祭にも汝を追う



『今日が何の日か知っているか、“ガンスリンガー”』
機械の身にも不快を覚えるほどに、耳元に唇を寄せて囁きかける癖が、あの男にはあった。あの日もやはり、トレスの耳朶に息を当て、肩に作り物の繊細な指を滑らせて……あの男は黄昏にふさわしい、暗く甘い声で囁いた。
『君はデータベースそのものだからな。言われなくても勿論、把握しているんだろうが……』
戦闘は終息していた。男は珍しく返り血を浴びていた。頬に点々と、道化の化粧のように跳ね飛んだ赤黒い染み。指摘しようと顔を向けかけて、トレスは前方の敵の残骸に向き直った。身体のあちこちを斬り飛ばされ、吹き飛ばされて転がった、現実感に欠ける無数の死体の中にひとつ、確かに、かすかに動いたものがあった。
索敵仕様のトレスは無言で該当区域のスキャンを始めた。同じ方向を一瞬眺めた同僚の男は、だが、すぐに興味を失ったように視線を逸らして、再び、トレスの横顔を見つめた。男のほうを向かずとも、トレスの鋭敏なセンサーは手に取るようにそれを探知していた。
『……君にとって今日は、ミラノ公がテロの脅威に晒される数多い年中行事のひとつ――御子昇天祭の日でしかないだろう。だが俺にとっては少し違うんだ』
トレスの掲げた銃も、累々たる死体の中でうごめく影も、男の興味を引くには到らなかった。ただ男は、自分より低い位置にあるかっちりとしたその肩を、辿るように指先で撫で、ほの暗い眼差しで、人形の人形めいた横顔をうつろに眺めていた。
『この日俺の故郷では、華やかなドレスの女たちや、着飾った騎士姿の男たちが、聖櫃を捧げ持ち、大通りを練り歩き、眠りを知らずに祭を楽しむ……城の礼拝堂や庭は、開け放たれて市民を呼び込み、石畳を、踊る靴音が激しく踏み鳴らす……ホールでの退屈な接待に飽きて飛び出せば、時を2千年遡ったような光景に、笑い弾ける市民が手を振り、頭を垂れ……俺はマルクト広場へと、友と息せき切って駆け出した』
人間的情動を持たぬトレスは、その光景を想像することもなく、黙って前方を眺めていた。視線の先、地べたでうごめくものが、震える手で握る、あれは――手榴弾。
認識したトレスの腕が跳ね上がり、敵の肩の付け根をポイントする。
だがその時には既に、見向きもせぬままに投げた男の小刀が、最後の敵の眉間に突き立っていた。
『……すべてを喪ってから、9年。……記憶とは存外、薄れないものらしい』
銃を下ろしたトレスは、男に沈黙を要求はしなかった。ただ彼は顔をめぐらせ、新たな敵の姿を探しただけだった。気だるくその首筋に触れてくる指を、拒もうともしなかった。……拒む理由もない代わり……受け入れる理由もなかったはずなのに。
『来年は君と一緒に行こうか、“ガンスリンガー”……十字軍の騎士にでも化けて』
どこかが軋んだような笑いと共に囁かれたその言葉に、トレスはコンマ数秒間、沈黙した。それでも、答えを与えようと開かれた口に、横合いから、肩を撫でていた手がそのまま伸び、静かに声を封じていた。
『……――答えなくていい。君が「否定」以外の何かを言うなんて思ってない』
索敵を終えたトレスは、言われた通り、男には何の返答を与えることもなく、転がる死体に背を向けて歩き出した。トレスが「否定」以外の答えを弾き出さないと、決めた男の意図がトレスにはわからなかった。だが、男がそう決めた以上、トレスが今更、男の問いを検討してやる意味などあるはずがなかった。


再生してから、トレスはそれが、再生しても何ひとつ役に立たぬ記憶だったことに気づいた。
逃亡中のユーグ・ド・ヴァトーの行動を分析するために、必要な記憶だと認識して再生したはずなのに、いつのまにか、無駄な記憶までが再生されている。
検索を誤ったか――……あるいは、何か不具合でも発生したのか。
再生された記憶の中で、ユーグ・ド・ヴァトーが――元派遣執行官“ソードダンサー”が語った祝祭とは、御子昇天祭の日にブリュージュで開かれる「聖血の行列」のことだろう。その祝祭が開かれるまで、既に40時間を切っている。……だからと言って、作戦に何が加算されるわけでもなかったが。
用心のために無線は切られている。だが、“プロフェッサー”と“ノーフェイス”が無事潜入していることを、トレスは疑っていなかった。彼は彼のすべきことだけをすれば良い。Ax最古参の二人と行動することは、トレスに安心――いや、安定感をもたらしていた。
爆発音が響く。わずかなタイムラグさえ許さぬ素早さで、トレスの身体は爆発音の方角に――ヴァトー城の取水口に向けられていた。近い。爆心地にたどり着くまで20秒を要すまい。
「きゃぁっ」
突如駆け出した神父に驚いたか、それとも爆音に驚いたか、トレスのすり抜けざまにひとりの女性が、抱えていたものを取り落とす。
危険物の可能性は低いが、一応視覚センサーを向けたトレスの視界に、色鮮やかな緋色の――中世の貴婦人を模したドレスが飛び込んだ。女性が先刻よりも派手な悲鳴をあげて、そのドレスを抱え上げ抱きしめる。
「汚れたら洗えば……」
「明日なんだもん、間に合わないわ!」
あっという間に遠ざかる、女性たちのその会話を聞きながら、トレスはもう一度、先ほどの記憶の一部をリピートした。


『来年は君と一緒に行こうか、“ガンスリンガー”……』


364日前のその言葉と、現状を比べてあまりの皮肉に嗤うような、……涙するような「心」を、人形は持ち合わせていないのだった。