残像と錯覚



神経を鈍く摩滅させていくような雨音は、当分の間やみそうになかった。テーブルの上に置かれたランプの上に、視線だけぼんやりと据えながら、ユーグは背もたれに体重を預けてただ、そこに座っていた。
このような調子では、またローデンバックに心配をかけてしまう。そう思いながらも、姿勢を直す気になれない。半ば身体は傾くようにして、椅子の上で弛緩しきっている。いっそ、誰かが襲撃でもかけてくれた方が、背中に筋が一本通ってくれそうなものだった。
そう、「誰か」が……
「……チッ」
先ほどから、拭いきれない違和感がちりちりと、ランプの中に一筋入った髪の毛のように、ユーグの中で異臭を放って焦げついている。ランプから眼をそむけると、光源を見続けた眼は赤い残像を視界に引いた。
雨のスクリーンの中を、泳ぐ赤い点。
それは残像のように尾を伴って、最短距離でユーグをただ、追いかける。ユーグひとりを。猟犬の執拗さを以って。主人に命ぜられた獲物を追う、それ以上の熱意など何一つ持たずに、ただ、ユーグの白い額だけを追いかけるのだ。
……何一つ。感傷も、慈悲も、何一つ持たぬ。0と1が弾き出す結果だけを追い求めて、背中を預けた存在にすらたやすく、軽やかに激鉄を起こして。
――所詮は、ミラノ公の狗か。
あの人形と、己は同じカテゴリーで括られる存在だったのか。自嘲に、ユーグの口元が笑いの形に歪む。
視界の赤い残像は消えない。
……チリチリ焦げつく違和感も、胸の奥で叫び続ける何かも、決して消えはしない。


『待て、ユーグ・ド・ヴァトー』
あんなに律儀に、フルネームを呼び続ける必要はなかろうに、人形は馬鹿のひとつ覚えのように、その呼び名を繰り返す。
思えば共に銃火と死線をくぐるようになってから、彼にあんなに立て続けに名を呼ばれることなどなかったかもしれない。
皮肉なことだ。
『ユーグ・ド・ヴァトー、お前を――』
復讐を終えてからなら、殺されてやっても良かったかもしれない。
何一つ感情の浮かばない声。
ただ対象を映すだけの、心の窓としては心底役立たずな瞳。
『俺はお前をミラノ公に――』
存在意義そのものだと言い切ってためらいない、主君の名を挙げながら、
撃ち抜かれた両脚を、憐れながらくたと化した棒切れを、がくがく、がたがた、震わせながら立ち上がろうとする木偶人形が、
『待て、ヴァトー!』


人形が、叫ぶ――


「――――ッ!」
見開いた眼に飛び込むランプの光。
眼のくらむほどの赤い残光に、ここしばらく酷使され続けた神経は耐え切れず、ヴァトーは跳ね起きた身体をもう一度、ずるずると椅子に崩れさせた。
点滅するハレーションの中に、浮かぶ、うたた寝の狭間に思い出したあの光景。
叫ぶ人形が、


あの無表情で、うつろな声で、それでも叫ぶ、人形が、
……差し伸べた、あの――何も持たぬ手。


「……“ガンスリンガー”」
彼そのものを表現したような、そのコードネームを、軋る歯の間から押し出す。
「馬鹿か、……馬鹿か、君は」
待て、と叫んで、「手」を差し伸べる。
そんな人形が何の役に立つものか。
俺は機械だと、ミラノ公の銃だと、誇らしささえ込めぬ無機的な声で言い切るその両手に、死の瞬間まで握られているべきはジェリコM13“ディエス・イレ”。
「君は……」
あの時、撃たれて崩れ落ちた時、あの鉄槌下す拳銃はいったいどこにあったのか。
倒れた拍子に、落として飛ばしでもしたものか。
――そうだ。……そうに決まっている。
反論しようとする、胸の中の何かを押し込めてユーグはひとり、そう呻く。
――俺は敵だ。彼が俺に、ただ手を伸ばすはずがない。
そう言い聞かせても、何度も何度も、彼の心は風景を再生し、人形の真意を探ろうとする。
あの時の、彼の拳銃は。
彼が、バイクのタイヤを撃ち抜き、……あるいは、ユーグの肩でも撃ち抜くべきだった、そして、容易にそうできたはずだった、彼の両手そのものとも言えるあの拳銃は、どこに。


どこに――……


コンコン、と遠慮がちに響いたノックの音が、真実にたどり着こうとしていたユーグの物思いを断ち切った。
「……ローデンバックか」
「ああ、僕だ……どうした? 入っても良いか?」
「いや……」
とっさに、なぜか拒絶しかけて、だが、ここは彼の家なのだということをユーグは思い出した。
重い身体を、背もたれから起こして立ち上がる。
思い出そうとする惰弱な己。
――思い出して、何になる。
真実を知って、何になるというのだ。
もう……たとえどんな真実が胸の底から浮かび上がって来ようと、あの手に背を向けた己はもう、すべてが、手遅れなのだから。


ユーグは胸の奥のすべての疑問を押しつぶして、ただ、誠実な気配が外に待つ扉へと歩み寄った。
あの時、銃持たぬままに伸ばされた手を拒絶してまで――選んだ手の、主を、部屋に招きいれるために。







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