人気のない廊下を、ストレッチャーが静かに移動する。関係者専用のこの廊下は、裏口と特務分室を繋いでいる数少ない通路だ。人目に触れたがらぬ派遣執行官たちは、よくこの廊下を使用した。ちょうど今、ストレッチャーをゆっくり押している派遣執行官“ソードダンサー”のように。
「“ソードダンサー”」
「何だ? “ガンスリンガー”」
よほど重いものを押しているのか、“ソードダンサー”――ユーグ・ド・ヴァトーの歩みは、かなり緩慢だった。その彼に向けて、冷酷なほど無機質な声をかけたのは、ストレッチャーに横たわったままの派遣執行官“ガンスリンガー”――トレス・イクスだった。
彼専用に用意されたストレッチャーは、軋む様子もなく廊下を滑る。だが、それを押すのは一個の人間だ。苦行のような運搬を、だが、ユーグは黙々と実行していた。トレス・イクスがその作業をまったく手伝おうとせず、ユーグに脚を向け、ストレッチャーに横たわったままであることについても、別段、文句を言おうとはしない。
それもそのはず。横たわったトレスの機体には幾重にも拘束帯がかけられて、トレスの稼動を阻んでいる。そしてそれを施したのは、他ならぬユーグ自身だった。
「“ソードダンサー”、拘束帯の解除を――」
「却下だ」
無情な返答に、トレスは機体を身じろがせる。腹の上には、邪魔になったのか、ユーグの僧服の上衣がばさりと広げられたままだった。ストレッチャーの取っ手を掴み、押し続ける俊敏な身体の、筋肉の隆起。むき出しの腕の規則正しい動きを、トレスはその視界に映していた。
腰部のバランサーを――人間で言う腰椎と骨盤を、トレスは戦闘で酷く負傷していた。腰椎は脊椎に直結している。このままでは演算機構の損傷も起こりかねない。そう判断して、ユーグはトレスをストレッチャーに縛りつけたのだ。
「では、増員を。我々は既に『剣の館』に入館している。職員を呼べば――」
「黙っていろ」
「……卿の抱いている不快感が、運搬の労働に対するものであるならば、増員を――」
「黙れ」
ユーグの息遣いと、ストレッチャーの車輪が重く回る音だけが、廊下のがらんとした空間に反響する。己の十字架を運ばされた男のような、のろのろとしたユーグの歩みは、だが、辛抱強くかけられたトレスの声によって止まった。
「ヴァトー神父。今、俺の独断でシスター・ケイトに増員を依頼した。卿は休息を取ることを推奨する」
怒りの罵声が返ってくるかと、機械なりに身構えたトレスに対し、だが、ユーグは特に反論をしなかった。彼はゆっくりとストレッチャーを端に寄せ、トレスの腹近くの柵に体重を預けるようにして立っただけだった。上衣を脱いだせいでよく見える、その厳しく鍛え上げられた背を、トレスは見上げた。
Axが正式に発足し、派遣執行官“ガンスリンガー”として任務に向かうようになったのは、昨年の五月からのことだ。殺戮人形としてこの上なく有能であるはずのトレスも、単純な戦闘ではなく、複雑な判断を要する「任務」にはてこずった。
ちょうど去年の今頃、教授の弟子として紹介されたこの男は、木偶人形同然のトレスに随分と、親身に接してくれた。教授とこの男の態度が「親切な」――おそらくは「優しい」ものであったということぐらい、経験の浅いトレスにも理解はできる。
それがいつのまにか、こうして背を向け、言葉少なく冷淡に接されるようになった。トレスはそれを、己の戦闘における失態のせいだと推測していた。ユーグがもっとも寡黙になるのは、こうしてトレスが負傷した時だったのだから。
最近は、ミラノ公も自然と、トレスとユーグを二人組の任務で組ませることを避けるようになっている。もともと、「銃」も「剣」も、人を殺す為だけに特化された「武器」でしかない。その二人で組ませることが、非効率的であることも確かだった。
ゆっくりと、ユーグの背、その奥底の肺が膨らんでは萎む様を、トレスは観察し続ける。廊下の空気は冷えていた。上衣の着用を、と言えばまたユーグは尖った返答を寄越してくるのだろうか。
「……こんな時期でも、任務はなくならないものだな」
「『こんな時期』の意味が不明だ。詳細の入力を」
「受難の週だろう、今日から」
「肯定。だがそれと任務の有無に関連性を見出せない」
返答はなかった。ただ、手袋をはめたままのユーグの義手が伸び、皮下循環剤のはねとんだトレスの頬を、静かに撫でただけだった。
復活祭前の一週間――「受難の週」は、宗教的に大きな意味を持つ週なのだという。本来の宗教者としての神父に立ち返るべきこの一週間に、神の戒めた「殺人」という罪を、自分たちは重ね続けている。ユーグが述懐したのはその皮肉な事実についてだろうか。だが、ユーグが神父として本来敬虔であるとは、トレスには思えなかった。
稼動して一年をやっと数えるトレスに、ユーグが過去18年間に渡ってこの時期に重ねてきた、華やかな社交と親しんだ宗教行事のことなど思い至るはずもない。当然、その苦い述懐に対し、共感したふりをしてやれるはずなどなかった。
ユーグの手袋が、その奥の指先が、トレスの頬をゆるく撫で続ける。肩越しに振り返るように自分を見下ろす翠の眼を、トレスは見た。ほの暗い廊下の灯りを映して、その翠もまた昏かった。
「今日は、受難の日曜日というだけでもない。もうひとつ、とても面白い俗習があるんだ」
面白いものについて話しているとは思えない声で、ユーグは言葉を継ぐ。トレスが見上げていると、金の髪に隠れがちな口元に、ふと、淡くやわらかな何かがたゆたった。
一年ほど前のトレスは、それを何度も見ていたはずだった。あの頃、そのやわらかな何かは、すぐにほどけるように開いて「微笑」と呼ばれるものになった。そしてその「微笑」はゆっくりと、けぶるように淋しげに翳っていくのだった。
だが今、じっとそれを待つトレスの前で、口元の何かはつと歪み、そのまま引き結ばれてしまった。そして唇が再び開かれた時にはもう、そこにあるのは常の通りの陰鬱なほの昏さだけだった。
「知らないかな、君は。今日は、無害な嘘ならついても罪にならない日だ」
「無害な嘘……?」
嘘とは基本的に有害なものだ。そして無害な嘘なら、普段から別に法律上の罪には問われまい。
「他愛ない嘘を楽しむ日、という程度の認識でいい。新聞にも嘘記事が溢れ返っている。友人同士も互いに騙し合う。今日一日だけの、後に響かない嘘でな」
「俺には理解不能だ」
そもそも、楽しむという機能がトレスには存在しない。頑ななトレスの反応に苦笑して、ユーグはついでのように、ぐいと上半身をねじってトレスに向き直った。
「トレス・イクス」
呼びかけられて、トレスはユーグを改めて見上げる。
だが返事をする前に、苦笑の形に歪んだままのユーグの唇が囁いた。
「愛しているよ」
本当なら、「否定」か「理解不能」で切り捨てておけば良いはずの台詞だった。だが、稚い殺戮人形が、己を覗き込む男を見上げて吐いた言葉はそのどちらでもなかった。
「それも嘘なのか?」
淡い金の滝の向こうで、宝玉のような翠の両眼が見開かれる。
なぜかその両眼は痛みをこらえるように細められて、そして、トレスの問いに答えず唇は再び囁いた。
「愛している」
その言葉にも、そして、己がかけてしまった無意味な問いにも、幼い思考は混乱させられて発言を困難にさせる。
何かを危険だと認識したのか、起き上がろうとするかのように機体がまた身じろぎ、拘束帯によって押さえつけられた。
更なる偽りを――あるいは偽りに見せかけた何かを――重ねようというのか、ユーグの唇が三度開く。
だがその呪いのような翠瞳は、不意にトレスの両眼から逸らされ、そして、俊敏な身体は素早くストレッチャーから己の体重を引き戻した。
数人の、歩み急ぐ足音がトレスの耳にも聞こえてくる。
「ヴァトー、」
「良かったな。これで師匠に直していただける」
そう冷たく告げた男の声は、やはり、陰鬱にほの昏いだけだった。
数人がかりで廊下を滑りゆくストレッチャーの、その上に拘束されたまま、トレスは遠ざかるユーグを見送った。トレスを追って教授の実験室へ向かおうとはせず、その場に佇んだままのユーグもやはり、遠ざかるトレスを見送っているようだった。
その両眼に何が浮かんでいるのか、その紅唇に何が浮かんでいるのか……浮かべているのが真情なのか、虚構なのか。トレスの義眼に、それを見分けることは不可能だった。それでもトレスは、己が廊下の角を曲がり、エレベータへ押し込まれるその瞬間まで、ユーグの姿を追い続けた。まるで、追い続ければいつか、真実を捕捉することができるとでもいうかのように。