仮想の悪夢
実験室と名づけられた、知の迷宮の奥深く。“アイアンメイデン”の電子の籠と、“プロフェッサー”の叡智の壁と、そして、“ソードダンサー”の白刃の下に護られて、“ガンスリンガー”は横たわる。
生産性を持たぬその機体は、軽度の損傷も自然治癒することができない。そのため彼は定期的に、こうして無数のケーブルに繋がれ、機体のデータを吸い出され、時間を掛けて丁寧に、損耗の度合いを調べられる。
教授の監督下で行われることの多いこのメンテナンスも、時には教授の長期出張に重なってしまうことがある。そういう時には、トレス・イクス本人の指導を受けて、“ソードダンサー”……ユーグが彼にケーブルを繋ぐ。そういう時のユーグは実に真剣で、過度の接触を要求してくることもない。5年以上繰り返してきた作業なのに、そのたびにマニュアルを確認し、大切に――迂遠なほどに大切に、その義手で接続孔に、そっとプラグを差し込むのだ。
接続部分はデリケートだから、慎重であることは歓迎されるべきだ。だからトレスは、足音さえ忍ばせるような、ユーグのそのひそやかな挙措を決して咎めない。ただ、じぃ、と眼で追っている。最近は、眼で追っていると不意に振り返り、かすかな微笑を見せることもあった。5年前には、なかった表情だった。だから観察のためにいっそう、眼で追うことが増えていた。
だが、接続が完了し、プログラムが実行され、メンテナンスが開始されると、センサーから過度の情報を取り込むことは難しくなる。無事にメンテナンスが開始されたことを、画面で確認するとユーグは、トレス・イクスの髪を撫で――この行為の意味はいまだに謎である――、そうして、画面の傍らの椅子に腰を下ろす。大抵、膝の上に文庫本を据えて、じっと読書にいそしんでいる。定期的に画面を監視することも、忘れない。
トレス・イクスはユーグの着席を確認してから、各部センサーの精度を落として容量を空ける。壁の向こうに精密射撃を行い得る、その鋭敏な擬似感覚が曖昧に闇に融けていく。人間で言う睡眠のような感覚の中に、トレス・イクスはひとり横たわる。傍にいるはずのユーグは遠ざかる。
遠ざかっても、トレス・イクスの優秀な記憶素子は、あの身体のあたうる限りすべてを記憶している。それを証明したいかのように、トレス・イクスは視覚の出力領域に、仮想のユーグを出力した。
髪も結わず、服も身に着けぬ直立の裸体。光源を指定しなかったので、影さえその身には落ちていない。開かれた眼は瞳孔のもっとも絞られた状態に設定したから、恐ろしいほどに純粋な翠だった。トレス・イクスが設定し描写したユーグだから、睫毛の本数までトレス・イクスの把握できるユーグだった。
出力する際の容量節減のために、トレス・イクスが構築したユーグに傷は一切書き込まれていなかった。その為、皮膚表面の凹凸についていくらかの修正を施さなくてはならなかったが、それをトレス・イクスは無駄な手間だとは感じなかった。かえって演算に使う容量は増えたはずに違いないのだが、できあがった無傷のユーグにトレス・イクスは満足し、仮想のユーグに音声を与えてみた。鼓動の音、呼吸の音、揺れる髪――……そして肉声。
『トレス』
記憶された音声を、そのまま再現してみる。自分の再現能力にトレス・イクスは納得した。稼動させることだって可能だ、とトレス・イクスはさらに領域を広げ、己と向き合うように、仮想のユーグを歩行させた。限られた容量内では本物に及びもつかないものの、優雅にユーグは歩み寄り――
そしてふわり、と、横たわるトレス・イクスの寝台にまたがった。
――?
『かわいそうに』
度を越して保護的な――つまり人間的に言えば優しい――声が、トレス・イクスの擬似聴覚をふるわせた。
『こんなものにつながれて』
触覚センサー上を、繊細な指先がつたっていく。
『いま、じゆうにしてあげよう』
――自由?
『そう、じゆうに』
闇の中にほの白くかがやく肌、近づくのは純度の高すぎる翠の眼、優しい声を吐く唇、なぜか他の部位と同じ触感を持つ――義手ではない指先。
己の作り上げたユーグの精巧さに、生体部品がおびえ、中枢演算機構は演算の中止を要求する。だが、眼前のユーグが消えることはない。
魅入られたように動けないトレス・イクスの、首筋に集中するケーブルに、白い指先がゆっくりと絡む。
『かわいいひと』
ぐ、とケーブルの引かれる力を、トレス・イクスの接続孔は感知した。
『ほら、じゆうに――』
「ガンスリンガー!」
視覚的な光量の増加さえ錯覚させる、その声が叩いたのは、トレス・イクスの現実の聴覚センサーだった。
すべての擬似感覚を正常値まで引き上げて、トレス・イクスは自分を覗き込む、端正な翠の瞳を確認した。
「どうしたんだ、神父トレス」
「……ドウシタ、とは」
正常な発声に少し時間がかかり、トレス・イクスは一度発言を中断した。中断してから、機体内に走っていたはずのプログラムもまた、一時中断されていることに気づく。
……そして、自分の左手が左頸部のケーブルをまとめて握りしめ、ユーグの右の義手によって、かろうじて押さえ込まれているということにも。
トレス・イクスの異常に気づいているのだろう。ユーグは度を越して保護的な――あの再現音声に酷似した、「優しい」声で囁く。
「まだメンテナンスは終わっていないんだ。ケーブルを抜いてはいけないよ」
「……」
トレス・イクスは返答をしなかった。左手の力がぎこちなく抜け、ケーブルを手放す。元通りその手を身体の脇にもどしてやり、ユーグはいつもするように、トレス・イクスの髪を撫でた。
「君は認めないかもしれないが、神父トレス」
髪に触れていた義手の指先は、頬に移り、それから、いたわるように何度も肩を撫でつけた。人間に対し、肩の力を抜くよう促す時のように。
「君は――……君だって。怖い夢を見ることは、あるんだろうな、きっと」
「ユメ」
そう繰り返してから、トレス・イクスは押しかぶせるように「否定」と答えた。
「休眠時、生体部品の誤作動によって記憶再生に齟齬を生じることは確認されている。だがそれを人間と同じ『ユメ』という語で表現することは――」
急に朗々としゃべり始めたトレス・イクスに、ふふ、と小さく笑ってユーグはその指先で、動き続ける唇を押さえる。
「『怖い』は否定しなくていいのか」
「否定、」
「いい子だ」
唇に繰り返し触れられて、発音を阻害されたトレス・イクスは沈黙した。
「大人しくしておいで。もう怖い夢は見ない。こうしているから」
作業台に腰掛けて、ユーグの義手はトレス・イクスの、先ほど動いた左手をそっと握りしめた。
こういう時のユーグは、トレス・イクスが何を言っても自説を翻そうとはしない。また、もともと「怖い夢」など見ないのだから、「怖い夢は見ない」という言も、それに限っては間違いではなかった。
だからトレス・イクスはそれ以上の反論をせず、ただ、
「メンテナンスの再開を要請する、ヴァトー神父」
とだけ言ってみた。あの翠の眼で微笑んで、ユーグは手を繋いだまま、ひょいと傍らの長剣を手に取った。
その長剣の鞘の先が、トン、と電動知性のキーを叩くさまを、トレス・イクスはユーグの義手に触れたまま確認した。プログラムに推奨されて、再び、各部センサーの精度が落ちていく。だが、トレス・イクスはある一部分の、触覚センサーを残し続けた。そこが先刻、異常行動を起こした箇所だから、という理由が言い訳に過ぎないと、知らないのはトレス・イクス本人だけだった。