偽りの善と偽りの心
「待ちたまえ、神父トレス!」
珍しく強い口調のアルビオン語が背中に当たったが、トレスは返答を保留した。拒絶するように扉を閉める。その瞬間、かすかな違和感が彼の視界に発生した。
人間の感覚に直すなら、それは「目眩」と言うべき違和感だった。だが、機械人形に本来目眩などは存在しない。
扉のノブに手をかけたまま、扉を――正確には、扉の向こうで苛立ちにパイプの吸口を噛み締めているであろう「教授」の姿を、説明を求めるように注視する。
「まだそこにいるね、神父トレス? 大人しく僕の言うことを聞きたまえ」
確信をもって、諭すように問いかけてくる声がした。扉の向こうに、脚を組み、椅子を回してこちらに真っ向から向き直っている影が見える。口元のパイプが、ひときわ強い熱源として、赤々と輝いていた。
「トラックに潰されるに等しい衝撃を、二度に渡って全身に受けているんだ。今の君はボディバランスに狂いを生じている。動けば動くほど、狂いは大きくなるだろう――照準すら合わなくなるほどにね」
とうとうと、不吉な未来を予測してみせた教授は、沈黙を守るトレスに、やや声を和らげて呼びかけた。
「戻ってきたまえ、神父トレス。この僕の手にかかれば、再調整などすぐに終わる――ミラノ公がリンゴひとつ剥くより、ずっと簡単な作業だ」
掌の下、握られたノブがかすかに回った。扉の向こうで、教授が身じろぐのをトレスの視野は映し出していた。
だが、ノブはぴたりと止まり、そして、回った分だけ、戻される。
「ガンスリンガー?」
いぶかしむような声には答えず、ノブから手を離し、扉に背を向ける。
彼にそうさせた原因は、廊下を歩む静かな足音だった。
常より少しペースが遅い。うつむき加減に歩いてきた人物は、ふと、ひとつまたたくと顔を上げた。
「……トレス君……? 教授に御用でしたか?」
「否定。すでに用件は済んでいる」
眼前の同僚の、その憔悴した面持ちには気づかなかったとでもいうように、トレスは冷淡に答えると、その傍らをすり抜けた。
「どちらへ? 君も負傷してるでしょうし、ちょっと休んだ方が――」
「支障はない(ノープロブレム)。入院中のヴァトー神父の様子を確認するよう、ミラノ公より要請を受けている。本日中に帰還する」
気遣うというより、どこか哀願するように言いかけた同僚――アベルの言葉を、珍しく途中で切って捨て、変わらぬ機械的な足取りでトレスは進む。
つらそうにその後ろ姿を見つめ、ひとつ嘆息して、アベルは教授の研究室の扉を開いた。
「――やぁ、アベル」
相変わらず、教授――ワーズワース博士の表情は掴めない。デスクに着席したまま、じっと、くゆる煙に身を委ねている。
「ま、かけたまえ……ケイト君とまでは行かずとも、それなりの紅茶は出してあげよう。生憎、我が研究室のお茶汲み坊主はどちらも不在だがね」
「お茶汲み坊主」が誰のことなのか、アベルは問わず、教授も説明しようとはしない。トレスとユーグが、教授のもとに預けられてまず習得させられたのが、「正しい紅茶」及び「健康的な朝食」の作成方法であることは、Ax内公然の秘密である。
義手の不調に悩み続けたユーグ、劇的に仕様変更した己の義体と戦うトレス、どちらにとっても、この繊細な課題がいかに難問であったかは想像に難くない。特にトレスは、まず生卵を潰さずに割る為に、かなりの時間を浪費したと聞いている。
トレスは一連の動作を問題なくこなせるようになった時点で、あっさりとその技能を圧縮して忘れ去ってしまったようだが、ユーグは家事が性に合ったのか、その後も時折、教授の身の回りの世話をこなしていた。
うず高く積まれた装備の向こうに、教授は消える。アベルは煙にまとわりつかれながら、客用の椅子に腰を下ろした。やがて紅茶の芳香が、煙草の臭いを圧しはじめるだろう。無数の時が沈殿し、静かに降り積もった、独特の空気。その空気を、アベルは好んだ。アベルだけではない。……もう一人、古い友人がこの部屋をよく訪れていた――……
「――教授」
相手の姿が見えないまま、アベルは細い声を絞り出した。
「何かね」
こぽこぽという優しい音。教授の声は普段と変わらぬ穏やかさだった。
何を言えばいいのだろう。何を言ったとて、もう、「彼」は帰っては来ないのに。
「……すみません」
そんな、もっとも陳腐な言葉しか吐けない己を、アベルは呪った。
「なぜ君が謝るんだ? 彼のことなら、誰もが最善を尽くした。……例外なく、誰もがだ」
「でも……でも、……何か……手だてが。他の道が、あったはずなんです」
膝の上に肘を押し当て、両手を組みあわせ、額をそこに押しつける。食いしばる歯が、ぎり、と音を立てた。
「私はそれを、見つけられなかった。……死なせて……しまいました」
この研究室の不器用な子供たちを、その子供たちを不器用に育てる教授を、微笑んで見守ってくれる人だった。うまく動かぬ義体に苛立ち、未完成のまま無理矢理己を酷使するトレス……そのトレスを優しく諭し、「貴方の身体は、主とミラノ公が、貴方に預けたものなのですよ」と自重を促したのは彼だった。血走った眼で宙を睨みつけ、果たせぬ復讐にがちがちと歯を噛み鳴らすユーグ……そのユーグの額に手を置いて、おだやかに祈り、翠の瞳を我に返らせたのも彼だった。
生き急ぐ子供たちをもてあまし、唇を噛む教授の傍ら、あの低く優しい笑い声を小さくたてて、「君には勝てないよ」と教授に苦笑させたのも、彼――……とても古い、友人だったのだ。今更「友だ」などと、当たり前すぎて言えないほどに。
目の前のテーブルに、紅茶のカップが置かれた。
「それでも、」
どこまでも物静かな、変わらぬポーカーフェイスの碩学が、アベルを見下ろしていた。
「それでも、アベル君。我々は、それが最善だったと思うしかないのだよ。……そうでなくては、彼を殺そうと銃をとった者に、なんと言ってやれるかね」
冬の湖水が、揺れて波立ちながら見開かれる。
「そりゃあ僕も、盲信が正しいとは思わない。だが、イクス神父も、ガルシア神父も、入力された命令の通りにしか動けないようにできているんだ。ボディの仕様であったり、大切な者の命のためであったり、理由は様々だろうがね」
食卓につき、朝刊を眺めて政情を語る時のような、そんな気のなさ――を、装って教授は淡々と答える。
だがその眼差しが、感情をうかがわせぬままに、ふと……アベルの蒼い双瞳を覗き込んだ。
「神父トレスがねぇ……ヴァーツラフから受けたダメージを、僕に見せようとしないんだよ」
ぎくり、とアベルの目元が強張る。何か言いかけたアベルを、ひとつ頷くことでやんわりと黙らせると、教授は屈み込んでいた腰をゆっくり伸ばして己のデスクへ向かった。
「彼にドップラーレーダーを組み込んだのは、僕だ。ヴァーツラフを殺すためにね。
僕は僕なりに、意思表示をしたつもりだったんだが……彼は何を意固地になっているんだろうねぇ?」
パイプを口元から離し、片手に携えたまま、肩越しに教授はアベルを振り返る。どこまでも穏やかな眼差しのままで。
「……どうして彼は、ヴァーツラフを殺せなかったのか……目下のところ、僕の疑問はそこに集約される。彼は迷わなかったはずだよ。そして……殺せるだけの装備を、僕は彼に与えたという自負がある」
「……おっしゃる通りですよ、ウィリアム」
アベルはソファに沈み込む。弾劾された罪人の面持ちで。
「あれは私の罪だ……トレス君を止めました。二回とも……
そして彼は……そのことによってダメージを受けたんです」
――どけ、ナイトロード!
荒げられた声だった。そんな声を、滅多に出す人形ではなかった。
その声を聞きながら、なお、アベルは立ちはだかり――敵を助け、人形を危機に陥らせたのだ。
「わかっています。あんなことをしちゃ、誰だって腹を立てるでしょう。自分より敵の命が大事なのかって……
でも……私はそうしてしまった。もう一度、同じことがあってもそうしてしまう。そして……敵と味方が逆になっても、きっと……そうするんです。どちらかを選んだ、わけじゃないんです」
悪戯をした生徒の告白を聞くように、やわらかな眼差しを向けて聞き入っていた教授が、ふと視線を落として小さく嘆息する。
「怒ってはいない、と思うがね。彼は、怒り続けるという機能を持たされてはいない」
だが――
「……傷つけたんです」
アベルは、祈りのように組み合わせた己の手を見つめていた。
「ヴァーツラフは死んだ……死んだ者と仲直りする手段は、いかに科学が万能と言えどまだ発見されてはいない。だが、彼は――神父トレスはまだ生きている」
彼は認めようとしないがね、と、肩をすくめて教授は己のデスクについた。トレスは己を「生きている」と表現しない。どこまでも「稼動している」のだと言い張る――あんなに、人間くさく傷つき、怒り、気遣うくせに。
「どちらも――どれも捨てることができないなら、重みで肩が抜けてもなお、抱え込みつづけるのもひとつの生き方だよ。僕はそんな、みっともない生き方をしたくはないが、……君の生き様は君の自由だ」
多くの友に先立たれ、今、また、もっとも親しい者に先立たれた紳士はそう言って、凪いだ眼差しをアベルに向けた。そうして彼は、己の子供たちをも見送らなければならない日が来るのかもしれない。生き急ぎすぎる――死に急ぎすぎる、愚かでかなしい子供たちばかりなのだから。
だが、言葉を継ぐ紳士の眼差しに悲愴感はなかった。
「それにねアベル君、僕は少し期待していることがあるんだ。僕の馬鹿弟子は、救い難く愚かではあっても、愛しいと気づいた相手を傷つけることだけはしないだろう。……彼はやっと、過去と復讐から自由になったんだ。そろそろ、周囲が見えてきても良い頃だよ」
「……そうですね」
教授とは対照的に、無理をしている、とわかる歪んだ眼差しで、それでもアベルは笑い返した。
重い、規則正しい足音を響かせて、トレスはゆっくりと歩を進めている。ボディバランスの悪化を懸念しているのか、歩みはやや慎重だった。
「剣の館」、その職員用の入口に向かい――足音が止まる。
「やぁ……おかえりなさい、トレス君……」
座り込んでいた長身の銀髪の神父が、よろよろと立ち上がり、へら、と疲れたような笑みを向けた。
「俺を待っていたのであれば用件の入力を」
いつものことだが、挨拶に特に返事はせず、ただそれだけを言ってトレスは更に歩みを進める。そしてアベルの目の前まで来て止まり、透明度の高い作り物の眼球で生真面目に見上げた。
「あの、……ユーグさん、どうでした?」
「特に問題なく回復している。用件はそれだけか?」
「いえ、……」
アベルは一度言葉を切り、じっと、無機的なその瞳を見つめ返した。生きている――彼の主張を受け入れるなら、稼動している。確かに、眼の前に人形は立っていて、アベルのことを見上げていた。
「……すみませんでした、トレス君」
アベルは囁いた。
「すみませんでした……」
「……謝罪の内容が不明だ、ナイトロード神父。用件はそれだけか?」
「それだけなんかじゃありません。メンテナンスを受けてください」
不意にアベルは手を伸ばし、必死の面持ちでトレスの腕をきつく掴んだ。
「ごめんなさい、トレス君、お願いです、メンテナンスを受けてください。お願いです、ねぇ、謝りますから、トレス君、お願いですから、」
「ナイトロード神父。一度発言を止めて落ち着くことを推奨する」
ゆさぶられて辟易したのか、トレスは自分を掴むアベルの腕を、逆の腕で更に掴んで軽く叩いた。はっ、と我に返って手を離し、だが、アベルはややあって、もう一度手を伸ばして、今度はトレスの手を握った。
「お願いです、トレス君……メンテナンスを」
恐ろしいほど真摯な眼差しで、眼の下には濃い隈を作って、普段のひょろひょろと痩せた姿をさらに尖らせ痩せさせて、何かにとり憑かれたように頼み込む銀髪の長身。まばたきをせぬ人工の眼差しは、それをただ、じっと見つめて動かない。
やがてトレスは普段と変わらぬ、抑揚の死に絶えた声で手短に問うた。
「俺がメンテナンスを受ければ、卿は満足するのか?」
「は……?」
「俺がメンテナンスを受ければ、卿は睡眠をとるのか?」
ハヴェルを喪ってより、ほぼ慢性的な不眠に陥っていたアベルは、湖水を映すその瞳を見開いてわずか、よろけた。
「どうして……それを」
「繰り返す。俺がメンテナンスを――」
「トレス君、それは、……それは違うでしょう、私なんかに関係なく君は自分の体を大事に……」
「交換条件として不当だと卿は主張するのか?」
「そうじゃなくて、……そうじゃなくて……」
「卿が睡眠をとることを確認したら、俺はメンテナンスを受ける。……妥当な交換条件だと判断する」
トレスが傷を癒すなら、同じようにアベルも傷を癒すべきだ、そう主張するつもりなのか――いや、そんな複雑な物思いをする人形だとは思えない。ただ、カテリーナの私兵たるAxの弱体化を憂いただけなのかもしれない。
それでも、……殺人人形のくせに、殺戮機械のくせに、どうしてこんなに、この存在は優しい思考をしてみせるのか。
よく躾けられた犬のように大人しく佇んでいるトレスを、泣きたい思いで見下ろし、だが、アベルはやっと、その瞳の中の凪いだ安定感に気がついた。
昼間に出逢った時に見えた、感情を持たないとされる人形が見せた、ほんのわずかな苛立ち――それが、今は消えて代わりに、穏やかな静けさがその瞳を支配している。
どっと安堵に襲われて、アベルはその場に座り込みそうになった。
――ああ、ユーグさんが。
何かがあったのだ。人形を癒し、人形に癒された、優しい何かがあの病院に。
泣きそうな顔のまま、アベルは笑った。情けない顔で笑っているという、自覚があった。
「トレス君……そんなこと言われたら、ホントに眠くなってきちゃいました、私」
ヴァーツラフがこれを、この人形とあの侍の優しい変化を見たら、物静かに穏やかに、だがどれほど喜んだだろう。
そう思えばそれがまた涙を呼んでしまいそうで、泣く資格がないと愚かに思い込む銀の道化は、眼を逸らし、その情けない泣き笑いの顔をトレスから隠した。
人形に手を引かれ、長身の神父は子供のように頼りなく、ふらふらと司祭寮へと向かう。
その姿を窓の一つから見送っていた人影が、やっと、安心したように背を向けて、口元の小さな灯りと煙を消した。