そのシスターが、体温と脈拍を上昇させながら話し掛けてきた時、トレスの隣には、淡い金の髪と高い黒の襟に表情を隠した、ひとりの剣士が並んで歩いていた。
だから、回廊の柱の影から、同僚に背中を押されて転げるように飛び出してきたそのシスターに、「ファーザー・トレス」と震え声で名を呼ばれても、トレスはまずちらりと、彼の金の剣士へと視線を投げかけた。この剣士が、こんな脈拍と体温と声をしたシスターに、話し掛けられて困ったように佇んでいるのをトレスは何度も、目撃したことがあったのだ。
「君に用だよ、イクス神父」
俺じゃない。そう言ってその彫像のような美貌をやんわりほころばせ、剣士は――ユーグは半歩下がってみせた。対応を一任されてからトレスは、男性にしては小柄な身体を機能的に翻し、尼僧へと黙って向き直った。
「あの、……その、先日は、……ありがとうございましたっ」
わなわな震えながら、真っ赤になって尼僧が突き出したものに、硝子色と翠の二対の視線が集中する。ほぼ新品に近い紙袋の包み。差し出された手の先でやんわりとしなっているところを見るに、中身は布製品のようだった。
「内容物を確認しても良いか、シスター・マーサ?」
呼ばれて、幼さの残る尼僧が眼を大きく見開く。名前を覚えてもらっているとは、思っていなかったのかもしれない。動揺で返事すら出来ず、がくがく頷いた少女の対応に、異常を感じはしたものの、その手の反応を割と見慣れたトレスは指摘することなく、黙って包みを受け取り、中身を取り出した。
きちんと畳まれて、中に入っていたのは一着の――漆黒のケープだった。
ユーグの片目がほんのわずかにすがめられたことを、トレスの広角視野は感知した。だがそれについても指摘はせず、トレスは無機的な声を尼僧にかけた。
「礼は不要だ、シスター・マーサ。俺は同僚に対する支援義務を遂行したに過ぎない」
「で、でも、あたしすごく困ってて……ファーザー・トレスにこれをお借りしてほんと嬉しくて……おかげで濡れないですんで……」
少女のようなシスターの、その上気した頬が静まる様子はない。トレスはとにかく、突きつけられたケープを紙袋に几帳面に収納しなおし、脇に抱えた。傍らのユーグにも、それがトレスのケープであることは見てとれただろう。それは綺麗に洗濯が為され、アイロンも当てられていた。
「雨天下における長時間の行動は、特に女性には推奨されない、シスター・マーサ。今後は傘を携帯することを勧告する」
素朴な洗濯のりの匂い。トレスはほんの微かな遅滞ののちに、機械的な声と口調のまま、そっけなく補足した。
「……衣服のクリーニングについては感謝する」
「そっ……そんな!」
ほとんど呼吸困難に陥ったシスターが、何だか感激の余り涙眼になった辺りでさすがに、トレスは助けを求めるようにユーグの方を振り返った。彼は、自分が「とっつきにくい」と思われていることを理解していた。だが残念なことに、自分が「とっつきにくい『けど実は優しくて紳士的』」「とっつきにくい『けどいつかお話してみたい』」と多くのシスターに思われていることについては、まったく理解していないのだった。
無表情なりに訴えるような、トレスの眼差しを下方から受け、黙ってユーグはトレスを見返す。
なぜか一瞬、物騒なものを感じてトレスが口を開きかけた時、ポン、とユーグはトレスの肩を叩いた。
その唇が耳元に寄せられる。
『俺は部屋へ戻っているから』
囁かれた言葉は、別段危険な語句を含んでいるわけではなかった。
だが、
「――……」
トレスの身体が、かろうじてシスターには気取られぬほどに、ぐら、と揺らぐ。
耳元で、まるで息を吹きかけるように、フ、と端正な唇が笑ったことを、トレスの聴覚と触覚は感じ取った。
『後で俺の部屋においで――神父トレス』


トレスの意識が混乱から回復した時には、既にユーグは笑みと一礼をシスターに与え、トレスに背中を向けて廊下を一歩踏み出していた。
一瞬歪んだ視野を立て直し、トレスはしどろもどろながら懸命なシスターの、その言葉に答えてやる。
だがその思考の半ば以上は、先ほどのユーグの言動に、機械にはありえぬほどの怒りを込めて向けられていた。
トレスにしか理解できぬ――そう、すぐ眼前に立つ少女にすら理解できなかったであろう、その傲慢。


囁いた言葉は、ユーグの母国語――フランドル訛りのフランク語。
だが、ユーグはローマにおいて、母国語を使うことなど滅多にない。……そう、「滅多に」。


ただひとつ、ユーグが母国語を「日常的に」使うのは……トレスに触れる閨の中だけだった。






機体をどろどろに溶かされるような錯覚の、頻発し連続する試練の時間を終えて、トレスは寝台の上、うつろに眼を開いて粗末な天井の漆喰を見つめていた。
傍らに、かすかな寝息をたてる、たくましくも伸びやかな裸身が背を向けている。猫のように柔軟な脊椎の、呼吸につれる微細な動きが、同じように僧衣を脱ぎ捨てたトレスの右腕に伝わっていた。
よく眠っている。昼間、己が叩き込んだ「刷り込み」の効果を確認したせいか、この男は終始上機嫌で――己の欲を吐くことよりも、トレスを追いつめ、乱すことを優先して楽しみたがった。冷たい肌を潤滑剤塗れにされ、その上を剣士の、傷だらけの白い肌が滑るたびに、トレスの機体は痙攣して制御不能に陥った。それは歓喜などではなく、トレスにとってはむしろ恐怖に近く認識されるべきものであった。
汚された身を放置したまま、トレスは昼間の出来事を思考する。
ほの暗く甘く囁かれる、あの掠れ気味の低いフランク語は、トレスにとっては「夜の言葉」だ。
人間的情動を持たぬとされるHCシリーズにとって、それが何の影響を与えるはずもない。
だが、トレスの思考は瞬間的に、フリーズの海に溺れさせられるこの闇深き夜を「連想」し、その機体は咄嗟に、息苦しさのような容量不足を覚えて軋んだのだ。
それはまるで、ユーグの放つフランク語によって、トレスが規定の反射を自動的に行うよう、プログラミングされているかのようであった。


――プログラミング。
その言葉がトレスに、一層の危機感を引き起こす。
トレスは己の機体の現状が、人間で言うなら「後催眠」と言うべき現象に近いものだと判断した。
しかもそれは、機体管理者「教授」が行うような、緻密かつ繊細なプログラミングによって刷り込まれた行動などではない。ユーグにその手の一切の知識がないことを、トレスは知悉していた。そしてトレス自身もまた、何らかのプログラムが書き加えられた自覚はない。
なのに、単純なフランク語の会話ひとつに、くずおれ屈服しようとする機体。
機械に制御された感情は苛立ちと焦燥を沸騰させ、許されぬ出口を求めて迷走し、そして短絡的な結論に落ち着こうとする。
――ウィルス。
己がユーグに『操られる』理由を、見つけ出すことの出来ないトレスはその結論にすがりついた。
――この男は「ウィルス」だ。
ユーグの何が、と特定することはできない。ただこの男の存在そのものが、トレスというプログラムに対して致命的なウィルスなのだ。トレスはそう思い込もうとした。
――「ウィルス」は排除する。
エラーの原因を排除してしまえば、もう、このような眼に遭うこともない。
このような想いをすることも――……


傍らにいつも引き寄せていたはずのジェリコM13が、床に落ちている。ベッドの上でのたうっているうちに、手で弾いてしまったものらしい。
トレスは不意にそれを意識した。
これでは不測の事態に対し、即時発砲することがかなわない。拾うべきだろう……唐突にそう判断して、ユーグの背に触れていた右腕を離し、寝返りを打ってその右手を床へと伸ばす。
「なぜ」、自分がその銃を不意に必要としたかについては、理解せず――理解しようともせぬままに、指先が、馴染んだ感触を探り当てる。
冷たくも確かなその手触りに、思考が冷え、死を産む手がゆっくりと、その銃把を握りしめた、その瞬間。


『――どこへ行く』
掠れた、低いフランク語がトレスの聴覚センサーを震わせると共に……チタンのフレームが軋むほどの力で、その右肩が鷲掴みにされていた。


「……ヴァトー神父?」
なぜか咄嗟に、床に銃を戻し、トレスはその右腕をベッドに引き上げた。それでもユーグの義手は許さず、ぎりぎりとトレスの肩を締めつけて彼をベッドに引き倒そうとする。
先程の問いを、トレスは思い出す。ユーグは、トレスが身体をよじって床に手を伸ばしたその動きを、どうやらベッドから降りるためのものだと勘違いしたらしい。単純に、「銃を拾っていただけだ」と言えばすむはずなのに、答えようとするトレスの思考はかすかな混乱を生じた。
面倒を避けようとしてか、トレスは己でも自覚せぬままに、ユーグに嘘をつく。
「機体を洗浄しに行くだけだ。……離せ」
返答は、その小柄な機体をさらにベッドに押しつけようとする、暴力的な義手の力だった。
「ヴァトー神父、繰り返す――」
「必要ない」
力負けするはずもないが、体勢の不安定さを厭ったトレスが、大人しく、仰向けにベッドに寝転がってやれば、その視界に、いつのまにかこちらに向き直ったユーグの姿が、入ってくる。
ベッドの上でのやり取りには必要ないほどに、まさしく殺し合いの最中のように、無駄に力を込められた義手、半ば身を起こしかけた、夜目にも白く浮かび上がる裸身、そこに乱れかかる、波打つ金髪、そして覗く、
……ぎらついた、獣のような翠の双瞳。
「身体を洗うのは朝でいい。……ここにいるんだ」
有無を言わせぬ力を込めて、高圧的に、一方的に告げられた言葉。昂ぶっている相手をなだめるように、トレスは下手に出てやった。
「了解した。卿は就寝を」
「……」
美貌の暴君はそれでも、大人しく横たわったままのトレスを睥睨していたが、やがてその従順さに偽りがないと知ると、トレスの右腕を抱え込むようにして寝返りを打ち直した。
当然、その腕はユーグの身体の下敷きとなる。トレスがベッドから出ようとすれば――それどころか、ユーグから離れた方向へ寝返りを打とうとすれば、うつぶせのユーグが抱え込んだ右腕を、引っこ抜かなければならないのだ。
そして、ユーグに知られずにそれを行うのは不可能だった。
作り物の両腕に、しっかりと抱え込まれ、動悸を打つ白い胸に、押しつぶされたトレスの右腕。
銃を取ろうとした、……だが、今は銃など取らずとも、少し力を込めればたちどころに、ユーグの心臓をつかみ出すことが出来るだろう機械の腕。
おやすみ、の言葉もなく、ただ、肩越しに抉るような一瞥を与え、そして、ユーグは枕に顔を伏せて再びの眠りにつく。
仰向けに寝るか、ユーグの体に寄り添うよう寝返りを打つか、そのどちらかの選択肢しか許されなくなった人形は、黙って、そのぎらぎらした翠が消え、寝息に変わる様を見守った。
眠ってもなお、トレスの右腕にみしみしと加えられた力――それが示すのは、業深き剣士の狂気のような執着だ。
だがそれを全身に受けたトレスの思考は、先程までのエラーが嘘のように凪いでいた。
――この男は病んでいる。
その確信が、トレスの中に打ち込まれた苛立ちを安らげ、健全とはとても言えない、「喜び」という名の安定をすらかきたてる。
――ウィルスに感染したのは、俺だけではない。
トレスと言うプログラムの中に、ユーグと言うウィルスが注入され、荒れ狂ってトレスを病み狂わせたように、ユーグと言うプログラムの中にもまた、不可避のウィルスは送り込まれて、ユーグを病み狂わせているのだ。
「……う、」
どのような夢に苛まれるのか、幽かに呻いたユーグがそれでも、傍らの人形を求めて身を寄せ、その肩に額を押し当てる。
優しいと言っても良いほどの仕草で、トレスは肩に乗り上げたユーグの頭へと、じっと己の頬を押しつけた。
こうして夜を越すたびに、互いのプログラムが互いのプログラムに、ウィルスと作用して喰らい合い、そして更に喰らわんと求めていく。それを肌で感じ取りすらしながら、トレスは己の右腕に押しつけられた、愛しいウィルスの鼓動にひたすら耳を傾けた。
その思考が殺意を生じさせることはなく、その腕が銃を求めることはない。


この男を殺すのに、銃など不要であることを、もはやトレスは知っていたのだった。