
「神父トレス、貴方はファン・メーレン夫人にお会いしたそうね?」
人形の手の中の人形。それを受け取りはせず、彼女の可愛い猟犬に捧げ持たせたまま、優しい声でカテリーナは尋ねた。
「肯定。ヤン・ファン・メーレン宅にて情報収集の際に会見した」
「調査部の資料に貴方が手を加えた、例のメーレン家に関する報告書によると、夫人は昔、神父ユーグの婚約者だったそうね?」
「肯定。ヴァトー神父は死亡扱いとされたため、婚約は自動解消されていた」
やはりトレスは揺るぎなく機械的に答える。
「……そしてラシェル・ファン・メーレンはユーグ・ド・ヴァトーを殺害しようとした……貴方の調査書に『付記』されていたその可能性は、本当に正しいのかしら?」
「アントワープの聖母大聖堂からは、血液と弾丸が二発、発見されている。血液はヴァトー神父のものと推定されている」
一瞬の沈黙すらなく、淡々とトレスは言葉を継ぐ。その手には、凛々しくトレスを見上げる金髪の人形が握られたままだ。調査にひとかけらの私情とて挟まぬ、鋼鉄の派遣執行官は、今度は「肯定」と即答はせずに、調査書の内容をまず繰り返した。
「教会内の6体の吸血鬼のうち、生き残っていた者の証言も取っている。『ラシェル・ファン・メーレンが撃った弾丸がユーグ・ド・ヴァトーに当たった』とのこと。線条痕はラシェル・ファン・メーレン私有の拳銃と一致した」
「ご本人は何とおっしゃっているんだったかしら?」
「誤射」
トレスの返答はすばやく、そしてひどく短かった。そこにトレスの、極度にかすかではあるが確かな情緒の揺れを、見たような気がしてカテリーナは眼を細める。
「よくわかったわ。いつもながら正確な調査には感心します、神父トレス」
拭いきれない不快感を上手に押し殺して、その反動でひどく優しい声になって、カテリーナは可愛い猟犬の狩りの成果を褒めた。負の感情は、トレスに対するものではない。女にしか理解できない、同じ女に対して感じる手厳しい不快感だ。
調査に当たって偏見を持たないこの機械人形は、夫人の行動に対する推測を、あくまでただの「可能性」として付記するに留めている。だが、カテリーナは確信していた。あの女は、ユーグを殺そうとした。そうでなければ、その後のユーグの、すべてに絶望したかのような言動が理解できるはずもない。
私人としてのカテリーナはまだ20代半ばの、潔癖な女性である。そのカテリーナの潔癖さに、ユーグの幼馴染だというあの夫婦の行動はことごとく引っかかって爪を立てた。ヴァトー家を裏切り、吸血鬼に魂を売り、親友の婚約者を寝取った男。真実を薄々感づいていながら、のうのうとその妻の座に収まりあまつさえ、昔の婚約者を涙で篭絡し殺そうとした女。幼い頃よりただひとりを見上げてきたカテリーナの、その剃刀色の眼差しの中で、ヴァトー家の煌びやかな光輝に耐えられず、傷を舐めあった一対の男女は、容赦なくそう映っていた。
――本当ならば、お礼を言わなければならないところだけれども。
刺々しい笑みを、唇の端に浮かべまいと押し殺しつづけ、カテリーナは表情を隠して眼を伏せる。眼を伏せたところに、差し出されたままの人形があった。愛らしい金髪の人形。そこに、あの剣士が浮かべる絶望と虚無は欠片ほども存在しない。
ヴァトー家が滅亡しなければ、カテリーナにとって、そのヴァトー家の長男たるユーグ――次代の警視総監殿は間違いなく、外交の対象にしかならなかった。四都市同盟の華麗な宴に招かれた際に、「美男美女でお似合いのカップルですな」などと議員どもに持ち上げられながら、社交的な笑みを浮かべ、腹を探り合う程度の仲になるはずの相手だった。
『ミラノ公……俺は……俺はここに……』
あの夜、口から胸から血を吐いて、抱きかかえる同僚の僧衣を汚しながら、すがるように、子供のように、彼女を見上げた宝石のような、翠の瞳。
復讐に狂う姿を見て、同族嫌悪を感じなかったと言ったら嘘になる。だが、あの瞳を見た瞬間、カテリーナの中のわだかまりは即座に霧散していた。
ユーグを彼女の手元によこした「運命」とは、ユーグにとっては残酷極まりないものだ。だが、カテリーナはそれに感謝する。……今、彼女の眼前で、無機的な瞳をじっと向けているこの猟犬の、かすかな感情の残滓のためにも。
「神父トレス、その人形ですけど――」
<あら、いらっしゃいましたわ>
カテリーナが言いかけた時、ケイトのやや慌てたような声が、彼女のイヤリングを震わせた。
「ユーグどこぉ?」
「待ちなさいマリー、走っては……申し訳ありません!」
転がるように駆けてきた童女と、それを捕まえようと伸ばされた手が、トレスとカテリーナの視界に映る。コンマ数秒の遅滞もなく、トレスの身体は前に出てカテリーナを庇っていた。普段なら、「構いません、神父トレス」と彼を下がらせるところだろう。だが、カテリーナはトレスの後ろに下がり、一目で親子とわかるその母娘が近づくのを、待った。
北の低地地方によくある、淡い金の髪の、白い肌の母娘。「あ、ユーグ!」と、童女が声を輝かせる。
――美しいご婦人だこと。
決して好意からではなく、脳裏にそう呟いて、カテリーナは母親の方を観察した。
ほっそりとしたなよやかな美貌。ユーグと並んで立てば、それはさぞ似合いだったことだろう。夫婦というよりは、従姉弟のように似通って見えたかもしれない。
洗練された仕草でスカートをつまみ、神にいと近き地位に立つ女枢機卿へと、ラシェルは恭しく膝を折る。それにやんわりと頷いて返礼し、「かわいらしいお嬢さんですこと」とカテリーナは微笑みかけた。……ヤン・ファン・メーレンに向けたものと同じ、何の温かみもこもらぬ、完璧な礼儀作法を守った仕草で。
「神父さま、ありがとう!」
トレスが返してくれると信じて疑わぬ眼差しで、童女は両手をうんと差し出す。トレスは無機的な眼差しで童女を見下ろした。
<……トレスさん?>
カテリーナの棘を本能的に感じ取ったケイトが、恐る恐る、直通回線でトレスを促す。ケイトにとっては、この母娘に同情や肩入れするというよりも、将来的に警視総監夫人の地位に返り咲くであろうこの女性が、カテリーナに何らかの隔意を抱かないかと心配なのだ。大切な――家族にも等しい部下を傷つけられた、カテリーナの怒りは理解できるにしても。
促されて、返り血に塗れた人形は手の内の、傷ひとつない、真新しい人形に視線を落とす。そして、猟犬が、獲物をくわえたまま主人に判断を仰ぐ時のように、視線を上げてカテリーナを見つめた。
――まぁ。
かわいらしい、と咄嗟に思い、カテリーナはかすかに目元を笑ませる。
時折、トレスがこうして見せる、感情にごく近く思えるものの片鱗を、カテリーナは読み取るようになっていた。5年も傍らに置いていれば、気づかぬ方がどうかしているだろう。
「――返しておあげなさい、神父トレス」
じっと主の言葉を待つ飼い犬に、彼女は優しく命令する。


「貴方はもう、本物をちゃんと持っているでしょう?」


あまりに含みの多い答えに、トレスの瞬かぬ瞳の奥に、どこか驚いたような、途方にくれたような光が一瞬よぎる。
だがかつての婚約者の覚えた衝撃は、強制的に感情の凪いだ機械化歩兵などとは比べ物にならぬほどに、大きかった。
とっさに表情を繕うことを失敗し、大きく目を見開いたラシェルの、その顔を見てトレスは再び、神に等しき主に視線を戻す。
「――肯定」
普段と変わらぬ、無愛想な――だが投げられた発言の内容を考えれば、ありえぬ返答だった。
人形はかすかに屈み、童女へと手の中の人形を手渡す。
「神父さま、本物ってなぁに? 神父さまもユーグ持ってるの?」
「否定。ユーグ・ド・ヴァトーは俺個人の所有物ではない」
生真面目な返答をよこして、トレスは姿勢を戻し、無邪気な童女から一歩離れた。
「そういえば、私の部下とは古くからのご友人でしたわね」
教皇庁の外交上、最大の財産と言える黄金の微笑を、カテリーナはラシェルへ投げかける。
「え……ええ……古い……とても古い友人ですわ」
女神に近しき女の、やわらかく細められた眼差し、その奥の針のような鋭さに気づいたらしく、ラシェルはかすかに蒼ざめた。
「そうでしたね……『よく覚えておきます』」
最後の台詞と同時に、カテリーナの微笑は優美な危険をはらんで、この上なく魅力的に花咲いた。
「彼もまた、この神父トレスと同じく、『私の』大切な――本当に大切な騎士ですから」


女は本能で女を知る。
カテリーナは、ラシェルの暴走としか思えぬ行動が、「ユーグは今でも自分を愛している」という無意識の確信から来ていることを、把握していた。カテリーナがトレスに対しそうであるように、ラシェルもまた、己に屈服している男――ユーグに対しては、どこまでも傲慢になって許されるのだということを知っている。それが女という生き物であった。
そして他方、カテリーナにとって、派遣執行官はすべからく彼女の猟犬(もの)であり――……彼の現在の恋人だというならともかく、その領域を侵すだけ侵して傷つける人妻など、存在すら許す気にはなれなかったのだ。


『よく覚えておきます』
その一言に、同じ性別を持つ同士にしかわからぬ敵意を込め。
彼女の派遣執行官へのひどい仕打ちを、一生忘れも忘れさせもしないと、カテリーナは剃刀色の瞳で、眼前の女の魂に刻み込んでやったのだった。


「アイアンメイデン」内には、カテリーナ専用の個室がしつらえられている。乾いた返り血やボロボロの僧衣も痛々しいトレスを、とりあえず洗浄室に出してやって、カテリーナはその個室でひとり、ティーカップに唇を当てた。痛む咽喉と苛立つ神経に、紅茶の湯気が心地良かった。
「映像は出せないの、シスター・ケイト?」
<よろしければ、伺いますわ>
尖った心を逆立てない、やんわりした声が滑り込む。「お願い」とつぶやいて、カテリーナは室内へと向き直った。
ふわん、とたおやかな立体映像が浮かび上がる。
「教授から何か連絡はありましたか?」
<現在のところ何も。四都市同盟は、無事メーレン氏を警視総監として認める意向のようですわね>
「……そう」
カップの中の、鮮やかな赤を見下ろす。
何か言いかけて困ったように首を傾げ、立体映像をかすかにブレさせた穏やかな尼僧に、ふと、カテリーナは笑いかけた。
「“ソードダンサー”は何と言うかしら。彼にとっては仇敵なのだと知りながら、後押しして、その彼が座るべきだった椅子に座らせた、そんな私の政策を知ったら……」
<カテリーナ様……>
ジジッ、と立体映像がかすかな音を立てて明滅する。ケイトは一度、いたわしげに顔を伏せたが、すぐにその顔を上げてカテリーナを見つめ返した。
<ユーグさんは、きっとカテリーナ様のなさったことを納得してくださると思いますわ>
「……何を言っているの、シスター・ケイト」
<だってユーグさんはあの通りの方ですもの。……心の底では、ユーグさんにとってあのお二方は、今でも、大事な方なのですわ>
かなしそうに眼を細めてやんわり笑う。彼女のそんな笑い方が、少し、最愛の人に似ていてカテリーナは好きだった。
<カテリーナ様が保護してしまわれたら、もう、ユーグさんには手出しできません。逆にいえば……ユーグさんはもう、お二方を殺さずにすみますわ>
「……そうね……」
情に脆い反面、ぎらついて尖った刃のような、あの年上の青年を思う。ここでケイトの言葉に同意してしまうのは、自分の甘えだということを、カテリーナはわかっていた。だが、
「そうだと……良いのだけれど」
淡い苦笑の中に語尾を溶け込ませて、カテリーナは囁く。業深き己の両手が振るった采配で、今さら罪滅ぼしを願うのはきっと大それたことなのだろう。だが、それでも彼女は、彼女の手元に取り戻したあの青年と、これ以上の軋轢が生まれないことを祈った。


神を信じぬ枢機卿などというものの祈りに、どの程度の効き目があるのか己自身でも怪しみながら。


<……あら、>
不意にケイトが上品に、首を傾げて耳に手を当てた。
「どうしました、シスター・ケイト?」
<トレスさんからご連絡ですわ。さっき、ユーグさんのご容態を見ていただくようお願いしたんですけれど>
「トラブルなの?」
声を低めて尋ねた瞬間、聡明なカテリーナは、トラブルにしてはケイトの様子がひどくたのしげであることを見て取った。
案の定、ケイトは含み笑いをこぼしてカテリーナに首を振ってみせる。
<トラブルといえばトラブルかもしれませんけれど……ユーグさん、一瞬意識を取り戻された時に、傍にトレスさんがいらっしゃったものだから、袖を捕まえてすぐにまた、気絶してしまわれたそうですの>
「まぁ……」
カテリーナは、体中を痛々しく包帯に覆われた青年が、手を伸ばし、死んでも放すものかと傍らの僧衣の袖を握りしめ、昏々と眠るその様を想像した。そしてその枕元には、子供に寄りかかって眠られてしまった番犬の如く、身じろぎもせずにぽつんと立ち尽くし、彼なりの困惑の中でじっと怪我人を見下ろす機械人形が、今だ待機しているのだろう。
「……まぁ」
もう一度つぶやいたカテリーナの声は、笑いをこらえかねてかすかに揺れていた。
<無理に振りほどくとユーグさんの傷に障るので、袖の部分を切って帰還したい、とおっしゃってますけれど……トレスさん、今着替えられたばかりでしょう? 経費がまた嵩むのは困りますわ>
「そうね。装備を簡単に壊してしまうのは、彼の良くない癖です」
子供を評するように、真面目くさって殺戮機械の要請を却下し、カテリーナは今度ははっきりと、ケイトにやわらかく微笑みかけた。
「“ガンスリンガー”に伝えなさい。ローマに戻るまで、その場で待機するように。僧衣の袖を切るのは、艦内の危険度が増加してからで構いません」
<承りましたわ>
裾をつまんでたのしげに一礼し、ケイトは主の言葉をそのまま、忠実な猟犬へと伝えた。


医療機器に囲まれ、昏々と眠る白皙の、ぞっとするほど憔悴した剣士の姿を、ウィルスを持たぬ機械化歩兵は見下ろしている。全身をくまなく洗浄され、滅菌済の新しい僧衣に身を包んだ姿は、医療に携わるどの人間よりも完璧に清潔だった。
マスクに覆われた、血の気のない唇が誰かの名を呼ぶ。声に出ず、鋭敏な聴覚センサーにも聞き取ることが不可能なそのつぶやきを、人形は追求しようとはしなかった。鍛え上げられた身体と意識が、薬品の作り出す強制的な昏睡状態に、必死で抗っているのだろう。喪われかけた力が不意に強まり、剣士の義手は、拳銃使いの僧衣の袖をきつく握りしめ直した。
僧衣を脱ぎ落とせば、この場から去ることができるのかもしれない。だが、よく躾られた猟犬は、主の命に背こうとはしなかった。ただ彼は、傷んだ義手に負担がかからぬよう、その場に跪き、己の腕を剣士が抱くままに与えてやっただけだった。
何を検索し、記憶から掘り出したのか。ふと、人形の瞳が動く。
そして彼は、投げ出されたままのその手で――先ほどまで人形を握っていたその手で、眠る剣士の手首の辺りを、そっと掴んで握ってみた。


『貴方はもう、本物をちゃんと持っているでしょう?』


「――肯定」
ぽつり、とつぶやいた機械化歩兵の声が、聞こえたというわけでもないのだろう。
だが、ふと、翠の瞳がうっすらと開き、視線は固定されずにふらふらと彷徨う。
そして己の握りしめ、己を握りしめるそれをもう一度まさぐり、軋むほどに捕え――……細く長い息が吐かれて、その瞳は再びゆっくりと、安心したように閉ざされた。