その眼差しに、5年もの間気づけずにいた自分が不思議だった。


「……どうしました、“ソードダンサー”?」
いぶかしげな声をかけられて、ユーグはふと我に返った。とりとめのない物思いに沈んで、よりによって、主の言葉を聞き逃していたらしい。
「いえ……」
申し訳ありません。そう言いかけて、咽喉の奥に何かが引っかかるような感触を覚える。チリ、と身体の端に何かが走ったが、ユーグはその感覚を思い出せなかった。遠い昔の、胸を締めつけるような押幼い幸福の思い出にたどり着く、その感覚――向き合いたくなくて、追求を即座に諦める。
「“プロフェッサー”は既に調査に向かっています。貴方にはその補佐をお願いしますね、“ソードダンサー”」
ユーグは黙って一礼した。焦燥にも似たかすかな違和感が、先ほどから胸を騒がせている。今は、声を出すのが嫌だった。
自分は何を拗ねているのだろう、と困惑しつつも、ユーグは低い声で「失礼します」とつぶやいたきり、彼女に背を向けた。


執務室を出たところで、ユーグは見慣れた小柄な姿とすれ違った。
「やぁ…“ガンスリンガー”」
億劫げにユーグが首を傾げてみせると、メトロノームより正確なその足取りをとめて、機械化歩兵はじろりとユーグを眺めやった。
「……俺の顔に何かついているか?」
頭の上から爪先まで、無遠慮に視線で走査されて、ユーグは眉を寄せる。
「否定」
ユーグに輪をかけて無愛想なトレスはふいと視線をそらし、傍らをすり抜けて執務室へと向かった。心なしか、先ほどより歩調が早くなっているような気がした。
――珍しいな。
何が珍しいのか、今ひとつ思考がはっきりとしないままに、ユーグはぼんやりとそう思う。後になって考えれば、トレスがわざわざ足を止めて、さらに何も話を切り出さないというのは、確かに珍しかったのだが……


<お待ち下さいまし、ユーグさん>
突如鳴ったコール音に答えてイヤーカフスを弾いてみれば、やや慌てたようなシスター・ケイトの声がいきなり飛び込んできた。
耳元の声に、ひきつるような頭痛を感じて思わず額を押さえる。
「シスター・ケイト? ……急用か? 俺はもう出立するんだが」
あと数歩で「剣の館」を出てしまうところだったユーグの、やや迷惑げな声に、困惑した様子の女声がやわらかく返って来た。
<任務のお邪魔をするのは申し訳ありませんけど、あの、カテリーナ様が……>
「ミラノ公が?」
<ユーグさんに、今すぐ戻ってきて欲しいそうなんですの>
ユーグは黙り込んだ。ミラノ公には、先ほど会って直に任務を拝命してきたばかりだ。何か言い忘れたことがあったなら、ケイトに言付ければ良いだけの話だろう。
それが「今すぐ」戻って来いとは、何かよほどの重大事に違いない。少なくともカテリーナは、軽はずみに部下を振り回す上司ではなかった。
「今戻る、とお伝えしてくれ」
言葉と同時にユーグは踵を返した。普段と変わらぬ立ち居振舞い、それにユーグ本人が違和感を持て余していることなど、すれ違う人たちが気づくはずもない。苛立ちながら足早に廊下を戻り、分室にたどり着く。秘書官であるシスター・ロレッタに、到着を告げようとして立ち止まった。
彼女のデスクの前に小柄な神父が佇み、デスク上の書類を指差して何やら言葉を交わしている。
「“ガンスリンガー”?」
呼ばれた機械化歩兵は書類から顔を上げた。無表情かつ端正な顔、その中でやはり、強い視線がユーグを射抜いている。
確か、彼の今日の任務は終日、ミラノ公付きのはずだった。ユーグが戻ってくると、ケイトから連絡は受けているであろうに、ミラノ公の傍らにトレスが控えていないのは、少し奇妙なことに思われた。
「ミラノ公は卿を待っている。速やかに入室を、“ソードダンサー”」
「君は?」
「俺はこれから任務だ」
「え…?」
急に外回りの仕事が入ったということなのか、それだけを言い捨ててトレスはシスター・ロレッタから書類の束を受け取り、普段と変わらぬ、揺るぎない足取りで歩き始める。
違和感だらけだ。そう思いながらもユーグはそれ以上を追求せず、執務室の扉をノックした。


執務室のデスクの向こうに、ミラノ公は先ほどと変わらぬ姿で、すらりと背筋を伸ばして着席している。書類からふと離れ、かすかに細められた剃刀色の瞳がユーグの面を一撫でした。
「……そちらにお掛けなさい、“ソードダンサー”」
書類をデスクの脇に押しやりながら、片眼鏡の向こう、やや冷たく見えることもあるその瞳が来客用のソファを指す。
「このままで結構です」
<どうぞ、神父ユーグ>
ヴン、というかすかな起動音と共に現れた立体映像が、なぜか気遣うように同じくソファを指差してみせる。
「……どういうことです?」
「神父ユーグ。貴方、今朝は熱を測りましたか?」
「は?」
あまりに意外な話題にユーグが言葉を失うと、女枢機卿は黙って、デスクの上の水銀体温計と砂時計をユーグの方に押しやった。


気前良く38度の目盛を超えた体温計を、ユーグが絶句して眺めている間に、シスター・ケイトはてきぱきと病院の予約を済ませてしまった。
「最近激務が続きましたからね。その状態では任務は無理でしょう、神父ユーグ。貴方たちには命がけの仕事を任せているのですから、少しでも体調がおかしいと思ったら、素直に申し出てもらわなければ困りますよ」
<そうですわユーグさん……Axはご無理されるお方ばかりですから、あたくし心配で>
教授がこの場にいたなら、「上司の無茶が部下に伝染したのかねぇ」とでも言うだろう。そう思ったが、ユーグは賢明にも沈黙を守った。自分のことを棚に上げっぱなしのカテリーナと、それに便乗してこっそり愚痴も混ぜているケイトにサラウンドで責め立てられ、一気に病もひどくなるような錯覚に襲われつつソファに沈み込む。
「申し訳ありません……本当に、気づかなかったもので」
「自分の頑丈さを過信しすぎです」
<ちゃんと休んでくださいまし>
年上の女性と年下の女性にいっせいに怒られて、ユーグは困惑した。ケイトはともかくミラノ公はおそらく、少しばかり喜んでさえいるに違いない。病弱かつ健康に無頓着な彼女は普段、体調のことで他人を叱る機会など滅多にないからだ。
「仰る通りです。すぐに病院に向かいます」
変にくすぐったいこの状況から一刻も早く逃れようと、よろよろと立ち上がる。執務室からとにかく逃げ出そうとして、ふと振り返った。
「それで、俺の任務ですが……師匠ひとりで継続されるのでしょうか?」
「いいえ」
ついでですからカテリーナ様もお熱を測りませんか、毎日の習慣にされたらいかがでしょう、などと、そろそろ困った方向に話題が変わり始めていた上司はこれ幸いと、ケイトに先んじて問いに答えた。
「既に“ガンスリンガー”を向かわせています。外で行き会いませんでしたか?」
「イクス神父を?」
ドアノブの冷たさに癒されながら、ユーグはその名を繰り返す。オーバーヒートを厭うあの人形の機体を、抱き枕にして共寝したら、さぞかしひんやりして心地良いだろう。逢えないのが残念だ、などと、しもしないことをぼんやり考え込んでいると、カテリーナの何気ない言葉が続いた。
「貴方の発熱を私に教えてくれたのは、彼ですよ」


「……彼、が……?」
廊下で行き違った時の、強い視線をユーグは思い出す。
じろじろと全身を眺め回されたあの瞬間に、ユーグの身体は、彼が思っていたよりずっと多くの数値を、測り取られていたのだろう。
脈拍、歩調、呼吸音、顔色、……そして体温。
「下手な気遣いより、彼のセンサーは確かなようですね」
<あたくし、ちっとも気づきませんでしたわ……申し訳ありません、ユーグさん>
人の良いケイトに真剣に謝られて、少なからず焦ってユーグは首を振る。間抜けなことにユーグ自身が気づかなかったのだ。ケイトが気づかなかったとて、謝られることではない。
「俺の体調管理が悪かっただけだ……貴女の謝ることではない」
優しい尼僧は決してそれで納得はしなかった。
<でもあたくし、これでも皆さんのお体については、ちゃんと気をつけてるつもりでしたのよ。いけませんわ……これが慢心というものなのですわね>
「……」
どうして自分は、かつて一度でも、こんな人たちのことを悪く思えたのだろう――その想いが羞恥の念を起こさせたか、熱のせいだけではなく頬に血を上らせて、ユーグは早々に扉を開ける。
そして逃げ出しかけて、それでは男らしくないと踏みとどまり、軽く一礼して視線を下げたまま、ぽつりと言った。
「その、……ありがとう。お二方とも」
「あら、」
<まぁ……>
「失礼ですけれど“ソードダンサー”、とてもワーズワース博士のお弟子さんだとは思えませんね」
<まったくですわ。教授なら死んでもそんな素直な言葉はかけてくださいませんもの>
「いや、その……し、失礼します」
まじまじと見つめられて今度こそ逃げ出し、扉を閉める。
赤い顔でふらふら歩き出すと、事情を聞いているらしいシスター・ロレッタが、「今、人を呼びますから」とおろおろしながら立ち上がったりして、ユーグはいっそう決まりの悪い、くすぐったい思いの泥沼にはまったのだった。


「そんなことがあったんですかぁ」
「まったく、情けない話なんだ」
熱は一日で引き、二日後には、ユーグは再び死線に向かって旅立とうとしていた。今日の相棒はアベルだ。気遣うような眼差しが、時折、確認するようにユーグの横顔を撫でてくる。
「仕方ないですよ、誰だって風邪ぐらい――」
「それだけじゃない」
「へ?」
優しい道化がきょとんと首を傾げてみせる、そのさまを横目でちらりと見返して、ユーグは苦笑した。
「勝手に周囲に期待して、勝手に周囲に絶望していたくせに……その実、俺は何も見ていなかったんだな、と思ったのさ」
うつむけていた視線を上向ければ、気づくことができたはずだったのだ。求めていたものはすぐそこにあり――……いじけていた、怯えていた自分を常に、誰かが見守り、気遣っていたのだということを。
実体を持たぬ立体映像の眼差しでさえ――感情を持たぬ視覚センサーの眼差しでさえ。
「あのねぇユーグさん、私思うんです」
悔悟の念に視線を伏せるユーグの傍らを、ゆっくりのんびりと大股で歩きながら、ゆっくりのんびりとアベルは笑う。
「本当に何も見えてなかったら、ユーグさん、期待もしなかったんじゃないかなって……いや私もね、ちょっと経験あるから、何となくわかるんですけど」
笑ったままの顔で、困ったように一度、天を仰いだアベルの横顔を、ユーグは見上げた。
愚かなほどに仲間を愛するこの男にも、周囲に――世界に絶望した過去があったのだろうか。時折、この冬の湖のような瞳に霜が降り、得体の知れぬ沼地のような澱みが浮かぶのは、その過去のためなのだろうか。
「だから……私思うんです。ユーグさんだって、ほんとはずっと気づいてたんですよ。みんなが貴方を大好きで……みんなが貴方を心配してるんだってことに。
 じゃなかったらどうして……あのトレス君に、期待なんかしちゃうもんですか」
感情なんかないって、あれだけ本人が言い張るのに、ね。
そう言葉を継ぐと、アベルは淋しそうに、おどけて肩をすくめてみせた。


「……そうかな」
ためらいなく銃を向けられた時の、あの衝撃をユーグは思い出す。
人形が持ち主の命に従うことなど、考えてみれば当たり前なのに。随分とそれを、根に持って恨み、拗ねて逃げつづけたものだった。
あの強い、無機的な眼差しが、殺意と敵味方信号の識別以外の何かを持っているのだということを、ユーグは知っていたからこそ、向けられた銃口を裏切りと感じていたのかもしれない。
「そうかも……しれない」
それはそれで、己の意固地な稚気が羞じられてならず、髪の毛をかきあげて表情を隠す。
「そうですよ、きっと」
淋しげな表情は一瞬で消え去り、道化はニコニコとユーグの顔を覗き込む。
その気遣いを、今度は二度と忘れまいと見つめ返し、ユーグはその視線を前方に振った。
視線の先、聖天使城に赴くのか、法衣をまとい、枢機卿杖を携えた女神――にもっとも近き女が、ゆったりと玄関を滑り出たところだった。
振り向き様に二人に気づき、ちらりと眼を細めて笑いかけるその眼差しに、ユーグは堅実に一礼を返す。
その背を見送ろうと、頭を上げて彼は気づき、かすかに笑った。


女神の傍ら、影のように寄り添って離れない、小柄な神父のあの眼差しが、今日も静かに、はっきりと――ユーグの全身を貫いていた。