派遣執行官“ガンスリンガー”が、奇妙に思いつめた顔をした派遣執行官“ソードダンサー”から、「聞きたいことがあるんだが」と話を切り出された時、談話室にはいつもの通り、不運なるアベル・ナイトロードが同席していた。
大災厄以前の生活習慣に詳しいアベルが、同僚の顔を見上げて咄嗟に思ったのは「うわぁ、青春だぁ…」であった。卒業記念のダンスパーティが近づくと、ハイスクールではよくこんな表情の少年が、意中の少女をパーティに誘っていたものである。
「質問の入力を」
アベルと同じく、椅子に腰掛けたままのトレスが、斜め後ろに立ったユーグを、体をねじるようにして見上げる。礼儀作法の教科書のような姿勢で佇んでいたユーグは、トレスの椅子の背もたれに手をかけ、至極丁重に眼下の顔を覗き込んだ。
「2月14日の、君の予定を知りたくて」
フランク王国の近衛兵の格好でもさせたくなるその仕草に、ますますダンスパーティだ、とアベルはユーグをしげしげ眺める。背景に大輪の薔薇でも背負んばかりの金髪の美青年に、機械なりの警戒心を抱いたらしいトレスはとりあえず、「肯定」とも「否定」とも返答しようとはしなかった。
「……なぜ俺の勤務予定を確認する?」
「君と一緒に過ごしたいから」
愛の国の言語を操る騎士らしからぬ直球。「きゃー」と乙女の如く、両拳を口元に持っていってほほを染めたアベルに向けて、トレスは黙って、どこか凍るような眼差しを容赦なく突き刺した。
「な、何で私が睨まれるんですか!?」
「否定、睨んでなどいない。異常音声の発生源を確認しただけだ」
己の八つ当たり的眼差しには気づかず、トレスは再び、その冷たい視線をユーグへと流す。
「ヴァトー神父。2月14日に卿と俺が会合を持つ必要性は?」
「アベルが教えてくれたんだが……」
常の如く、ごく当たり前のようにアベルに責任をなすりつけながら、ユーグは斜め後ろから手を伸ばし、腰掛けたままのトレスの茶色く硬い髪を、手袋の指先で撫でた。「また私のせいなんですかユーグさん…!」と、白いハンカチを噛んでいるアベルの視界の隅で確認しつつ、トレスは首を振ってユーグの手を払う。手を引いてユーグは肩をすくめた。
「大災厄以前の2月14日とは、大切な人に花やカードを贈り合う記念日だったそうだ。なぜかチョコレートを贈る地方もあったらしい」
「発言の意図が不明だ、ヴァトー神父。その風習と卿や俺に何の関係がある」
潔くも惨い切り返しにも、ユーグはひるまなかった。睨んでくる作り物の眼差しを、ものうげにじっと見下ろしながら、口説を重ねる。
「君は俺にとって、とても、とても大切な人だから……ぜひ花なりチョコレートなり、当日に手渡ししたくて」
「無駄な俗習だ」
「そうかもな。だがそれが叶わなかったら、俺はひどく落ち込むだろう」
「……」
じろり、と――だがどこか助けを求めるように、トレスはアベルを横目で睨む。睨まれてアベルは「あはは」と無意味に笑いながら、視線のみで忙しく、向かいの椅子の二人を見比べた。どちらの味方をするのも恐ろしい。
だからアベルは引きつった笑顔のまま、無理矢理話題を捻じ曲げた。
「そっ、そういえばユーグさんって、チョコレートお好きですよね!」
「うん? …そうかな」
己の好物のことなのに、なぜか即答せず、曖昧に呟いて、ユーグは首を傾げた。トレスにややかがんでいた姿勢をすらりと直し、アベルに向き直れば淡く輝く豪奢な髪が、肩の上をすべる。
「ユーグさん?」
「ああ、いや……あまり意識したことはなかったんでな。俺の、」
言いかけてユーグの、どちらかといえば陰鬱な光を宿すのみだった翠の眼差しが、ふとやわらいだ。
「俺の故郷には、当たり前のように美味しいチョコレートがあったものだから」
そしてユーグは眼前の、チョコレート色の石頭にまた、手袋の指先でそっと触れた。頑固な機械化歩兵はなぜか、今度は抵抗しようとはしなかった。
よく躾られた犬のように、無関心げに撫でられているトレスと、指先に髪を絡めて遊んでいるユーグを見て、アベルはほわりと笑う。
「名産地、ですもんね」
故郷を――フランドル地方を思い出させてしまったことに、かつては「ごめんなさい」と言わなければならなかった。昏い翠の中に鬱屈を抱えたまま、「なぜ君が謝るんだ、アベル」とうつろに笑うユーグが、アベルにはただ悲しかった。
今でも、ユーグの心の中の「故郷」に、過去の悲劇と幾多の裏切りに対する、痛みは残りつづけているのだろう。だが、ユーグの眼差しはやわらかい。そしてその先には、故郷に這ったユーグを鞭打ち、追い立て、……そして不器用に手を差し伸べた、チョコレート色の髪の同僚が無愛想に座っている。
己は人間なのだと、必死にそう思い込もうとしてなお、アベルは己を「人間と同種の存在」だと思ったことはない。人間を「愛しい」とは思う。眼前の二人も、心の底から愛している――命短い、かけがえのない飼犬を友として愛するように。
だからそこに嫉妬の心は微塵もなく。アベルは晴れやかに笑って言った。
「トレス君も、14日にはユーグさんに美味しいチョコレート食べさせてもらいましょうね」
仔犬の兄弟に語りかけるかのようにニコニコ嬉しげなアベルを、一瞥してから首をねじってユーグを見上げ、トレスは0.7秒ほどの逡巡を見せた。
「……2月14日に俺が司祭寮の卿の私室に在室し、卿から贈答品を受領すれば良いのか?」
「そうだな……とりあえずは、そうしてもらえると嬉しい」
「了解した」
「え?」
自分が要求しておきながら、思わずユーグが聞き返せば、用は済んだとばかりに立ち上がったトレスが、振り向き様に無感動に言い捨てる。
「スケジュールを調整するよう、“アイアンメイデン”に依頼しておく」
「……」
トレスが退室してからも、塩の柱と化したままのユーグに少し不安を抱き、アベルは「良かったですねぇ、ユーグさん」ととりあえず声をかけてみる。
返答の代わりに、ユーグはふらりと立ち上がった。
「……ユーグさん?」
「行って来る、アベル」
「ど、どこにです?」
「決まっているだろう! 花屋と菓子屋だ!」
加速でもかけているかのような勢いで部屋を飛び出すユーグを見送り、アベルはそれなりにあたふたと、だが致命的にのんびりした忠告を背中へ投げかけた。
「落ち着いてくださいユーグさーん、バレンタインデーはまだ10日も先のことですよーぅ……」
派遣執行官“アイアンメイデン”が、その情報を入手したのはシスター・ロレッタからだった。
<ユーグさんが?>
「ええ、本当にうっとりするほど綺麗な花束で……この季節にあんな薔薇を揃えるのって、きっと大変だったと思います」
派遣執行官“ソードダンサー”が、深紅の大輪の薔薇を中心とした、一抱えもある花束を腕に抱いて司祭寮に向けて歩いている。そんな目撃情報が、主に尼僧を伝達媒介として続々と舞い込み、国務聖省内にちょっとした騒ぎを巻き起こしているらしい。
「どなたかからの贈り物でしょうか。それとも、もしかして神父ユーグがどなたかに……」
<そう……ですわねぇ>
興奮気味にさえずるシスター・ロレッタとは対照的に、シスター・ケイトの表情は今ひとつ冴えない。Axの翼たる飛行戦艦「アイアンメイデン」を預かる彼女は当然、派遣執行官たちのプライベートにも多少詳しい。だから彼女は、今日のこの日、ユーグがそこまで無駄に気合と情熱を込めて花束を贈る相手など、たった一人――いやたった一機しかいないのだということを知っていた。
それがゆえに彼女の表情は曇るのである。なぜならば、
<んもう……トレスさんたら、どうしてこんな日に限って……>
「シスター・ケイト? 神父トレスがどうされました?」
<あら、いえ、そのう……そうそう! トレスさんならばっちり画像保存してくださいましたのにねぇ!>
可愛い妹分の、美剣士への夢をぶち壊しにすることもあるまいと、慌てて言葉を取り繕いながら、シスター・ケイトは意識の片隅に電脳知性を操作した。
己の記憶違いであってほしいと、切実に願いつつ、派遣執行官たちのスケジュールを呼び出す。
だが派遣執行官“ガンスリンガー”、HC-IIIXの稼動状況は――……
<……そうですわよねぇ……>
そしてAxのお姉さんは、シスター・ロレッタに気づかれないよう、重い溜息をついたのだった。
部屋は施錠されたまま、冷たくユーグを拒絶していた。年甲斐もなく――まったくもって年甲斐もなく――腹を立て、八つ当たりして扉を蹴破ったユーグはそのまま、トレスの自室に押し入った。
寮全体が軋む勢いで、蝶つがいの外れかけた扉をバァン! と後ろ手に閉め、そのまま室内に立ち尽くす。
部屋の主はそこにはない。
派遣執行官の自室の扉が破られたのだ。廊下では大騒ぎが起こっているようだったが、多分に視野狭窄のきらいがあるユーグはそんなことに頓着せず、陰惨たる剣鬼の面を、窓の外の灯りに照らさせて動かない。
やがて熾火のように燻っていた、両眼の翠が力を喪い、うつむき、だらりと腕に抱えていたものが下げられた。
2月14日という日が終わりを告げるまで、あと20分。
「……約束したじゃないか……“ガンスリンガー”」
呟いた声が泣き出しそうに震えており、ユーグは己の情けなさにそれこそ泣きたくなった。
急な任務が入ったとでも言うのなら、納得もしよう。その際に一言の伝言がなくたって、任務を最優先せずにはおられぬ人形のことを今更、誰が恨むものか。
だがあの人形は――トレス・イクスは、フランク公国への任務を「自発的に」拝命し、「2日も前に」任務完了しているにも関わらず、「私用で」まだ国外に留まっているのだ。
――人形に何の私用があるというんだ。
部屋中のものに八つ当たりしたくなるのを堪え、一秒ごとにますます鬱々と落ち込んでいく己の気分を止められず、ユーグは重い足取りで、主不在の寝台の脇にひっそりと立った。
シーツの上に、渡すことの適わなかった花束をそっと横たえ、こわばった義手をぎしぎしと、その花束からゆっくり離す。
「……逢いたかったよ、可愛い人」
シーツに指先をそっとすべらせ、未練たっぷりにそろそろと身を退いて、ユーグは寝台に背を向けようと踵を返した。
瞬間、
「――動くな、“ソードダンサー”」
一度蹴破られたドアが、もう一度ガァン! と蹴破られた。
背に負った刀の柄に手をかけたまま、馬鹿のように固まったユーグの目の前に、あれほど待ち望んでいた人影が、両眼を赤くぎらつかせて佇立している。右手には鋼鉄の半身たるジェリコM13“怒りの日”が握り締められたままだ。何をそんなに怒っているんだ、と麻痺した頭で本気で尋ねようとしたユーグは、そこでようやく、自分が彼の部屋に不法侵入したことを思い出した。
「あ……その……これは……」
「武器から手を離し、頭の上に両手を置いて跪け」
「違う、神父トレス……俺はただ……君がいないから……」
言いながらも、愛しい人との突然の対面に動揺しきりのユーグは反射的に、言われた通り即座にその場に膝をついた。
ユーグの対応に満足したのか、トレスはユーグの額に赤外線照射装置をポイントしたまま、背後を振り返って廊下の向こうへ声をかけた。
「問題はない。卿らは就寝することを推奨する」
壁越しに、どよめきと安堵の気配が伝わる。あちこちで扉の閉まる音がする中、トレスもやはり、がたがたの扉を注意深く、壁にたてかけるようにして閉めた。
静寂の帰り来た室内で、降参人の格好をさせられたまま、ユーグは上目遣いにトレスを見上げる。
「……立ちあがってもいいか?」
「肯定。許可する。……ユーグ・ド・ヴァトー、」
来た! とユーグはぎくしゃく立ち上がる。己の愚かな不法侵入について、これからユーグはこの人形にたっぷりしぼられることになるのだろう。
だがトレスの発言は、ユーグの予想範囲をはるかに超えていた。
「時間がない。受け取れ」
「は?」
「受け取れ」
トレスは右手の銃をホルスターに叩き込みながら、同時に左手を、ぶっきらぼうにユーグにつきつけた。
「……あの、神父トレス……これは」
「受領に不都合があるなら」
「ない!」
潔すぎる態度で、左手を引っ込めようとしたトレスから、ユーグはその手の上のものを奪い取った。
恐る恐る、己が奪取してきたものを、窓の外の灯りを頼りにまじまじと、まばたきも忘れて凝視する。
するとどこか、ユーグの反応を訝るようにトレスが確認してきた。
「卿の好物ではなかったのか?」
「…………君が…」
「『君が』? 質問の意図が不明だ、ヴァトー神父」
「君が買ってきたのか?」
「肯定」
「だがこれは、」
一瞬、あふれ出る感情を抑えかねたかのようにユーグの声は掠れ、彼は一度咽喉を鳴らしてから言葉を継いだ。
「これは、……このプラリネは、フランドルにしか売っていないだろう……?」
ユーグの掌の上には、かすかな灯りさえ誇らしげに弾く、金色の包装をまとった小箱がひとつ載せられていた。
トレスはコンマ数秒の間、ユーグから視線を外して沈黙した。
すぐに気を取り直したように、機械らしく抑揚の失せた声で答える。
「フランク公国での任務後、余剰時間を有効に利用する方法を他に算出しえなかっただけだ、ヴァトー神父。卿は2月14日に俺に何らかの贈与を行いたいと要請していた。後日、ナイトロード神父はそれについて、俺からも何らかの贈与を行うことを提案したため、俺はそれを受諾した」
もはや胸が一杯で言葉もないユーグの、その精神状態にはまったく気づかず、殺人人形は常よりほんのわずかに早い口調で説明を続ける。
「本来ならば0200には帰還している予定だったが、卿の嗜好が不明だった為、菓子の断定に時間がかかった」
言われてみれば、ユーグの掌の上の小箱は、彼が幼い頃よりもっとも親しんできたメーカーのものである。ユーグが何か問う前に、ぎりぎりにしか帰って来られなかったことに対し釈明をしたいらしいトレスは、聞かれもせぬのに答え始めた。
「正確には、時間がかかったのは、卿の旧知とされるヤン・ファン・メーレンの居場所の特定だ。当該の菓子が卿の嗜好するところと判明したのは、彼ら夫妻の判断による」
混乱で真っ白に塗りつぶされたユーグの思考能力が、その恐るべき返答を理解するまでには、数秒の時間を必要とした。
「ま…………待て、待て神父トレス! 君はまさか、あの夫妻のところに押しかけて俺の好みを聞きだしてきたのか!?」
「肯定」
即答はむしろ、「いい思いつきだろう」とでも言いたげなほどに自信満々だった。
「そ、……そうか……さすがだな……」
何が「さすが」なのやら、言っている本人もよくわかってはいまい。ただでさえ二度と顔を合わせる気のない二人に、この豪胆なる機械化歩兵がいったい何をどのように要求したものやら、想像もつかず、ユーグはあまりの気恥ずかしさにその場でよろめいた。
これで相手がHCシリーズでさえなかったら、絵に描いたようなメロドラマ的展開に違いない。とにかく、あの二人のところまで押しかけてトレスが奮闘してくれたのは、救いがたいことに、ユーグにとっては幸福も絶頂たるできごとのように思われた。
だがユーグの贅沢な煩悶など、トレスに理解できるはずもない。用心深くユーグの様子を観察していたトレスはやがて、どこか途方にくれたようなオーラを、機械なりに身にまといはじめた。
「……卿には何か、俺の行動に対し不都合があるのか?」
「そんなこと!」
己のフォロー不足に思い至ったユーグは、がばりと顔を上げる。
「ヴァトー神父?」
「そんな……そんなことあるものか……こんな素晴らしい贈り物を……」
愛を囁く為に作られたはずの言語も、言葉に詰まってしまえば役に立たない。苦しいほどの激情を、表現する言葉など思いつかなかった剣士は即座に、己の想いを行動で示した。
即ち――ひしと小箱を携えたまま、眼の前の機械化歩兵を力の限り抱きしめたのだ。
「ヴァトー?」
「ありがとう……我が愛なる君」
それでも、無骨なるゲルマン民族あたりに比べれば歯の浮くような言葉をさらりと言い募り、よく躾けられた飼犬のように、じっと抱かれて動かない同僚の、そのチョコレート色の髪にキスをする。
しばし落ち着かなくチカチカと眼を光らせた結果、ユーグの精神状態はそれなりに良好らしいと判断したらしく、やすらぐように、作り物の眼差しの色は常態に戻った。
だがその、何物をも見逃さぬ視線はユーグの肩越しに、己の寝台にぴたりと留まる。
「ヴァトー神父、俺の寝台の上の物体は『花束』だと推測するが」
「うん?」
目尻だの額だの頬だのにキスをしてから今こそ唇へ! と意気込んでいたユーグは出鼻をくじかれ、少しひるんだように顔を離す。
「……ああ、そうだ。花束だよ。君は食べ物を好まないし、形になっていつまでも残るものも、重荷になるかと思ったから……」
「つまりあれが俺への贈与物か?」
「まぁ……そうだな、プレゼントだ」
ユーグのその答えの何が気に入らなかったのか、緊張したように、ぎらりと瞳に輝きが戻る。
「ガ……ガンスリンガー?」
「可及的速やかに俺に引き渡せ、“ソードダンサー”?」
「なに!?」
「時間がない、ヴァトー――」
意味がわからず、トレスを腕に閉じ込めたままユーグがうろたえている間に、トレスはその怪力で無理矢理ユーグから押し離れる。
瞬間、人間の域を超えぬとは言え平均以上に鋭敏なユーグの、その聴覚に、日の移り変わりを知らせる鐘の音が遠く響いた。
「12時か」
何気なく呟いてから、よくわからないがとにかく愛しい同僚の望む通り、花束を彼に手渡そう……と、ユーグはトレスに向き直る。
黙然と佇んでいたトレスは、ユーグの視線が己を向いたと知り、不意に、小さく頭を下げた。
「トレス?」
「謝罪する、“ソードダンサー”」
「…………は?」
今度は何だ、とユーグが身構えれば、
「俺は卿の要請に応じることができなかった。スケジュールの調整に問題があった」
「な、……何の話だ?」
「卿は『2月14日に』俺に花束を渡すことを希望した」
「あ……」
言われてみれば、現在はもう2月15日である。
「……ええと、神父トレス……」
そんな細かいところまで気にすることはないんだよ。と、言おうとしてユーグは口ごもる。秒単位どころかコンマ秒単位で稼動するHCシリーズが、そんな気休めを受け入れるとも思えない。
気まずい沈黙が、二人の間に流れた。ああもうどうしよう、と、愛しい人の消沈にすっかりうろたえて、ユーグは意味もなく、手の中の包みの皺を伸ばしたり撫でたりしてみる。
彼が必死の思いで購入してきてくれた、ユーグの故郷の思い出の……
――俺の故郷?
不意に天啓の如く、ユーグの脳裏にその言葉が閃いた。
「神父トレス!」
いつもより0.3秒遅れて顔を上げた、可愛すぎるほど誠実な人へと、ユーグは寝台からひったくった花束を勢い良く押しつけた。
とっさに手を挙げてそれを受け止めながらも、トレスは生真面目に言い募る。
「……ヴァトー神父、現在は2月15日だ。卿の計画は失敗――」
「いいや違う、神父トレス。俺の故郷ではまだ2月14日のはずだ。ローマの標準時間よりわずかに遅い」
理屈では絶対に敵わない。それを知っているだけに、ユーグはトレスが抗弁を始める前に、今度はその花束ごとトレスを抱きしめた。
「君が故郷の味を、俺のところに運んできてくれた。だから今日は、俺の故郷の時間でいいんだ」
花束で互いの距離も遠くなりながら、それでも肩を抱かれたトレスに、長い――2秒半もの沈黙があった。
だがそれでも、この我侭な剣士のことがそれなりに大事なトレスはやがて、意志の強いその眼差しを上げてユーグを見つめ、「了解した」とひとつ頷いてやったのだった。
壊れた扉の狭間から聞こえる、夜を徹しての、うんざりするほど甘い語らいから数日後。
シスター・ケイトに叱られながら、扉の修繕費の請求書にサインする、派遣執行官“ソードダンサー”ユーグ・ド・ヴァトーの表情は、それでも十二分に幸せいっぱいであったという。