君と迎える小さな死/後編



アベルと談笑しているらしい教授を待って、トレスとユーグはそのまま実験室に落ち着いた。さすがに身体が重くなってきたユーグが椅子に沈みこみ、溜息をついて床を見つめ――顔色を変えてトレスを見上げた。
「神父トレス」
尖った声で呼ばれて、実験室の奥、己の簡易ベッド――というより手術台の仕度をしていたトレスが、機械的に振り返る。
「漏れてる」
ユーグは手短に指摘すると同時に、椅子から優雅に跳ね起きてトレスに歩み寄った。トレスは床を点々と赤黒く汚した染みを見やり、自分の腹を見やった。とうとう、応急処置をしておいた腹から皮下循環剤が染み出してきたものらしい。
「早く脱げ」と急かしながらイヤーカフスを叩き、シスター・ケイトを呼び出す。治療室の手配を頼み、教授を呼び出しながら振り返ると、トレスは上半身のみ裸になったところでユーグを眺めていた。
「何を恥ずかしがってるんだ? 膝も悪くしたんだろう、さっさと全身脱いで横になるんだ。すぐに師匠が来る」
「ヴァトー神父」
床をこれ以上汚さぬよう、無造作に腹に僧衣を巻きつけながら、トレスはユーグを見上げる。「横になれって」とその身体をベッドに押しつけながら、それでもユーグはトレスを見返して言葉を待った。
横たわりながら開いた口、一筋、ツツ、と、漏れ出した循環剤が伝う……それも知らぬげにトレスは尋ねた。
「俺の性衝動の欠落は、卿に何らかの不利益をもたらしているか?」


ユーグはしばし唖然としてトレスを見返した。
口の端から血を垂らして問われる台詞ではなかったし、HCシリーズに問われる台詞でもない。人間的に、極端に短く要約するならばその言葉は、「私と寝たい?」ということになる。トレスの問いは、あらゆる意味でユーグの意表をついていた。
「ヴァトー神父?」
横たわったままのトレスの顔は、当たり前のことではあるが、完璧に無表情かつ生真面目だ。見つめ合っているうちに、今さらながら、ユーグは眼前の人形のことがひどくかなしく思えて眉を寄せた。
各種センサーを重ね合わせた無機的な眼差し、銃弾を通さぬ冷ややかな皮膚、総ギミック込みで200キロの重量を誇る身体、……そして10体のクローン・ベビーのうちの1体として、試験管から取り出された生体部品――大脳と小脳。
そのどれひとつとして、人を殺すため以外に作られたものはなく。そのどれひとつとして、誰かに愛されるために生み出されたものはなく。
……その器官、その感覚、その細胞のどれひとつとして、何かを楽しむということを許されてはいない。
「そうだな……」
言葉を選びながら、ユーグはベッドの縁に腰掛け、指先を伸ばしてトレスの口元を拭った。
「ヴァトー神父? 回答の入力を」
「俺は別に、君と肉体的に愛を交わすことに拘泥してはいないんだ。ただ……」
言いかけて口をつぐむ。トレスはしばらく待機することにしたのか、それとも余計な演算を使いたくなかったのか、聞き返すことはせず、黙ってユーグの言葉を待っていた。
別にユーグは、トレス「を使って」肉体的な充足を得たいわけではない。だが自分を機械だと認識しているトレスにとって、先刻のユーグの答えは、トレス・イクスという「道具」を「あれば使うし、なければ使わない」と答えたように聞こえたのかもしれない。
「……ただ……」
嘘でも「男性型サイボーグとセックスなんてするもんか」と言えれば良かったのだろう。だが決して「したくない」わけでもなかった。「しなくてもいい」だけのことだ。……それを人形が理解できるとは思えなかったが。
ユーグの答え如何によって、どう反応するつもりなのか。愚かなサイボーグはユーグの答えを待っている。
手で拭ったせいで、逆に汚れてしまったその口元に、ユーグは唇を近づけ、赤黒いその汚れを舌で湿して舐め取った。
「ただ、俺にとってはもう……何もかもがどうでも良くなっているのかもしれない。君が人間でも人形でも、男でも女でも、感情があってもなくても――何でも構わないのかもしれない」
「……理解不能だ、ヴァトー神父」
「そうだろうな」
皮下循環剤の苦さのせいか、ユーグの口元が歪んだ。
「神父トレス……俺は一度死んだんだ」
「卿は生きている」
「死んだんだよ」
汚れのせいで常より赤い、その唇もユーグは舐めた。
「ブリュッセルで、ブリュージュで、君を殺し、俺も死んだ。……殺し殺されることに、偶然失敗しただけで、俺の心は本気で君を殺し、君の思考は本気で俺を殺した。『死』は最大の絆であり交わりだ。それを与えて……受け取った」
汚れを拭うように下唇をついばんで、ユーグは優しく――少しだけ、何かを間違えて歪んでしまった、そんな優しさでトレスに囁きかける。
「本物の『死』に比べたら、たかが『小さな死』がどれほどのものだと言うんだろう?
 今さら、俺がそんなものに依存すると思うか? 神父トレス……“ガンスリンガー”」


間近で炯炯と輝く翠の瞳をうつろに眺めたまま、それでもトレスは、何かを言おうと口を開きかけた。
だが、
「君たちの愛は僕もそれなりに理解したつもりだが」
ユーグが飛び上がって振り返ると、どこまでも見事なポーカーフェイスで片手のパイプを弄う、ユーグの剣の師匠が本棚にもたれて佇んでいる。
「マ、……マスター!」
「うん、そうだよ、君と言う不埒な弟子を持った気の毒な師匠だ。ケイト君のエマージェンシーに急かされて飛んできてみれば、床は点々と汚れているし、ミラノ公の大事な猟犬は壊れかかっているし、しかもアムール王国からの刺客が文字通り唾をつけているし」
「すみません、本当にすみません、申し訳ありません」
平謝りに謝りながら、ベッドから飛び離れる。師匠が本気で怒ってはいないということは感じ取っていたが、それでも、これは確かに不埒な行いだった。
「とりあえずメンテナンスの邪魔になってもなんですので、一度俺は失礼します」
いたたまれずに――ある意味、神父トレスを見捨てて――部屋を飛び出そうとしたユーグは、不意に後ろ髪を掴まれて無造作に引き戻された。
「痛ッ……師匠!?」
「ついてるよ」
何が!? と咄嗟に問い返しかけたその時には既に、真面目くさった顔の教授がぺろりと、唇の端を舐めている。
「口紅と間違えた尼僧が黄色い声で囃し立てるといけないからねぇ。ちゃんと口はすすいで行きたまえよ、ユーグ。あと、40分後には君の義手を見るから戻ってくるように」
いつまでたっても、掌の上で転がされっぱなしの師匠に何を口答えできるはずもなく、ようやっと「すみません……」ともう一度謝ってユーグはふらふらと、実験室の扉に向かう。
「ああ、それともうひとつ」
その背中に教授が何気なく、熟練の刑事のように声をかけた。
「な、なんでしょう?」
振り返らずに肩をびくりと怯えさせれば、
「HCシリーズは、ただでさえ壊れやすい機械化歩兵なんでねぇ……
 『小さな死』が得られないからと言って、『大きな死』をたやすく誘うのもどうかと思うよ?」
実に何気ない念押しだった。
ユーグは振り返り、片手に携えた刀を胸に押し当てるようにして構え、深々と師に一礼する。
「既に殺されている身です。もう二度と、殺し合うことはありません」
「……行ってよろしい」
口頭試験を終えた生徒を見る眼差しで、教授はその金髪を眺めやり、ひとつ頷いた。
横たわったままのトレスが、その横顔に声をかける。
「ワーズワース博士、『小さな死』とは何らかの隠語なのか? それとも損害の程度を表現したのか?」
「うん? ああ、フランク語には『小さな死(プチ・モール)』という暗喩表現があってね」
「語義は何だ?」
教授は目を細めてトレスを振り返る。
「語義は……いつかユーグが教えてくれるだろうから、それまで待っていたまえよ」
「それは俺にアクセスの権限がないということか?」
「権限がないわけじゃないが……」
言いながら、教授はパイプの火を消し、デスクの上に置いた。しみじみとトレスを眺め回し、だが、不審を抱かれる前に「そろそろ始めようか」と声をかける。
「肯定」
教授の明晰な頭脳が、投げかけられた質問を忘れるということは基本的にありえない。彼が答えない時は答えたくない時なのだ――それを学習しているトレスは、それ以上のことを聞こうとしなかった。


機械化歩兵用のストレッチャーに横たわり、トレスはスリープに入っている。治療室まで歩く力がなかったらしく、頑迷な人形は珍しく、教授の提案に反論しようとしなかった。
『それは俺にアクセスの権限がないということか?』
無表情に、だが、抗議の意思を確かに込めて、問い掛けてきたあの言葉。
教授以外の誰が聞いても、聞き逃していたことだろう。以前のトレスなら、比喩表現の――特に暗喩表現の学習にはまったく意欲を見せなかった。そうでなかったら、「罪作りな男」の意味ぐらいは知っていたはずである。
だが彼は、「小さな死」の意味を知りたがった。……それは間違いなく、ユーグがトレスの耳に囁けばこその、生じた欲であった。


「――君にもいつかは『小さな死』が訪れるよ、神父トレス。機械仕掛けの身体ではなく、君の生身の、この脳がそれを知るだろう」
眠る人形の額にそっと、手を置いて教授は囁きかける。
「そしてそれを教えてくれるのがユーグであることを、僕は僕の愚かな弟子のために祈ろうか」
教授の言葉を受け入れることなく、人形は呼吸すらせぬままに眠り続ける。
その、生命の気配絶え果てた静かな寝顔は、まるで、優しく小さな死の中に横たわっているかのようだった。






『小さな死』。


……フランク語において時に、性感の頂点を指す言葉である。