建物の狭間、曲がりくねった路地の奥に佇んだ、ふたつの人影が重なっている。
いくら治安の良い昼間のローマとは言え、このような路地裏まで、人がわざわざ踏み込むはずもない。だが、もし誰か、酔狂な人間がその場に踏み込めば、この人影がいくつもの曲がり角を経由して、このような狭苦しい場所で抱き合っている理由をすぐに察したはずだ。
薄汚れた外壁に背を預け、力なくだらりと両手を下げて立ち尽くしている片方が、身にまとうのは漆黒の僧衣――それを壁に押しつけるように抱きしめ、首筋に顔を埋めているもう片方が、身にまとうのは暗紅色の修道衣。
どちらも男だ。
神父と修道士の逢引となれば、それは確かに、こんなゴミ溜めのような場所でもないと、人目を避けることはできまい。
だが彼ら二人が持つ背徳性は、そんな生易しいものだけではなかった。
忘我の無表情で、うつろに宙を見つめたままの神父は、人形のように整った、作り物めいた白い顔をしている。特筆すべきは、その首筋だった。かすかにはだけられただけで驚くほど後ろめたさの増す、僧服のその首筋に、黒く染みついた小さな穴――ジャックポッドだ。
この、二十歳にもならぬのではないかと見える小柄な青年は、人にしてもはや人ならざる存在――いわゆる全身型のサイボーグなのであろう。
そしてそのジャックポッド二門は、すでにケーブルによってしっかりと穿たれ、占領されている。
ケーブルが伸びる先は、彼を優しく抱きすくめる修道士の、同じく首筋に設えられたジャックポッド。
それだけではない。
「――まだ、俺が見えているな?」
抑揚に乏しい――だがどこかに嗜虐的なものを漂わせる声が、修道士から神父へとかけられる。
そして修道士はゆっくりと顔をあげ、わずかに眼を細めて、同じ背格好の神父の顔を覗き込んだ。
鏡に映したようにそっくりな――二人の顔。


がくん、と神父の白いおとがいがのけぞる。
救いを求めるように、かすかに唇が開いたが、声が漏れることはなかった。
同じ顔をした修道士は、開いたままの唇を、相手の身体から離した手でやんわりと撫でてやる。
がくがくと、壊れかけた自動人形のような動きで、神父の顔が背けられた。
「逃げてどうする? ……無駄な抵抗は推奨できない」
二人の……いや、二体の同型機が同一ケーブルで有線(ワイヤード)されているということは、彼らは今、何らかの感覚あるいは情報を共有しているということなのだろう。
どちらが優位にあるか――そして、どちらがハッキングされているかは、二体の状態を比べて見れば一目瞭然だった。
「貴様を破壊はしない――そう言ったはずだ。IIIX」
表情を浮かべることを許されない神父――トレスを眺める、その修道士の口元に、対照的に酷薄な笑みがちらりと浮かぶ。
「……ドゥ、……」
トレスの唇は、相手の名を呼ぶことができずに、そのまま閉ざされた。


もはや世界にたった二人きりしか残されておらぬ、トレスにとっては「兄」であるはずの、その同型機の名を。


トレスが、彼と同じ顔を持つ異端審問官に出くわしたのは、日常動作と化している哨戒任務の最中だった。
いきなり顔をつきあわせたわけではない。昼日中、商店街のただ中で彼が突きつけられたのは、レーザーサイトの赤い点だった。
わざわざ彼に見えるように、ぴたり、と突如、僧衣の胸に咲いた光点――即座に、ロング・レンジに焦点を合わせたトレスの視界が、建ち並ぶ商店の一角を捉える。
光点が、つつつ、と僧衣の上をあざけるように這い、トレスの首筋を舐めて額にぽつりと灯った。
挑発されている――そう知ってなお、その挑発に乗ったのは、二軒の建物の間から伸びたその手と戦闘散弾銃の持ち主を、彼が認識していたためだろう。
一度はトレスが破壊した、だが、おそらくとどめを刺すにはいたらなかったであろう――異端審問官ブラザー・バルトロマイ。
ふと光が消え、彼と同じ者に造られたその手もまた、路地の奥に消えていく。
「何を考えている――二号機(ドゥオ)」
互いに、非凡な能力を持っていると知っている。それがゆえに、トレスはその声が「兄」に聞こえていると、確信していた。
腰の拳銃に手を伸ばしたまま、路地へと踏み込む。
戦術思考の片隅で、何かがチカリと警告を発したが、彼は敢えてそれを無視した。


細く曲がりくねった路地のあちこちに、思い出したように扉が現れる――その扉のひとつを通り過ぎかけたトレスは不意に、振り向くと同時にその扉へとジェリコM13“ディエス・イレ”を突きつけた。
「――ここでお前と戦闘する気はない、三号機(トレス)。銃を下ろせ」
扉の向こうから、彼と寸分たがわぬ声がする。彼らは「同一の存在」――彼ら唯一の生体部品であるその脳は、遺伝的に完全に同一なのだ。そして彼らは、作り物の外見ですら、完璧に同じ「設計図」を持っているのだった。
トレスは答えない。だが、その扉の向こう、先に「兄」がその散弾銃に安全装置をかけたと確認してから、黙ったまま、ホルスターに拳銃を納める。
「何の用だ、IIX――異端審問官ブラザー・バルトロマイ」
「取引だ、IIIX――派遣執行官ガンスリンガー」
同じ部隊に属し、背中を預けあうべき存在として造られた二体の、数奇な運命に、余人なら思いを馳せたかもしれない。だが、彼らはどちらも「機械」であった。敵対組織に組み込まれた互いの現在に、疑問はない。
「取引?」
扉の向こうから聞こえる声に対し、問い返すトレスの声に、かすかに警戒する響きがこもる。
「肯定。我々の機体調整者はどちらも、製作者不在の状況において、機体保持に苦労してきたはずだ」
「……肯定」
同型機であるがゆえに、鏡のように同じ返答を与え、トレスは警戒を解かぬまま、まわりくどい相手の次の言葉を待った。
「だがお前をハッキングしてみて判明したことがある――俺の機体には、お前の機体から喪われたバランサーの基礎機能が、一部、五年前のまま残されている」
トレスの、その整った眉にかすかな動揺が走った。五年前には完全に作用していたはずのバランサーを、派遣執行官“プロフェッサー”――ワーズワース博士が非常に苦心して修復したのは、周知の事実だ。だが、トレスだけは知っていた。……彼のバランサーは、五年前の状態そのままではない。かすかに……ほんのかすかに、未完成の部分を残しているがゆえに、彼は脚部への攻撃に弱いのだ。
「ヴァージョンアップされた俺には本来不要だが――旧型のお前にはむしろ必要不可欠なプログラムだ、IIIX」
その声に、獰猛なものがこもったことを、トレスは生体部品と思考流体結晶の両方で感じ取った。
「お前に1000秒の有線を要求する――最後の1.7秒で、お前の望むプログラムを送信しよう」
「その998.3秒の有線で、俺の機体に何をするつもりだ? IIX」
かすかな笑いの気配を、トレスは扉の向こうに感じ取った。トレスより人間的情動に対する縛りの緩い、この「兄」の情念がトレスは苦手だった。
笑いを納め、異端審問官はトレスの問いに間接的に答えた。
「洗脳・破壊・記録の奪取……そのいずれの行動もとらないと確約しよう、派遣執行官」


逡巡は正確に1秒の間なされた。
トレスはかっちりと詰めた僧衣の襟元を緩める。
ぐい、と引き下げて首を露出してみせると、やがて、扉が静かに開いた――


傍目には、控えめに抱き合っているようにしか見えぬ二体のサイボーグ――その片方の膝が、かたかたと笑い出している。
「有線」――互いの機体をケーブルで繋いでから、既に200秒が経過していた。
その間、異端審問官が派遣執行官に行ったことといえば……迂遠過ぎるほどの優しさで、服の上から手を這わせ、露出した首筋を噛み、唾液のない乾いた舌でその唇を舐めてやった程度のことだ。
……その身体の「外」からは。
最初の100秒間で、たやすく侵入を成功させたブラザー・バルトロマイが支配し――無理矢理に限度外まで引き上げたのは、トレスの触覚だった。
通常の人間であれば絶叫しているような痛みと悦楽が、トレスの神経を引き裂き続けている。だがそれが、彼の身体に表現されることはない。
痛みも悦楽も、人工皮膚から擬似神経を通じて感覚野に叩き込まれた瞬間に、外部へのフィードバックを強制的に遮断される。トレスは刺激を受けても、その「結果」を外部に――身体の外に表示することができない。それができてしまっては、義体を損傷した際に、トレスは悲鳴をあげ、身体の動きを鈍らせ、その場にうずくまり倒れてしまうことだろう。それができないからこそ――彼は、どんなダメージを負ってもまったく同じ動きを続けることができるのだ。
……どれほど触覚を強制的に引き上げられていても。
その内部の地獄を、わずかに見開いた眼の奥に明滅する激しいカリキュレーション・ノイズ以外には、何ひとつ表に出すことができないまま――トレスは立ち尽くし、肌を撫でる手の動きに、生体部品の奥底でのみ悲鳴を上げつづける。ケーブルを伝うその悲鳴に耳を傾けながら、ドゥオはその耳元に囁いた。鼓膜の震えすら、今のこの「弟」のボディには拷問となり得るだろうと知りながら。
「残り740秒――もう1.5倍に引き上げたら、神経が灼ききれるか?」
激しい拒絶の意志が、ケーブルの向こうから叩きつけられる。必死で防壁を構築しようとする精神の抵抗を、無理矢理突き破ることはまるで、「弟」を強姦しているような歪んだ喜びをドゥオに与えた。
首筋の、警告の出やすいジャックポッド付近を優しく噛んでやる。トレスの視界を、刹那、レッドアラートが支配した。「弟」の精神をがんじがらめに緊縛する機械が、その刺激を抑えきれずに、機体を痙攣させ始めている。それさえもドゥオは把握していた。
「助けてやろう――IIIX」
うつろな電子眼が、必死に焦点を合わせて「兄」を見る。その演算を手伝ってやりながら、ドゥオは「弟」に唇の端だけで笑いかけた。
「俺に快楽を感じさせることができるか? できたなら、その時点で有線を切る。お前の神経を破壊することは俺の希望ではない」
「……か、……イ」
「快楽だ」
震える身体を片手で抱いて支えたまま、観察するようにドゥオはトレスの瞳を覗きこんでいる。彼の自我が感じている屈辱と、狂気のような刺激が、その瞳にほの見える様を眺めるように。
「残り600秒――このまま耐えるか? 俺はそれでも問題ない」
これ以上の侵蝕を防ぐことに、演算のほとんどを費やしているのだろう。声も出せない「弟」が、それでも、有線先から拒絶の意志を伝えてくる。
その「意志」が手を伸ばし、助けを求めるように演算のための容量を奪おうとする様を、ドゥオは自覚した。視覚的なイメージをそれにつけ加えるなら、手を差し伸べられた、という感覚に匹敵するだろう。ドゥオはトレスの触覚を絞り上げる手を緩め、トレスが身体を動かすその演算を手伝った。
震える「弟」の手が「兄」へと伸び――その身体を不器用にまさぐる。
愛撫しているというより、ほとんどすがるようなその手を放置して、ドゥオは「残り500秒」と宣告した。まだ、半分。その事実がトレスを打ちのめすであろうと、充分に計算した上で。
のしかかって体重を預けてくるドゥオに、半ば潰されながら、トレスは懸命にその手を動かす。修道服の狭間から滑り込んだ、手袋をはめたままの手はたしかに滑らかだ。だが、ドゥオには「触れられている」という認識しかない……今のドゥオは、常駐戦術思考起動時のトレスと同じく、触覚が快楽という感覚を導き出すその道筋を、カットしているに等しいのだ。
だからトレスがいくら必死に奉仕しようと、ドゥオが約束をかなえることはない……
「残り480秒――……このまま耐えるしかないようだが、IIIX」
黙れ、と唇がかすかに動く。ムキになっているようなその姿態に、そこはかとない満足感を覚えてドゥオは眼を細めた。
過剰な信号を受け続けた生体部品が、脳内麻薬を引きずり出されはじめたのかもしれない。表情を持たぬはずの「弟」の眼の奥に、熱に浮かされたような光がある。このまま少しずつ、こっそりとリミッターを侵蝕していけば――喘ぎ声のひとつでも、その唇から漏れるのだろうか。
……この唇から――……
「――……?」
ドゥオはかすかに身を退いた。その肩を、身体の半ばを支配された者とは思えぬ確かさで、トレスの手が掴む。
だがドゥオはそれを意識していなかった。
彼は、彼が侵入しているトレスの意識が、一瞬ともいえぬ刹那、驚くほどの鮮やかさで脳裏に甦らせたひとつの面影を追跡していた。黄金と――……翡翠の色彩が、確かにドゥオの意識の前で、ひらりと翻ったように見えた。だが、それは捕捉する寸前に、護るようにトレスの手によって削除され……その代わりに、気づけばすぐ、眼の前に、まったく同じつくりをした端正な顔が迫っていた。
「トレス――」


脊椎を、不吉なほどの熱と戦慄が駆け上る。
「弟」の唇が、己の唇に触れたのだ――と、知った時には反射的に、ドゥオはケーブルを引き抜いていた。


ドッ、と重い音をたてて、トレスの身体がよろけ、壁にぶつかる。
束縛と支配から、突如解放された身体が自律を取り戻す前に、ドゥオはトレスから一歩後ずさった。
「…………ドゥオ、」
声を取り戻したトレスの呼びかけに、ドゥオは答えない。
「ドゥオ・イクス?」
再び呼びかけて、ふらつく眼差しをトレスはドゥオに向けた。
返答の代わりに、ドゥオは一歩近づくと、無言でトレスの首筋に、再びケーブルを打ち込んだ。
トレスが抵抗する間もなく、彼の望むプログラムが、ケーブルを通じて一気に流れ込む。
他のデータを無理矢理圧縮しながら押し込まれる巨大容量に、トレスの傷んだ神経が逆撫でされ、彼の身体は電流を通されたように震えた。
「――約束の物だ」
ぴったり1.7秒後、再びケーブルを引き抜くと同時に、ドゥオはトレスに背を向けた。
リミッターぎりぎりの感情の渦が、その生体部品を沸騰させる。
あの、ぞっとするような「何か」を脳幹に叩き込んできたくちづけは、その時のトレスの眼差しは、明らかに、ドゥオを見てはいなかった。たかが、唇と唇が触れただけだというのに、その行為にドゥオは戦慄した。確かに、それは「快楽」だった。それを、ドゥオが感じたのか、ドゥオが支配したトレスの触覚が感じたのか、それはもはやわからない。そんなことは問題ではない。
あのくちづけを教え込んだ者がいる。それはドゥオにとっては、トレスの裏切り――それも唾棄すべき、憎むべき裏切りであるとしか思えない。
同じ脳と同じ義体を持つあの「弟」は、自分のものだ、とドゥオはほぼ無意識の域で認識していた。あれは自分であり、自分はあれであるべきだった。いつかその戦闘記憶のすべてを手に入れ、取り込み、そして機体はバラして自分のスペアにするつもりだった。その狂気のような執着は、クローンは唯一のオリジナルになろうと共食いを繰り返す――という俗説を、裏づけるかのようだった。


憎んでいるのか、欲しているのか、妬んでいるのか、それすら理解できないままに――ドゥオの自我の外殻を鋼鉄で覆ったそのリミッターは、ドゥオからその感情を奪って叩き消していった。






恐ろしい速さで、タイプライターが文章を吐き出していく。それを生み出すキーボードもまた、恐ろしいスピードで叩かれていった。もっとも難解なピアノ曲にも比されるべきその、芸術的な運動を作り出しているのはトレスだった。
「教授」の研究室に戻れば、電動知性と直結して報告書を作成することも可能だ。だが、出先で報告書を作る場合は、どうしてもタイプライターに頼る羽目になる。別にそれを面倒くさがるでもなく、トレスはキーボードが耐えるぎりぎりの速さで、文章を生産していった。
その傍ら、トレスの座る椅子の、肘掛に腰を下ろしてユーグがトレスを見下ろしている。
タイプライターから紙が吐き出されると、ユーグがそれを抜き取って眼を通す。共同作戦だったのだから、相棒が眼を通すのは当然のことだ。だが、いつのまにかユーグは紙面ではなく、指先以外は何ひとつ、人形のように動かないトレスの、その横顔に見入っていた。
吐き出されていく紙面を視線で走査したまま、トレスが抑揚のない声を発する。
「何を見ている、“ソードダンサー”?」
「君を」
お決まりのやり取りだった。次にユーグが行う仕草も、死線を超えるその狭間に、非日常の苦悩の裏側に、当たり前のように繰り返されてきたものだった。
だからトレスは、ユーグが手を伸ばし、作り物のおとがいを捕らえてユーグの方に向けさせた時も、キーボードを叩く手を休めはしなかった。ただ、感情の乏しい硝子の眼差しが、すぐ目前のユーグの顔を見上げる。まるで、ヘヴィスモーカが煙草に火をつける時のように、身に染みついた、慣れきった仕草でユーグが身を屈め、トレスの顔に吐息を寄せた時も、トレスのタイピングの速度は落ちることがなかった。
だが、
「――……?」
当たり前のように、ユーグの唇がトレスの唇に触れた瞬間、部屋から音が消えた。
宝玉に喩えられる翠の瞳を、かすかに見張ってユーグはトレスの眼を覗きこむ。常と変わらぬ、うつろな、きつい眼差しで、トレスはユーグを見上げていた。唇を、預けたまま。……手を止めた、死のような静寂の中で。
ユーグは唇を、トレスの唇から耳朶へと移動させて囁いた。
「誰かが……君を、少し変えてしまったな」
「質問の意図が不明だ、ヴァトー神父」
「いいんだ、わからなくて……今の君も、嫌いじゃない」
唇は首筋のジャックポッドに移り、苦笑のような吐息が、そこに触れてかすかにトレスの表情を硬くさせた。やんわりと抱きすくめられ、誤作動を恐れたか、手が、キーボードから離れる。
はじめての静寂の中で、ユーグは腕の中の人形の駆動音に耳を傾けた。その傾げられた首、ゆらぐ眼差し、落ちかかる金髪――そんなものを、人形の作り物の記録装置に、焼きつけながら。