僧衣の襟に手を当てると、トレスは後ずさろうとしたようだった。
「……神父トレス?」
ユーグがあやすように優しく囁きかけながら、留め金を外そうとした時点でやっと、トレスは身をよじってその手を拒絶する。
「ネガティヴ」
一言、はっきりと宣言された拒絶の言葉。だが、ユーグはその言葉を疑問に思う。場所はトレスの自室、時間は夜更け、明日の予定は二人とも休暇。ユーグに特段の疲労はなく、トレスに重大な障害はない。……要するに、ユーグが触れることをトレスが嫌がる、何の要素もそこには存在しないはずだった。
「卿は任務明けで疲労が激しい」「俺は2000秒後に出立する」――そんな理由があるなら、ユーグも一応は引き下がる素振りを見せただろう。ひどい時には、触れようとしたら、腹に風穴が空いていると申告されたことすらある。その時は真っ青になって教授のラボに引きずっていったが、とにかく、ユーグは理由さえ納得できるものなら、決して、トレスにその身体を開くよう無理強いするつもりはなかった。
指先から消えた感触を淋しく思いながら、更に手を伸ばし、生きた人間を超えてなめらかな頬を、軽く撫でる。
「嫌か?」
問うてもトレスは返答しなかった。ユーグはトレスの無機的な人工虹彩の奥に、かすか、戸惑うような視点の揺らぎが発生したことを見逃さなかった。
もう一度、首を傾げて相手の眼差しを覗き込みながらやんわり問う。
「……嫌?」
機械的な分析からすれば、その問いは、前の問いに比べて音量が低下し、単語も一文字分減っただけのことである。だがそこに、ユーグは抗いがたい甘さと甘えをこめてみせた。木石に等しい人形にすら、否応なく感じ入らされるような。
作り物の眼差しはわずかに下方に動き、そして元通りユーグの顔を見た。無表情なままの、だが、無感情であるはずがないその、かすかな行動がユーグを幸福にする。そんなユーグの心情を知るはずもなく、トレスは頬にユーグの手を触れさせたまま、抑揚の乏しい声で答えた。
「装備がない」
「え?」
簡潔すぎるトレスの答えに、ユーグは眉を寄せる。「装備」と言われても、咄嗟に想像するのはこの人形が時折、その小柄な身体に山盛り背負っている機銃だの、ランチャーだのといったものだ。そしてそんなものはまず間違いなく、寝台の上で愛を語るために必要なものではないはずだ。……多分。少なくともユーグの常識では。
ユーグのささやかな混乱に気づいたのか、トレスはぶっきらぼうに、それでも説明を補足した。
「卿の要求に応える為の装備がない」
「俺の要求、って……俺はそんな物騒な要求をしたか?」
「物騒? 発言の意図が不明だ。卿は俺の機体を使用して性行為を実施したいのではなかったのか?」
「…………究極に即物的な言い方をするならば、その通りだ」
少なからずがっかりした声音になるのを隠せないまま、ユーグはそれでも、己の中のロマンチズムを大幅に譲歩させて首肯した。ユーグの複雑な心境に気づく様子はなく、淡々とトレスは己の主張を繰り返した。
「なら卿の要求に対しては否定だ。俺には装備が――」
「装備装備と君は言うが」
自他共に短気と認める剣士は、人形の言を遮って頬から襟元へと手を滑らせる。手早く外衣を剥がしながら、顔を寄せてまずは額にくちづけた。トレスはキスこそ拒まぬものの、てきぱきと脱がされていく外衣ごと、ユーグの両手を掴んだ。むっとしてユーグは、トレスの下唇に軽く噛みつく。
「通常の男と同じ性行為を完遂できるような装備なんて、君にはもともと搭載されていないじゃないか。それを今更、装備がどうのこうのと言われても……俺のことが嫌で拒んでいるとしか思えない」
「否定。俺は機械だ。そのような感情はない」
特別製の義手が、みしみしと音を立てはじめている。トレスはその義手に視線を落とした。ユーグが無理矢理、トレスの制止を振り払おうとしているのだ。このままでは、ユーグの義手は根元からねじ切れることだろう。
視線を落としてその義手を眺めたまま、トレスは黙って、己の両手から力を抜いた。放たれた義手が、勢い余って跳ねかけたのも束の間、ユーグは勢い良くトレスを引き寄せ、その僧衣の留め金をもどかしく外し、引き剥いだ。
「だったら、大人しく――……ッ」
はっ、と端正な唇が息を呑み、僧衣の襟を掴んだまま、手が止まる。トレスは無機的な沈黙を保ったまま、ユーグの驚きに何らの解説をつけ加えようともしなかった。
通常なら、剥がされた僧衣の下には、難燃性の人工皮膚が真珠めいた光沢を誇り、ユーグの視線と指先の探求から、内部機構を護っているはずだ。だが、今、トレスの硬い機体は無骨な銀光沢の装甲板と、その下の赤黒くグロテスクな人工筋肉をはっきりと露出していた。
息づくかのような駆動音にかすかに振動する、その身体をユーグは眼を見張ったまま、ただ見入る。
「……言ったはずだ」
冷厳たる機械音声がユーグを叩いた。
「『卿の要求に応える為の装備がない』と――つまり卿の性的欲望を満たす為には最低限必要とされる、『機械であることを擬装する装備』が、現在の俺には装着されていない」
現実を容赦なく突きつける、その声を聞きながらユーグは、ぼんやりとしているようにも見える眼差しを、機械の身体に向けて動かない。
やがてその手が夢見るように頼りなく、暴かれた皮下装甲の滑らかな板に向けて伸びた。私服であるがゆえに手袋をはめていない、ユーグの繊細な指先は畏れるように、そっと銀の表面を撫で……やがて徐々に大胆に、装甲板の縁を辿って人工筋肉の繊維をつついた。
相変わらず自分の世界に篭りがちな同僚の、その手と瞳を人形は、やや持て余すように見比べる。
「ヴァトー神父?」
「君の言いたいことはよくわかったよ」
ぼんやりと――いや、見直してみれば明らかに「うっとりと」している難儀な剣士は、甘い声で囁きながら、僧衣の襟の奥に指先を潜らせる。
「……ヴァトー」
「簡単なことだ。つまり今日の俺は、普段よりも皮一枚分、君の深淵に近づいている……そう言いたかったんだろう?」
「――ネ――ガティヴ」
一瞬の、考え込んでしまったような沈黙の後に、やや急いで放たれた返答などもはや気にすることもない。ユーグはうやうやしくトレスの僧衣の襟をつまみ、手馴れた仕草でストンと肩から落としてしまった。
「わからないのは――」
「ヴァトー神父。卿は俺の話を、」
「感情がないと言い張る君が、今の自分の姿を、まるで醜悪なものであるかのように見なすことだ」
「否定、俺は」
後ずさるトレスが壁にぶち当たる前に、ユーグはやんわりと背に腕を回し、抱き留めることでそれ以上の逃亡をトレスから奪った。
「本気で思っているのか、可愛い人。
皮膚一枚の下に、血と肉塊と臓物が詰まっていることが、そんなに美しいことだなんて」
動きを止めたトレスの顔を、爛々と光る翠の瞳で覗き込み、ひどく優しくユーグは囁く。
「さぁ、返事をするんだ、可愛い人」
「……ヴァトー神父?」
「今日、俺が嫌になるほど聞いた言葉を。もう一度聞かせろと、言っているんだよ」
「何だと?」
「『否定』と――生々しい人体に比べて醜悪であるはずなどないと、君の口から俺に告げるんだ。
君は美しい、“ガンスリンガー”。その皮膚も、皮膚の下の銀の鱗も、計算され尽くした金属の肉も、深紅の皮下循環剤も――その下の骨格の一部品までもすべて美しい。そこに、俺の情熱を冷ます要素など何一つない」
わずかに見開かれた義眼の奥底を覗き込み、赤黒く冷たい機体は翠の宝玉に余す所なく映し出される。それでも、その翠は何一つ揺らぐことがなかった。
「なのに君は、こんなにも頑是なく他愛ないことを言ってくれるのか。
その清潔な部品と、高潔な機構を俺の前に晒したまま――人肉と臓物に恋をせよ、と」
「――――卿の言は……極端だ」
気の毒な人形は、やっとの思いでそれだけを言うと、八つ当たりのようにユーグを睨んだ。
「『否定』と言ってはくれないのか? 俺と君はこんなにお似合いなのに」
「否定!」
「そんなところだけ否定するなよ。ほら――」
腕にまとわりついた僧衣を振り払おうとしている、なめらかに動く腕の装甲板を、ユーグの義手が両手とも掴んだ。
「ほら……こんなに大胆なことをしても、俺の手は君のデリケートな部品に、油脂や指紋を付着させずにすむ」
「離せ」
「ああそうか、顔には皮膚が張ったままだよな。両手以外で触れてもいいのか」
「ヴァトー!」
拒絶の言しか吐かない唇を、己の唇で塞いで数秒後、ゆっくり顔を離してユーグは駄目押しを放つ。
「そんなに俺を、生体部品の集合体と娶わせたいのか?
俺を裏切ったのも、陥れたのも、全てを奪ったのも――皆、美しい人肉の持ち主だったんだぞ?」
「――否定」
俺が主張しているのはそのようなことではない。そう言葉を継いで、人形はとうとう、睨みつけていた視線を外した。
「わかっているさ。機体を人間の不潔な体液で汚したくないんだろう?」
「? ……」
ほんのわずか、表情の乏しい人形の顔に逡巡のようなものが生まれる。そうだったかな? と考えた様子のトレスの肩に優しく、先ほど手ずから剥いだ僧衣を掛け直してやると、ユーグは小柄な身体をそっと抱きしめた。
「こうしているだけなら、さして汚れもしないな?」
「……」
本当に自分は、機体の汚れを嫌がってユーグを拒絶したのだろうか。何かもっと――こう、微妙な、繊細な問題を抱えていたのではないだろうか。
だが感情も感慨も持たぬ己の演算機構が、そんな繊細な問題をそもそも提議できるとはとても思えず。トレスはやや混乱した思考の中で、それでも、己を抱え込むユーグを見上げた。
そして、今宵ようやく、初めての――たった一言の返答を与える。
「――肯定」
手を繋いで眠るなどという恥ずかしい提案も、人形は無知なるままに受け入れ、ユーグの義手をひっそり握って、大人しく寝台に横たわった。
その整って冷たい機体に向け、横臥の形を取ったユーグは、繋がぬ方の手でそろそろと、僧衣のあわせを辿っていく。
だらしなく開かれたままの僧衣の下に、ひやりとした金属のカーブ。穏やかに眼を伏せたまま、トレスは反応しようとしない。触覚は人工皮膚に頼っていたはずだから、感じていないだけなのかもしれないが。
首から上だけは人間そのままに、皮膚一枚を剥いだその機体は、身の震えるような異形の美だった。
――今更どうして、この美を拒絶するなどということがあるものか。
声に出さず、唇の形ですら出すことなく、心中にのみユーグは囁く。
――俺は五年以上前にもう、君のすべてを見ているのに。
スフォルツァ城の特別治療室で、すべての皮膚を剥がされていた、瞼さえ存在しなかった――科学の羊水の中で眠っていた、骨組だけの人形がトレスの真の姿だった。
何に助けを求めれば良いのかさえわからなかった、師の袖にすがるようにしてやっと生きていられた、そんなあの頃のユーグにとって、壊れた人形の目覚めを待つ毎日は楽しかった。人間でもなく、かといって本当にただの器物というわけでもない、まどろみにぎょろり、ぎょろりと眼球を動かしていたグロテスクなあの人形――その存在の確かさは、いつしかユーグの救いになった。
虚飾、裏切り、欲望……それら、美しい人皮の下の詰まった汚物とは無縁の、完璧な――完璧であろうと懸命に足掻く人形。そのよじれる美しい魂に、惹かれるその情念はもはや、恋などという甘い言葉にとどまるものではなく。
「……ヴァトー神父、卿は就寝しないのか?」
気づけばいつしか、人形の冷ややかな義眼がユーグを見つめていた。
「いや……考えていただけだ」
「何をだ?」
「君への狂信を」
「……狂信だと?」
「そうさ、知らなかったのか。俺は、君を崇拝しているんだ……きっとこれが、偶像崇拝という奴なんだろうな」
「ネガ――」
「言わなくていい」
聞き飽きた言葉を繰り返そうとした人形の、その唇にそっと指先で触れてから、ユーグはことん、と僧衣の肩に額を押しつけた。
「言わなくていい……わかってるよ」
幾重にも忌むべきその崇拝を、受け入れて欲しいなどと言うつもりはない。ただ、明日無事に目覚めるという保証もないこの夜に、最後に聞く言葉が拒絶であって欲しくはなかった。
「忠告通り、もう寝るとしよう。おやすみ、デウス・エキス・マキナ」
「……」
おそらくそれに続くべき言葉は「否定」か「卿の言は理解不能だ」に違いなかったのだろう。だが、唇から手を離しても、人形が言葉を発することはなかった。ただ、繋がれた方の手になぜか――ほんのわずか、力がこもっただけだった。
その行為が、「否定」ではない何かを懸命に伝えてくれているのだと、信じるのは無駄なことなのかもしれない。
それでも愚かな剣士はその狂信を覆すことなく、手をしっかりと握り返して瞳を閉じ、彼の偶像の夢を見るための眠りに、身を投じた。