剣によって生死を司る男はまた、生命の放つ気配に対しても敏感だった。まだ、痛みと言う名の悲鳴をあげて抗う己の身体を、無理矢理ベッドの上に起こし、ユーグは窓の外に視線をやった。
清潔さを喪いがちな金髪を、わずらわしげに後ろへ流し、くくってしまおうか、と片手をあげて、また走る痛みに眼をすがめる。看護婦たちは身の回りをいくらでも世話してくれたが、正直に言えば、心疲れたこの神父にとって、身体に触れられることはひどく煩わしく、また厭わしかった。
窓枠の上に、ちょこんと慎ましく、手作りのマスコットが置かれている。かぼちゃ提灯を模したフェルトのマスコットは、シスター・ケイトから届けられた身の回り品の一番上に、そっと乗せられて揺れていたものだった。
万聖節前夜祭。死者と子供達の為の祭日。
窓の外の幾多の気配は、夕暮時にもかかわらず、ひどく浮き立っている。この病院にも、入院している子供たちがいるのだろう。病院内のホールでは、子供たちのためのハロウィン・パーティも開かれるのだと聞いている。
まだ起き上がることを赦されてはいなかったが、ユーグは軋む身体をゆっくり従わせ、脚を静かにベッドから下ろした。スリッパを履き、くらり、と揺らぐ視界を一度遮断して、己の身体を操る感覚を必死に思い出した。
助けを求めるようにふらついた手の先、その手を握る者はいない。
それでもユーグは身体の均衡を取り戻し、窓際にふらふらと歩み寄ると、カーテンを掴むようにしてそこに寄りかかった。前開きの寝巻だけでは肌寒い季節だ。「寒い」、そう感じること自体が、体力の衰えを痛烈にユーグに突きつける。
三階下の中庭を見下ろせば、かぼちゃのマスクや魔女の扮装に身を隠した少年と少女が、クスクス笑って駆け抜けていったところだった。病気をしているようには見えない。悪友の見舞いに、こっそり忍び込んできたのかもしれない。可愛らしい悪霊たちに眼を細めた時、ずきり、と完治していない傷口がひきつれた。
薄暮に消えていく、本当にはかない妖精のような、現実感のないあの後姿。
思えば、熱を出してばかりの幼いユーグにもああやって、魔女と悪魔に扮装して、忍び込んできてくれる友人たちがいたのではなかったか。一件でも多くの家を回り、山ほどの菓子をねだろうと、子供たちが熱狂するあの夜にわざわざ、枕に顔を埋めて悔し泣きするユーグの窓に、こつんこつん、とキャンディ製の小石をぶつけて訪れを知らせた、小さな大好きな悪霊たち――
「……ク、」
耐え難い痛みは肉体のものだけではないのだろう。右肩を押さえ、だが、痛むのは左胸のような気もして、ユーグは顔をゆがめた。笑いたかったが、笑顔を浮かべられる痛みではなかった。
万聖節の前夜は、旧きエリンの土着宗教における聖夜であったと聞いている。この日をもって夏は終わり、11月からあの北国には死の象徴の如く暗き、長き冬が訪れるとされていた。生と死、光と闇、夏と冬の境たる夜に、死者は甦って我が家を目指す。此岸と彼岸の境は喪われ、冥界の扉は開かれるのだ――……
「……死者にすら、」
崩れまいと窓枠を握りしめた時、滑った手が、あのあたたかいパンプキンモンスターを叩き落して床に転がした。
それを見つめる乾いた眼差しに、悲歎と自嘲が澱の如くによどむ。
「死者にすら、帰る家がないことはあるものだな……」
確かに、ここに在るのは一個の死者だった。
ヴァトー家の長男たるユーグ・ド・ヴァトーは10年もの長きに渡り、公式には死亡したことにされてきた。血と泥濘を這いずって、故郷に戻ってみればそこには、自分を待つものは誰一人なく、城は吸血鬼の拠点に姿を替えていた。
……復讐を終え、生き残った。だが本当に、ユーグ・ド・ヴァトーは生きているのか。昔の婚約者も、昔の親友も、昔の部下も、昔の同盟者も、……誰一人、ユーグ・ド・ヴァトーの復活を望んでいなどしない。ヴァトー家は、10年前に滅び去った。滅んだものとして、10年がたった。今更、10年前の警視総監の後取り息子があの地に戻ったとて、余計な混乱と、眼をそむけてきた過去に対する後味の悪さを引き起こすだけに違いなかった。
だからユーグは、戻ってきたのだ。このローマの地、「派遣執行官“ソードダンサー”」の生きるべきこの、第二の死地に。
悪霊ならば、ぬけぬけと舞い戻って生者に祟りもしただろう。だが、社会的に殺されたこの死者に、帰る家はもはやない。あの御子昇天祭の日まで、ユーグは十二分に生者に祟った。ラシェルには殺されかけ、ヤンには密告され、最後の友と思った男は最悪の仇であり、議員のほとんどは辞職し、半ばは逮捕された。偶然、相手が暴利を貪る吸血鬼だったから感謝されただけであって、ユーグはただ、己の復讐の刃を振り回し、多くの者を傷つけたに過ぎなかった。
精神の痛みは肉体の傷みを招く。耐え切れず、窓枠にしゃがみこもうとして、だが、不意にユーグの鋭敏な五感を――あるいは無意識に「彼」を求める第六感を――、「何か」がチリリ、と引っかいた。
よろめいた身体をガラス戸に打ちつけるようにして耐え、窓の外を見て、そして眼を見張る。


「……“ガンスリンガー”」
声は震え、冷え切った息にわずかな熱が込められた。


容赦なく強い眼差しが、渡り廊下からこちらを見上げている。機械人形の優秀な眼は、すでに日も落ちたこの悪環境の中でも変わらず、窓の向こう側、暗い室内に佇んでいるユーグの姿を発見していた。
眼が合ったことすら認識したのか。ふい、と視線がそらされて、200キロの機体はありえぬ素早さで走り出す。
「……しまった……」
彼が走り出した原因に思い至り、ユーグは呻いた。サボタージュを生活指導員に見咎められた少年のような、後悔と困惑の混ざった眼差しは、だが、先程の底暗い絶望に比べれば十二分に暖かかった。
ズシ、ズシ、と重い足音が、廊下を震わせ、ユーグが体勢を整える余裕もなく、勿論ノックなどもなく、扉は勢い良く開かれる。
そして作り物の眼差しがユーグをにらみつけた。
「ヴァトー神父。なぜ起床している? 起床許可が出たとは確認していない」
「ああ……それは……」
自分でも不可思議なことに、ユーグはこの愛しい人形の前で時折、わざわざ怒られるような行動を取ってしまうことがある。だが、今回は完全な不意打ちだった。言い訳も見つからず視線をさまよわせ、結果、ユーグはもっとも卑怯な、もっとも人形が反論しがたい一言でこの場を何とか乗り切ろうとした。
「……淋しかったから」
「…………」
「その……だから、君が見舞いに来てくれて嬉しいよ」
言ってから、それが何ひとつ嘘ではなかったことに気づく。
反応を選べずに沈黙したトレスは、ややあってそれでも頑強に抗弁した。
「卿の精神的不安定性は理解している。だが、それは起床の理由にはならないはずだ」
「それと、せっかくシスター・ケイトに貰ったマスコットが、床に落ちてしまってな……」
すでにペースを取り戻したユーグは、いかにも落胆した、と言いたげに視線で床を指した。
「拾いたかったんだ。どうしても」
「……了解した。卿は今すぐベッドに戻れ。俺が拾う」
「ありがとう」
歩き出して、少し大げさに「ツ、」と呻くと途端に小柄な、力強い身体が飛んでくる。
軽々と抱え上げられ、丁重にベッドに下ろされて、ユーグは有無を言わさず横たわらせられた。
「……上体を起こすぐらいならいいだろう?」
「否定」
0.1秒で否定され、がっかりしたように鼻を鳴らす。その様子が自分でも笑えるほどに甘えていて、ユーグはひとつ溜息をついた。
それには気づかず、トレスは生真面目に、床の小さなフェルトかぼちゃを拾い上げて窓際に置こうとする。
「ここがいいな」
ユーグの手が伸び、トレスの袖を――優しいシスターの贈り物を持つ、その袖を引いた。
「ヴァトー神父?」
「ここに置いてくれ」
己の枕元を、比較的無事に動く左手で叩き、ユーグはトレスを見上げた。
「知っているか神父トレス、今日は死者の祭だそうだ」
ユーグの右側に立っていたトレスは、黙ってユーグの身体越しに手を伸ばし、枕もとの左側に律儀にフェルトのかぼちゃを安置する。
「……死者が、故郷に帰る日なん――……」
「ヴァトー神父?」
不意に言葉を途切れさせたユーグに、さては体調が悪化したかと、トレスの眼の奥に僅かに気遣わしげな光が浮かぶ。
それに返事することすら忘れ、ユーグはただ、眼前の人形を見つめた。


「公式には死亡したことにされてきた」、「帰る家はもはやない」、……もはや世界に一体きりの、淋しい、淋しい一個の死者を。


「……ヴァトー神父、医師を呼ぶべきなら手配するが?」
とうとうトレスは手を伸ばし、ユーグの眼の前でそれを振ってみせる。とっさにその手を左手で捕らえ、だがユーグはそれ以上どうしていいかわからずに、中途半端に口ごもった。
「いや、……いいよ。問題ない」
「卿の自己申告は当てにならない。やはり医師を――」
「いいから。ここにいてくれ」
語気を強めて重ねて言えば、片手をとられたまま身を翻しかけていたトレスは、0.3秒の思考の後に頷いた。
「了解した。だが体調が悪化した時点で速やかに申告するよう、要請する」
「わかってる」
子供が毛布を握りしめるように、人形の冷たい手を握ったまま、ユーグはそれきり、トレスをじっと見上げている。
今度はトレスも、別段話すことはなかったか、黙ってユーグを見返していた。
飽きることなく十分以上も見つめ合っていたか、ユーグは闇に支配された室内で囁く。
「『家』の方から、死者の許に出向いてくれることが、あるなんて……な」
「? 発言の意図が不明だ、ヴァトー神父」
「それでいいんだ」
「ヴァトー神父? ……やはり体調が悪化しているのではないか?」
「そんなことはない。ただ少し眠い」
「では早急なる就寝を推奨する」
「トレス」
「何だ?」


「俺の家はここ、ローマだ……裏切っても裏切られても、もうそれだけは忘れない……」


沈黙したままユーグの左手をただ眺めていたトレスは、安らかな寝息が聞こえてきた頃にようやく、ぽつりと答えを返した。
「裏切るな」
第三者が聞いていれば、もっともなその言葉に、思わず噴き出したことだろう。
だがトレスは真剣だった。
「裏切らない。……だから、卿も裏切るな」


窓の外をまた、忍びやかな笑い声と足音が通り過ぎていく。
祭に興じた幸福な子供時代など、なにひとつ持たぬ稼動五年の殺人人形は、その気配に何の感慨も持つことはない。
ただ、彼はほんのわずかに、握り返すその手に力を込めた。
孤独な「ひとりぼっち」たちが、身を寄せ合うようにカテリーナの許に集った「Ax」――……幾人もの「家族」が立て続けに喪われた中、ようやく、このひとつの手を冥界から取り戻すことができたのだ。
勿論、トレスの「意識」は彼らを「家族」などと認識してはいない。だが、それでもトレスは、捕らえられた――捕らえたその手に、力を込めた。


この前夜祭、本当に死者が、生前の我が家に帰還するというのなら。
トレスはここを、ユーグの傍らを離れてはならず――またユーグも、トレスの手を決して離してはいけないはずなのだから。






ひとりきりの書斎、己の吐き出した煙に包まれた紳士、その穏やかな眼差しの先にあるのは積み上げられた本、その上に慎ましく乗せられた小さな、かぼちゃのマスコットだった。
シスター・ケイトは己の肉体の「手」を持たない。この愛らしいマスコットを作ったのは、彼女の願いで彼女の手指となった幾人かのシスターだった。
「……『家』とは、『家族』のいる場所――と定義づけても良い物だろうかね?」
あたたかなオレンジのフェルトに向かい、煙と共に、溜息も吐き出して、椅子に深く身を沈めた紳士は囁く。
「ならば君は……ここに、『我々』の許に戻ってくるのだろうか? ……ヴァーツラフ」
――人は家族から離れることはできても、真の意味で捨てることはできません
「いや、勿論余計な期待をかけちゃいないよ。君の魂は故郷のブルノに帰るんだろう? よくわかっているとも」
鼻にかかった声で小憎らしく言ってみせれば、追憶の中の、禁欲的な後姿が振り返り、からかうように苦笑してみせる。
――貴方もつくづく意地っ張りな人ですね、ウィリアム
「性分でね」
煙を吐き出しながらつぶやいて、過去に沈む教授はゆっくりと瞳を閉じた。
「……皆、帰ってきたら挨拶ぐらいはしたまえよ……僕の息子たちについての自慢話を、たっぷり聞かせてあげようじゃないか」
彼の「息子たち」の片方は、もう片方の「息子たち」の許に出向いたまま、未だに帰還の報告がない。教授にはそれが素直に嬉しかった。それを望んで、あの病室に無骨な人形を送り込んだのだから。
淋しい、淋しい、ひとりぼっちの「死者」二人。
帰る故郷も、支える父も亡くした彼らが、辿りついたのがこの死地――猟犬を、息もつかせず追いやり続けるこの組織ならば、この組織が「家族」となり「家」とならずに、誰がなってやると言うのだろう。
「眠いね」
追憶の中の幾多の顔に、「火は消してから居眠りして下さい」と片っ端から注意され、面倒くさげに片目を薄く開けてみせる。
「……火事になんてならないよ。怖いお目付け役がいるじゃないかね」
そして擬似家族の擬似父親は、火のついたままのパイプを机の上に置き去りにして、深く沈んだ椅子の上で静かな寝息をたてはじめたのだった。


数分後に、
<教授! 火は消してから居眠りして下さいって、何度申し上げたら覚えて下さいますの!>
と眼を吊り上げて怒る尼僧が、通信機越しの飽きもせぬ説教を叩きつけてくれるだろうことを、確信しながら。