餌ならぬ偽の血



詰所の窓際に佇み、外を眺めて微動だにしない、そんな小柄な新入りの背中を、兵士たちは薄気味悪げに眺めやった。吐く息の白い東欧の夜だというのに、窓に吐きかけられているはずのその息は、硝子を曇らせすらしなかった。
「新入り」――といっても、実際には兵士たちの上官である。あの小柄な若者は、数日前に突然、入隊と、ジュラ卿への面会を求めて彼らの眼前に現れた。ジュラ卿への紹介状は、おとなしく取り次いでやったものの――取り次がなかったことが知れた時の主君の叱責は、想像するだに恐ろしかった――、入隊希望なら、自分たちの部下になるべき弱者だ。そして、彼らは当然のように、弱者は護るものではなく虐げるものだと認識していた。
端正な顔と整った身体と、いかにも活きのよさそうな若さを備えた小柄な若者は、悪質な軍隊の常として、彼らの歪んだ欲望のために供されるべきものだった。よくしつけられた犬のように、大人しく、取次ぎを待つ若者へと、嗜虐的な眼をした伍長クラスの兵士たちが詰め寄って絡んだ。そして、冷たさすら含まぬ無機的な、無関心な返答を若者につき返されて、逆上し、泣き喚かせようと拳を振り上げた。
一兵士になど滅多に逢おうとせぬジュラ卿からの、呼び出しの命令を携えて、伝令が戻ってきた時にはすでに、室内に立っているのは、コートの襟すら乱さぬままに、至極無害げに、大人しく待機している若者ただ一人だった。胃液や血にまみれて転がりうめく男たちの、狭間に森閑とひとり立つ、その若者のうつろな眼差しを見て、伝令の兵士は長く、理由の知れぬ悪夢にうなされたものだった。
……そして一晩、血の丘にとどめ置かれ、仮面のような無表情を崩さぬまま、与えられた軍服を着て戻ってきた若者――……その襟には燦然と、少佐の階級章が輝いていたのだ。
「イクス少佐ぁ」
面倒くさそうに、無線機から顔を上げ、兵士がひとり、新入りの少佐の名を呼んだ。
兵士たちが気がつけば、何の気配もなく、彼らの上官は振り返って通信兵を見つめていた。つくづく気味の悪いガキだ、と思いつつも、命令違反さえしなければ、この若き上官は恐るべき無関心さで自分たちを放置してくれるのだと、兵士たちは既に把握するようにはなっていた。
「ジュラ様がお呼びですぜ。晩飯に陪席しろってお達しでさぁ」
「了解した。――運転を」
誰もが本能的に恐れる彼らの主君の名を聞いても、少佐の表情は一筋たりとて動くことはなかった。もっとも手近な場所にいたひとりの部下に、車の手配を一言で言いつけた時には、既に小柄な身体は動き始めている。
その背中に、無遠慮な問いがかけられた。
「少佐殿、今夜はジュラ様んとこに『お泊り』で?」
揶揄するような――だが、どこか神経質に上ずった声に、機械的なその歩みがぴたりと止まった。「おい」と別の兵士が、発言者をつつく。振り返った端正な顔は、やはり空恐ろしいほどの無表情のままに、頬を笑みの形にひきつらせている部下を見上げた。
「――それを決定するのは俺ではない、ユバール伍長」
「ジュラ様のお気に召すままに、ってことですかい?」
「よせって!」
酔いでもしたのか、青ざめた顔で執拗に問いを重ねる伍長を、本気で周囲が止めにかかる。まるで他人事のようにそれを眺めやっていた少佐は一言、
「肯定」
と言いきって扉を抜け、廊下へ出て行った。
重苦しい沈黙が、取り残された部屋を支配する。
「……き……気取ってやがる、ケツ差し出して少佐になった若造が」
「まったくだ。泣き声で給料貰ってるくせしてよ」
冷え込んだ空気を無理矢理盛り上げるように、部屋の各所から、そんな声があがる。それは、湧き上がる恐怖心を払いのけたいがための悪口でもあった。彼らは、あの人形じみた上官が恐ろしかった。あのほっそりした小柄な身体の下に、何か、おぞましい――人外の力が宿っているのではないかと、彼らはそんな、迷信じみた恐怖に囚われているのだった。
それは、あの上官ひとりのせいだけではなく……おそらくは、彼を気に入り、寵愛していると言っても良い、彼らの主君の存在のせいでもあったろう。「テラン」など家畜程度にしか認識していない、彼らの冷たく恐ろしい主。闇の眷属の、冷たい手が這う肌ならば、その下にもまた、人外の化物が隠れているに違いない。……数秒で、二十人の兵士を戦闘不能に陥れるような化物が。
「……ユバール伍長、さっきは急にどうしたんです?」
比較的落ち着いていた、ひとりの兵士が、先ほどの伍長に問い掛ける。そしてその兵士は、椅子に座り込んだその伍長が、ひっきりなしに貧乏ゆすりをしていることに気づいた。
「伍長?」
「……お前ら、少佐の首、見たことあるか?」
「首?」
「何言ってんです急に」
「いつもスカーフ巻いてるじゃねえか。お前見たのか?」
口々に問い返す兵士たちを、震える膝を貧乏ゆすりでごまかしながら、伍長は暗くよどんだ眼でねめつける。
「多分ありゃ、俺の見間違いだ。そうだとは思うんだが。だがな……」
「もったいぶってんじゃねえよ!」
重苦しさに耐えかねたひとりが怒鳴りつける。伍長はがたりと、椅子を蹴って立ち上がった。
「うるせえ! てめえだってあれ見りゃ俺みてえになるだろうよ!」
血走ったその眼つきに驚いて部屋が静まり返れば、激した勢いを借りて男は一気にまくしたてる。
「ああそうさ俺ぁ見たんだ。暗かったが間違いなく見たんだ! あの少佐のスカーフがゆるんで首が、……首に二つ、小さな黒い孔が……ぽっかり空いてんのを見たんだよォ!」


もはや言葉もなく黙り込んだ、その場の兵士すべてが想像したことだろう。
あの端正な若者が「陪席」させられる、夕食の場に食卓などはなく。
ただ差し出されるのは、すでに何度も穿ち直された醜い傷を、張りつけたままの白い首。
そして美しい両手がそれを包み込み、引き寄せ、わななく唇がそこに落ちる――……


吸血鬼は、気に入った人間の血は少しずつ、幾度にも分けて楽しむという。
彼らも見せつけられたことのある、あのおぞましい「食事」のシーン。
一度でも耐えがたいあれを、愛しい者には何度も何度も繰り返し、与え、打ち込んで恐怖と悦楽をすすり尽くすのだ。


震えるひとつの手が、切ったこともない十字架を切る。
夜勤を終え、朝日が化物の時間を駆逐するまで――彼らは、かすかな眠気さえ許してもらえそうにはなかった。






「――愉快な噂を聞いたよ。私が夜な夜な、君の血を啜っているという」
言われるがままにスカーフをほどき、その白い首をさらしながら、イクス少佐は彼の飼い主の顔を見返した。書類の文面から顔を上げ、「面白くないかね?」とでも言いたげに、ものうく主は彼を見つめている。
「夕食に陪席を」と言われても、一度も、「食事」中のジュラ卿の傍らに侍ったことはない。大抵、ジュラはすでに「食事」を終え、書斎に引き取ってひとりの時間を過ごしている。冷たき空気と冷たき皮膚をまとった少佐は、オートマタに導かれて、その書斎へとひとり、丁重に通されるのだった。
スカーフの下から現れた、白い首には不似合いに無骨な二つの黒く穿たれた穴――……端子接続用のポッドを露出させたまま、イクス――トレス・イクス少佐は冷徹に答える。まさか、その「穴」が噂の出所だとは思いもしないだろう。
「卿が『吸血鬼』であることはいわば公然の秘密だ。そして俺は『人間』として機体を擬装している。その俺が卿に重ねて召喚されれば、吸血行為を受けているという連想はありえる」
この少佐はいともたやすく、面と向かって主を『吸血鬼』と呼ぶ。そしてその声は恐ろしく無感動だった。なぜかジュラは、その呼称を咎めたことがない。蔑称であるなら咎めただろう。だが、この人形めいた短生種が――いや、「短生種めいた人形」が、どんなものであれ「感情」をジュラに向けたことは一度もなかった。
「上着も」
スカーフをたたんで椅子に横たえた少佐に、ジュラは物憂いままの声をかける。
「ジュラ卿?」
「今日は上着も脱ぎたまえ。その下のシャツもだ」
「――了解した」
命令の意味は理解できずとも、従うことに異議はなかったのだろう。従順に軍服のボタンを外していく人形兵士に、さらに、主は言葉を付け足した。
「……それからその眼の擬装もとりたまえ」
軍服を脱ぐ手は止めぬままに、少佐は主人を見つめ直した。
だがコンマ数秒の躊躇は、絶対者に対する命令を受諾した証として、その目立たぬ茶色の眼差しを、塗り替えたような漆黒へと変じさせる。そしてその中にまるで星の如く、演算のオレンジの光が忙しく瞬いた。
「こちらに」
すべてきちんとたたんだ上着とシャツを、椅子に重ね、命ぜられるままに、イクスはデスクを回ってジュラの傍らに佇む。
一振りで人の子の脆弱な首など粉微塵にしてしまえる長生種の手が、ひどく丁重に、やんわりと、裸の首に添えられた。
「よく見せたまえ、私に。……君が人間でないと、私に教えるために」
引き寄せられるままにもう半歩近づき、イクスは顔を背け、彼らのような存在にとっても急所といえる、その「首」を晒す。
吸血痕のような、二門の接続孔。
ジュラはゆっくりと、締め上げるように手に力を込める。ある一定以上の力をかけないと気づかない、皮膚の下の強固な装甲――……異様な弾力を誇る人造筋肉、その下に頑として歪まぬチタンのフレーム。
「――……他の者には気づかれていまいな?」
「肯定。軍内にもそのような噂は認められない」
首を締められても、その発声は驚くほど滑らかだ。機械仕掛けの少佐は、人形であることを誇示するかのような、その異形の眼差しをジュラに向けて動かない。
ゲルマニクスで開発され、あまりの高コストに企画を打ち切られたというこの機械化歩兵は、脳すら100%は残っていないのだという。この人形にとって人間の脳とは、己の機体を動かすための一部品でしかない。
妻を奪われてより、短生種は憎悪と嫌悪の対象でしかない。だからといって、何の力を貸してくれるわけでもない長生種に、すり寄る生き様もまた御免だ。天に唾棄し、地を呪い、生きてきたジュラがどうして、その天地の狭間より生まれた「人間」を愛することができるだろう。……寿命が短い人間であろうと、寿命が長い人間であろうと。
「――君は奇跡のような存在だな? イクス少佐」
歯の立たぬ人造皮膚、その首筋を片手でさらに引き寄せ、デスクの前に着席したまま、やんわりと、接続孔の上から食んでやる。
「発言の意図が不明だ、ジュラ卿」
「『原罪』を持たずに存在する子など、長い生涯で初めて見た、ということだよ――」
眼前に在るは、一個の「人形」。
「己」を持たぬオートマタと違い、確固たるひとつの人格を持ち、ジュラの言葉を受け取り、受け入れ、そして理解して答えを与える――なのに、呼吸せぬ鼓動せぬ激昂せぬ、一個の完璧なる美しい「人形」。
「必要な装備は何でも与えよう、イクス少佐。ゲルマニクスの眼からも隠してやる。だから私の元に居るがいい」
「それについては既に受諾している、ジュラ卿」
「……いつまでも、『人ならざるモノ』のままで在るがいい」
「俺は機械だ。機械が人間になることはありえない」
揺るぎない即答に小さく笑い、ジュラは作り物の肩を枕にしたまま、眠るように瞳を閉じる。
たとえこの人形が、ゲルマニクスより送られたスパイであっても、別にジュラは構わない。「嘆きの星」は例の「騎士団」が護っているし、その他は別に、筒抜けになろうが大して気にもならないことばかりだった。
ただ、これが「人間ではない」という、たったひとつの厳然たる事実――そして、その事実を裏づけするこの人形の在り方すべて。それこそが「奇跡のよう」に、ジュラの傷んだ精神を逆撫でせずにいてくれるのだ。
血の匂いのしない皮膚に鼻を寄せ、ゆるゆるとまどろみかけてジュラは、ふと悪戯を思いついたとでも言うように、ごく軽く、眼前の穿たれた首筋へと囁く。
「イクス少佐、君の皮下循環剤とやらを飲ませてもらえないかね?」
唐突な問いに、彼の少佐はジュラの背中を見下ろした。
「否定、それは飲用には適していない。貴方が必要とする成分も含まれてはいない」
「わかっているとも。きっと、実に不味い代物なんだろう、私にとっては」
「ならば――」
「君にはわからないだろうが、」
その尖った犬歯を、試すように、何度もゆるく首筋に突き立て、時折接続孔にカチカチと触れさせながら、ジュラは囁いた。


「私は安心したいのだ。
 君の身体を流れる赤い液体が、私の餌ではなく、不味く役立たずなただの毒水なのだと――実感することで」


数秒の沈黙ののち、獣に喉をゆだねたままの機械化歩兵は、
「味を確認するにとどめて嚥下はしないのであれば、俺に異議はない」
と言ったきり、黙って虚空を見上げ、その瞬間を待った。


長生種の手が、人間には視認しえぬスピードで力強く、だが優雅に翻る。
裸の左肩に穿たれた細い傷から、赤黒い液体がぷつりと溢れ出した。
「……硬い皮膚だな」
爪が割れ飛んでしまった人差し指を眺めやり、だが、すぐにジュラは、細い真紅の流れを滴らせる、その肌に唇を寄せた。
かすかに人形が身じろぐことは無視して、傷口からは吸わず、ゆっくりと頭を下げて臍の辺りにキスをする。それから、立たせたままの彼の飼犬、その腹から胸を通り、肩の傷口まで、一直線の流れを汚すように舐め上げた。
唇を赤く染めながら、傷口に吸いつき、陶然と、舌でそこを圧し、擦る。
「…………ジュラ卿、」
なぜか制止するように名を呼んできた人形の顔を見たくて、唇を離し、……ためらわずに、口の中の不味い液体を飲み干した。
「ジュラ卿!」
「ああ、やはりひどい味だ」
胃を不快感に灼く、オイル臭いような金属臭いような、形容しがたく不味いその液体。
「吐瀉することを推奨する」
「君はもう下がって手当を受けたまえ。湯は自由に使って構わない……通常の機械化歩兵とやらと同じ手当で良いのなら、オートマタに手配をさせておく」
「ジュラ卿――」
「行きたまえ。君が下がれば吐く」
すでに皮下循環剤の流出は止めたらしく、緋色の流れは乾きつつあった。機械の子はしばし黙り込み、だが、ややあって一礼すると、軍服は身にまとわぬまま、右手に抱えてその場を下がった。この一角に現在、ジュラ以外の「二足歩行の生物」が存在しないことを、教えられているからだろう。
扉の向こうに消えるその姿を、ジュラは黙ってじっと見送る。
気を抜けば嘔吐してしまいそうな、その喉越しの不快感。
ひとり耐えながら、椅子に深く沈みこみ、ジュラはぐったりと脱力して、薄暗い天井を見上げた。
思った通り、人形となった短生種の、あの擬似体液の胃を灼く不味さが――餌でも共食いでもないあの液体が、己の心の中の何かを、ほの昏く優しい水底へと沈めていった。
「……滑稽な話だ……」
疲れきって、だが穏やかに、小さく囁く。
あの毒を呑み、目が合った瞬間の、人形の眼差しの奥に、何か不思議なものを――……まるであの人形が何らかの、「懐かしさ」でも感じたかのような、感情のかすかな揺らぎを見たような気もしたが、すぐに、それはジュラの中で忘れ去られた。






調査部からのレポートが、机の上には広げられている。「雪花石膏」の喩えを与えるに、これほど相応しいものもないと頷ける、そんな白い手がゆっくりと、そのレポートの頁をめくった。
<それにしても、さすがトレスさんですわね。入隊してすぐに少佐に抜擢されるなんて、滅多なことではありませんもの>
猟犬の成果を褒められることは、主君の采配を褒められることに等しかった。口元のおだやかな笑みを崩すことなく、だが、その瞳にかすか、美しく傲慢な閃きを載せて、カテリーナはケイトの賛辞を受け取った。
「ジュラ・カダールの覚えも良いようです。後は時間との勝負でしょうね。何とか、彼の信頼を得て……全面戦争だけは避けなければ」
“ガンスリンガー”に遅れること3日、“クルースニク”が教会サイドへと潜入している。本来ならば、これは“ガンスリンガー”単独の任務だった。だが、カテリーナの義兄であるメディチ枢機卿は、今回の発砲事件に関して強硬手段をを主張していると聞く。カテリーナはそれを重く見て、双子の吸血鬼を逮捕したばかりの“クルースニク”を、その足でイシュトヴァーンに向かわせたのだ。
――“ノーフェイス”がいてくれたら……。
一瞬の弱気の原因は、Axの著しい人手不足のゆえでもあり、また、実戦部隊をすべて各国に出払わせていることへの、不安のゆえでもあっただろう。この5年ほど――あまりにも、喪うものが多すぎた。
“ミストレス”、“ノーフェイス”、そして――……
<でもどうして、トレスさんはあんなに素早く軍に潜り込めたんでしょう? それは確かに、ゲルマニクスの製造証明書は大きかったと思いますけれども……ジュラ卿は用心深い方だとお聞きしておりますわ>
紅茶のカップを手に取り、その芳香と湯気で咽喉を癒しながら、カテリーナは「そうね…」と低く呟いた。その眼差しの昏さに、胸騒ぎのような既視感を覚えてケイトは映像をぶれさせる。
珍しいことに、年上の尼僧の不安に気づくことはなく、カテリーナはカップの中の明るい赤と、ほのかに香り立つ白い空気を覗き込んだまま、囁くように彼女に告げた。
「ジュラ・カダールは孤独な為政者です。そして、愛する者を奪われた復讐者です。世界のすべてを――何より自分を憎んでいます」
それはカテリーナが、調査部の提出したレポートから、詳細に読み取ったジュラ・カダール像だった。彼女は実に明確に、滅びと復讐を求めるかの闇の眷属の人となりを、把握した。文字通り、手に取るように理解した。……そこに近親憎悪がないと、どうして彼女は言い切れただろう。彼女自身の台詞、その「ジュラ・カダール」を「カテリーナ・スフォルツァ」に替えたとて……何の違和感があっただろうか。
「私にはわかるわ、シスター・ケイト……そういう人間にとって、神父トレスはとても得がたい存在なのよ。彼はまるで人間のように、人間を理解し受け入れる。なのに、自分は人間ではないと言い張ってくれる――……傍らに置いて、どんな醜いものを見せても、どんな苦しいものをぶつけても、ただ……
 ただ、黙って、人形のように、受け入れて受け止めてくれるだけなの」


「……だから、『彼』も……あの子に惹かれていったでしょう……?」


その「彼」が、決してジュラ・カダールでないことを、シスター・ケイトは即座に理解した。
<トレスさんが……>
可哀想、と簡単に言うことはできるだろう。だが、シスター・ケイトは知っていた。あの身勝手な、残酷な、傷ついた獣のように狷介な、そのくせ、手を伸ばさずにはいられない傲慢な魅力を兼ね備えた、あの白金の滝も躍る翠瞳の剣士――「彼」。
その「彼」に、激情をぶつけられ、存在をかけて憎まれ、愛されることをトレスが一度も拒絶しなかったのは、トレスが「人形」だからではないのだ、ということを。
……愛していたのだ、あの人形は。傷ついてなお美しく気高く、そして優しい人が、懸命に自分にぶつける――人の子にしかありえぬその激情を。人形にしかありえぬ形で、精一杯に。
――でも、トレスさんは、カテリーナ様のもので……たった一人しかいないのですわ。
それがシスター・ケイトには悲しかった。あの人形に身体が三つも四つもあって、求める人のもとにためらわず、ひとつずつ身体を投げ出せたならそれはどんなに幸せなことなのだろう。
だがトレスが「彼」の後を追うことはなく――……孤独な吸血鬼に殉じることもなく。その身のすべては、このローマに、真紅と黄金の女神にひたすら、供され、尽くされ、そして捧げられる。
「……お茶が冷めてしまったわ」
悲しいほどに美しい、枢機卿の声が囁いた。
「替えてもらえるかしら、シスター・ケイト」
シスター・ケイトは我に返り、彼女が、この傷つきやすい孤独な人の前で、どんな表情をしてしまっていたのかをやっと自覚した。
<はっ……はい、ただ今>
専用のキッチンを意識の指先で操りながら、シスター・ケイトは、誰もが幸福になる方法を知らぬ己に、できることがたったこの一杯の紅茶であることを、思い知って一粒、電子の涙をほろりと零した。
せめてそれしか適わぬのなら、次の一杯は、この最愛の主君の唇が思わずほころぶほどの――美味しい紅茶を、淹れて差し上げたいと願いながら。