マーキング――表



小柄な同僚が、珍しくアポイントも取らずに部屋を訪れた明け方、ユーグは幸い、既に起き出して顔を洗っているところだった。
適当に僧衣を引っ掛けながら扉を開け、ぽつんと立ち尽くしている機械化歩兵を発見する。
「どうしたんだこんな時間に」
この同僚に限って、夜這いなどという素敵な理由であるはずがない。期待する己を叱咤しながら、ユーグは優しく、トレスを部屋に招き入れてやった。
部屋の中には入ったものの、戸口の辺りで立ち止まったトレスは、ユーグを見上げて話を切り出す。
「俺の機体にトラブルが発生した」
「君の機体?」
思わず鸚鵡返しに呟きながら、ユーグは眼前のその、かっちり僧衣を着込んだ身体を眺め回した。タオルを首に引っ掛けたままの、だらしないユーグの姿とは裏腹に、今すぐミラノ公の傍らにはべることができる立ち姿だ。もっとも、まだ朝の4時になったばかりな上に、ユーグは休暇中なのだから、トレスが怠惰を咎める資格はない。
「……どこも悪いようには見受けられないんだが……」
「嗅覚及び味覚が破損している。原因は不明だ」
「それは……」
ユーグは絶句した。五感に異常があるということは、生体部品の損傷の可能性もある。だが、トレスが心配していたのは自分の機体のことではないようだった。
「触覚センサーだけでは、空気中に毒物が散布された場合に判断しがたい。俺は本日06:00よりミラノ公の護衛任務に就く予定だった。卿にそれを委任したい」
まず自分の機体を大事にしろよ、と言ってもきっと聞きはすまい。いくら教授が不在とはいえ、そんな重大なエラーを発見してまだ、ふらふら歩き回っていることからも、それは窺える。ユーグは溜息をついて、この場での追求を諦めた。
「で、ミラノ公には?」
「卿の着任が可能なようであれば、今からシスター・ケイトに連絡をとってスケジュールを調整し、その後、ミラノ公の承認を得る」
つまり、彼女にはまだ何も話していない、ということだ。
突然のエラーにも、さすがにHCシリーズは困惑した様子がない。まずユーグの部屋を訪れたのは、稼動中の派遣執行官で唯一、ユーグだけが休暇中だったからだろう。
「――わかった、2分くれ。身なりを整える」
タオルを投げ捨て、ブラシを取り上げてトレスに放りながらユーグは僧衣を着込み始めた。
「俺の機体のことで卿に休暇を返上させた。謝罪する」
「いいさ、たまには俺に迷惑をかけてくれ――髪、頼む」
見る見るうちに身を整えるユーグの背に回り、トレスは受け止めたブラシで、その金の滝をくしけずる。ふと、この風景をアベル辺りが見たらさぞかしほほえましく笑うのだろうと、そんなことを思ってユーグはひとり苦笑した。
さほど広くもない部屋の中だ。一歩、二歩程度動けばすべて用が足りる。髪を縛る組紐、袖に仕込む隠し刃、手際よく身に着けていきながら、ふと、ユーグは寝台の傍らに置いた小さな瓶を手に取った。
ユーグの瞳と同じ翠色の、瀟洒なガラスの小瓶である。
「――ヴァトー神父、紐をよこせ」
「ん? ああ、すまない」
片手でその小瓶をもてあそんだまま、上の空で返事をすると、もう片手の組紐を手渡す。驚くべき手際のよさで、結った髪の端をくるくると巻いてピンと組紐で留め、「完了した」とトレスは無機的に宣言した。その間、1分52秒。
どこに出しても――たとえ世界一美しい枢機卿の護衛に立っても――何一つ恥ずかしくない、隙なく整えられた剣士がそこには立っていた。


「では執務室に向かいシスター・ケイトに連絡を取る。同行を、“ソードダンサー”」
「ちょっと待て、“ガンスリンガー”」
不意にユーグの手が伸びて、トレスの僧衣の背に触れる。
「ヴァトー神父?」
「ここ、汚れてるぞ」
ツツ、と、背から、わずかに露出した首筋にかけて這った手が、最後に右耳の後ろを軽くこすって、トレスの身体から離れていった。
「――手袋をどうした、ヴァトー神父」
嗅覚や味覚をシャットダウンされている分、鋭敏に設定した触覚センサーが、常より湿ったユーグの人工皮膚の感触を鮮明に伝えたらしい。トレスは振り返り、無表情にユーグを睨んだ。
「汚れると困るから取ったんだ……悪かったか?」
手袋をとった素手を、洗面台で洗い流しながら、心外げにユーグはトレスを見返す。
「――否定。問題はない」
手を綺麗に拭いて、赤き十字を染め抜いた白手袋をはめる、その優雅な手つきをしばしトレスは黙然と見守っていたが、やがて、背を向けて一足先に歩き出した。


ユーグはお召しがかかるまではと秘書室にとどまり、先に、トレスがミラノ公の執務室へと招かれた。淡々と己の不調を報告するトレスを、なぜかまじまじと見つめ、聞き終わってミラノ公は、ひどく納得したように頷いた。
「……そう……嗅覚がおかしいのね……よくわかりました」
「ミラノ公?」
打たれた相槌の意味がわからず問い返せば、優雅に立ち上がってミラノ公は、可愛い飼い犬へと頷いてみせる。
「早く身体を治しなさい、神父トレス。護衛の交替は承認します。“ソードダンサー”に入室して貰って構いませんよ」
「了解した。復旧のスケジュールは追って“教授”より連絡させる」
一礼して背を向けたトレスは、ミラノ公が一瞬、何かひどく物言いたげな眼差しを向けたことには気づかなかった。


「トレス君、鼻風邪ひいたってホントですか!?」
荒々しくドアを開けて飛び込んできたアベルを、この上なく冷たい眼差しでトレスは見返した。
「否定。俺の機体にそのような機能は存在しない」
「だって、トレス君、鼻詰まり起こしちゃったって……どうしちゃったんです?」
「常駐スタッフはセンサーの異常と判断。現在のところ、生体部品に問題は見受けられない」
「不便でしょう、気の毒に……ゆっくり休んでくださいね」
ここで、「卿が来なければ普通に休んでいたところだった」などと指摘するほどトレスの演算は毒に満ちてはいない。ただ彼は「肯定」とぶっきらぼうに頷いて、そして実験室の奥へと引っ込もうとした。
だがふと、規則正しく重々しいその歩みが止まる。
「――ナイトロード神父」
「へ? 何です?」
「俺の外見に、何か異常は見受けられるか?」
「……は?」
人の好い銀髪神父はきょとんと眼をまたたかせ、それでも、眼鏡を押し上げてかけ直し、じっとトレスを見つめてやる。だが、目の前に黙然と佇む機械化歩兵の、どこを見ても普段と変わった場所はない。
「別に、いつも通りの可愛いトレス君ですけど」
「本日05:34にミラノ公に面会してから14:08現在まで、すれ違う女性職員の82%が俺を振り返った直後に小声での会話を開始している」
「可愛い」の部分は無視してトレスは話を継いだ。
「えっと、……つまりひそひそ話をされてるんですね? なんででしょうね……って、」
アベルははたと言葉を切った。
確かに、ただひとつ、違和感を感じる箇所がある。しかもそれは……
「ナイトロード神父? 回答の入力を」
「えっと、外見……ってわけじゃないんですけど」
遠慮がちに首を傾げながら、クスン、とアベルはひとつ鼻を鳴らした。
「何だ?」
「その……もしかしてトレス君、昨夜か今朝、ユーグさんのお部屋に行きませんでした?」
「――肯定。なぜわかった?」
「えっとですね……」
言いにくそうに視線をそらし、アベルはもう一度鼻を鳴らす。
「ナイトロード神父?」
「ちょっと回りくどい話になりますけど、いいですか?」
「? 肯定。発言の入力を」
「ユーグさんのお部屋に、翠色の小瓶に入った香水が置いてあるの、知ってますか?」
確かにトレスはその瓶の存在を知っていた。それが香水の類だということも理解していた。トレスは嗅覚センサーも実に鋭敏だが、ユーグと同じ香水をつけている人間を、今まで他に嗅ぎ取ったことがない。ユーグは恋の伊達も華やかな、ブリュージュの上流階級に生まれ育った。その彼らしい、洗練されたチョイスなのだと思われた。
「あの香水って、市販のものじゃないらしいんですよ。昔ね、ユーグさん、有名なデザイナーさんに頼み込まれて、一回だけファッションモデルをやったことがあるんですって」
「肯定。そのエピソードは俺も確認済だ。ミラノ公経由の依頼のため、“ソードダンサー”は任務としてそれを拝命したそうだが」
「そのお礼に、デザイナーさんの会社に作ってもらった香水が、あれなんです。ユーグさんのイメージで作られた香水だそうですから、あれと同じ匂いつけてる人って、ユーグさんしかいないはずなんですよ」
「肯定。理解した。それで、今の卿の話と俺の外見上の異常のどこに接点がある?」
「ですから……」


困ったな、と言いたげに頭をかき、トレスより20センチ以上背が高いくせに、すがるように器用な上目遣いでアベルは機械人形の同僚を見つめた。
「……トレス君、その匂いつけてるんですよ、今」


「ウチの女の子たちだったら、みんな知ってますからねーユーグさんのあの話って。だからトレス君にユーグさんの残り香が移ってたら、そりゃ黄色い声で噂もしたくなると思うんですよ。だってユーグさん、任務中って滅多に香水つけないですし――」
「“アイアンメイデン”」
心なしかひんやりと冷え切った、トレスの声だった。
<何でしょう、神父トレス? まだ休まれてらっしゃいませんの?>
「“ソードダンサー”は今何をしている?」
<え、ユーグさんでしたら、今ちょうど、カテリーナ様の護衛を終え――>
「交替次第、俺が面会を希望していると伝えろ」
<は? な、何がありましたのトレスさ――>
「交信終了」
一方的に通信を切って、無言でトレスは僧服の留め金を外し始める。
「……ト、トレス君……? あの、何で服脱いでるんですか……?」
「機体を洗浄する」
「いや、ちょっと待ちましょうよ……何でですか? ユーグさんの匂いが染みてるのはそんなに嫌なんですか?」
「否定。だが前回の洗浄以降、体臭が移るほど密着した記憶はない。事実に背離する噂は承認できない」
事実に背離してなかったらいいのかな、と一瞬思う暇もなく、勝手知ったる実験室で素っ裸になろうとするトレスを、羽交い絞めにしてアベルは止める。
「ちょ、ちょ、ちょっと、待ってくださいってばトレス君! 暴れないで! 風邪ひいてるのにお風呂なんて入っちゃだめですってば!」
「否定。俺は故障しているだけだ。『病』ではない」
「あーもーちょっとスタッフ呼んでくださーいケイトさー――…………」
不意に、何か恐ろしい力に喉を締め上げられたかの如く、アベルの声は凍りついた。
アベルを振り回し振り払いながら、普段は一分の隙もない僧衣をあられもなく乱れさせて、トレスはアベルが声をひきつらせて凝視する方向を、同じく振り返る。
そして至極冷たい声でひんやりと、振り返った方向にいた人間の名を呼んだ。
「用件の入力を――ヴァトー神父」


「……用件……って」
心なしか息まで切らせ、全力疾走したのか絹糸のような金髪を乱し、開け放した扉のノブを捻じ曲げてカタカタ震えさせ、その場に仁王立ちになった剣士の声は、驚愕と焦りで哀れにも掠れてしまっていた。
「俺を呼びつけたのは君じゃないか“ガンスリンガー”! 何を半裸でアベルと密着しているんだ!」
「そんなおっきい声で恥ずかしいこと言わないで下さいユーグさん!」
まず事実を否定するべきだったのだろうが、とっさにアベルは顔を真っ赤にして恥じらってしまう。チキ! とユーグの手元で古風な鍔鳴りの音が走り、トレスの手は、脱げかかった僧衣の袖をまとわりつかせながらジェリコM13を抜き放っている。
「ああああのですね、そんな刃傷沙汰になるようなことなんですかこれって!?」
「勿論。さぁ、こっちに来て、服を着るんだ……“ガンスリンガー”」
即答と同時に、怒りに震えんばかりの低い低い声で、ユーグはやんわりと囁いた。
「着衣において卿に接近する必要性が認められない、“ソードダンサー”」
身の危険を感じたのか、トレスは先刻まで振り回していたアベルを、今度はがっしりヘッドロックの体勢で捕まえたまま放そうとしない。僧衣も脱げかけた胸に頬を押しつける特権を得ても、半分首が絞まっていては嬉しさ半減である。アベルは泣きじゃくりながら、力なくうめいた。
「どーでもいいから、扉、閉めてくださぁいユーグさん……」
「…………わかった。君もアベルを放せ、イクス神父」
さすがに、先刻の己の大音声には、反省の念を抱いたのだろう。ユーグはノブの歪んだ扉を丁寧に閉め、改めて、扉に寄りかかると二人をじっと眺めやる。同時に、トレスはゆっくりとアベルの首から力を抜いた。
「はぁ、いつものことですが死ぬかと思いました……トレス君のお肌はほんとにすべすべですねぇ」
余計な一言でユーグの眉を吊り上げさせたことには気づかず、アベルは一瞬で回復するとほくほくと思い出し笑いをする。それを尻目に、どこまでもマイペースにトレスは脱衣を再開しようとした。
「だから、“ガンスリンガー”――」
「それ以上接近するな、ヴァトー神父。会談はこの距離を保持して行う」
「勝手に決めるな! 俺だって君に密着したいんだ」
心の底から大真面目で――むしろ必死で主張するユーグに、がくり、とアベルはその場で膝を折った。そのぐらいストレートに言い募らないと、かの機械人形には通じないのだろう。それは理解できるが、いかんせん、主張の内容があられもなさすぎる。
「おお、主よ、何かもうこの人ダメダメです……」
アベルの嘆きは意に介さず、やや視野狭窄のてらいのある剣士は心の底から真剣に主張を繰り返した。
「いいか“ガンスリンガー”、俺は君に代わって休日返上で働いているんだ。その俺を拒絶しておきながら、そんな熱烈にアベルを抱きしめることが許されると思っているのか?」
「どこをどう見たらあのヘッドロックが熱烈抱擁に見えるんですか! 機械化歩兵の腕でヘッドロックって熱烈すぎますよ!」
「ああむしろ熱烈であればあるほど歓迎するさ俺は!」
倒置法と身振りつきで派手に嘆かれると、そのけれんみこそさすが教授の弟子、という気がしてきてアベルは、思わず口を開けて見惚れてしまった。教授がその感想を聞いたら、普段のポーカーフェイスを崩してさぞや嫌がったことだろう。
「ナイトロード神父、反論を」
機械のくせに、自分で反論することが面倒くさくなってきたのか、あるいは反論不能と悟ったのか――とりあえず前を開けっ放しの状態で脱衣を中断し、トレスは無表情にアベルを促した。
私ですか!? いやですようえーん、と嘘泣きで切り抜けようとしてアベルは、トレスの手に厳然と、ジェリコM13が構えられたままであることに気づく。
「……わかりました、わかりましたよトレス君……そうですね君は病人ですもんね……その割に随分と元気ですけどねあはははは……」
嘘泣きのつもりが、本当に涙がにじんできてアベルはトレスをよろよろと抱きしめた。また、ユーグが何か言いたげな素振りでじれったそうに身じろぐ。普段、そんなにジェラシーをあからさまにしない――というより、トレスが愛されてさえいれば基本的に文句は言わないユーグの、身勝手な変貌ぶりにアベルは眼を見張った。
その鼻を、トレスの身体からただよう香りがふわん、とくすぐる。
――あ、もしかして。
今にもトレスとアベルの間に割って入ろうとでもするかのように、苛々と二人に歩み寄るユーグをちら、と見てから、アベルはぎゅう、とトレスを抱きしめて首筋の辺りに鼻を擦りつけた。
「アーベール!」
「近づいちゃだめですよユーグさん。トレス君、ユーグさんの匂いが移るの嫌なんですって」
「なっ……!」
ユーグの香水は、トレスの首筋辺りからきつく香ってくる。やはりユーグが何か悪戯をしかけたらしい、と知ってアベルは心中、ふふん、と鼻を鳴らした。普段、この二人の惚気や痴話喧嘩の被害を受けっぱなしになっているアベルとしては、今、この瞬間のユーグの衝撃の表情はちょっとした復讐の快感を与えてくれたのだった。
「イ、……イクス神父……?」
何もそんなに衝撃を覚えなくとも、という勢いでユーグはよろりと後ずさる。剣士の眼にけっこう本物の絶望が浮かんでいたりするのを確認し、人の良いアベルの、復讐の快感はみるみるうちにしぼんでしまった。
そろそろとトレスから手を離し、アベルはかにのように横に歩いて戸口へと向かう。
「えっと……そのぅ、トレス君あとはお任せしちゃったりしてもいいですかね?」
「『任せる』? 発言の意図が不明だ、ナイトロード神父――どこに行く?」
「いえいえ、後は若い人たちに任せてとかいういわゆるその……失礼しましたぁ!」
あまりの居心地悪さに、思わず爽やかにそう言い残して、アベルはがたがたと、歪んだノブを無理矢理回すと部屋の外に逃げ出した。
後にはこの世の終わりのような悲愴感をたたえたユーグと、反応を選べずに固まって沈黙したままのトレスが残される。
「……ヴァトー神父?」
完全な無表情を保ったままの……だがどこか、あやすようにも聞こえる処理速度の遅さで、トレスはユーグの名を呼んだ。
「…………」
ユーグは黙って眼をそむけ、顔を俯ける。
「ヴァトー神父――俺は特段、卿の体臭や使用している香水に拒絶を示しているわけではない」
ここで譲歩しないと、部屋を出てユーグは手首でも切りかねない――義手だから切っても問題はないのだが。とにかく、ある意味、扱いにくい子供を扱うように下手に出てやったトレスに、ユーグは顔を背けたまま陰鬱に言い返した。
「いいんだよ、神父トレス。そんなに気を遣ってもらわなくても。今朝、身支度を手伝ってもらった時に匂いが移ったんだとすれば、それは確かに俺のせいだな……さっさと着替えて丸洗いすればいい。そうすれば君は俺の匂いから自由になれるんだ」
客観的に見ればただの移り香なのだが、目もくらむ美形が大げさに、シェイクスピアの古典劇の如くよろめきながら嘆くとそれは実に絵になる。……絵になったとて何の実益もないのだが。
こんなところだけ、教授やアベルの悪知恵を踏襲しているユーグの虚実が、稼動して5年のトレスに看破できるはずもない。その情感的な振舞には何ら感慨を覚えなかったものの、機械らしい几帳面さで、誤解を解かなければ、と躍起になった時点でトレスは、ユーグの術中にしっかりはまっていた。
「否定。気を遣ってはいない。俺は事実を述べている。ただ卿と俺の間にスキャンダルが発生することを懸念しただけだ」
「スキャンダル?」
「着席を推奨する、ヴァトー神父」
世話焼きの機械化歩兵はユーグの腕を引っ掴み、とにかく話を聞くまで部屋に留め置くべく、客用の椅子に押しつけようとした。
だがユーグはそれを肯んじず、立ったまま、開けっ放しのトレスの僧衣の前を、背後から抱きしめるようにして合わせてやりながら尋ねた。
「つまり、こうして密着したり身体を重ねあったりして匂いが移ったんだ、と邪推された?」
「ナイトロード神父はそう主張している。……卿が意図的に行ったことではなかったのか?」
「俺が? どうして?」
そういかにも不思議げに尋ねられると、確かに表立っての根拠はない。トレスはシステムに混乱を覚えて沈黙した。アベルがこの場に残っていたら、瞳孔や脈拍まで完璧に律してのユーグの発言に、畏怖の念を覚えたことだろう。愛の力とは恐ろしい。
その邪気なさげな言動のままに、ユーグは背後から、トレスの首筋に軽くキスをして囁いた。
「――まぁ、多少邪推されたって、俺が光栄に思うことこそあれ迷惑に思うことなど決してないのは、事実なんだが」
優しくそう言われて、それならばさほどの問題ではないのだろうか、とトレスの演算はそちらに傾く。戦場で、敵を前にしてジェリコM13を使うか、追加兵装の火炎放射器を使うか、と聞かれれば即答できただろう。だが、このように曖昧で人間的なケースになると、彼の稀有な演算能力は途端に退行してしまうのだった。
「これからスリープに入るんだろう?」
「肯定」
「起きて教授に診ていただいて、故障箇所を確認してから洗浄しても遅くないんじゃないか?」
「? ……」
提案を検討するような、二秒ほどの沈黙が流れる。やがて世界一有能な――少なくとも客観的に見て有能なはずのはずの機械化歩兵は、ユーグの匂いをすり込まれた僧衣を元通り着込みながら、
「肯定」
とぶっきらぼうに頷いたのだった。


結局、トレス・イクスの機体調整責任者として、帰還後即日、各方面から苦情を受理した教授がパイプをひねりながら一言、
「嫌がっているようだったら、まだ僕にも対処の仕様があるんだけどねぇ……」
と、実に複雑な表情で眺めやったその視線の先には、やっぱり、世界でただひとつきりの匂いをさせた機械化歩兵が、修理を求めて行儀良く、診察台に腰掛けて彼を待っていたという。